.37 洗浄
「さいちゃん、質問していい?」 「なに、仕事の話?」 「違う。妹達とホテル行く時ってさぁ、ホテル代、割り勘してる?」 さいちゃんは動揺して持っていたノートを落とした。鳥が羽ばたく様な音がした。拾いながら「声でかい」と言われた。
「俺は全額俺持ちだけど、何で?」 「例の、高円寺の人ね。最近ホテル逢ってるんだけど、完全に割り勘なんだよ」 まじかよ、と目を丸くして私を凝視する。そして言った。 「ノッチ、それはおかしいって。そういう時は男が払う物だって。こんな事言うのもアレだけど、ノッチの身体だけが目当てって感じがするぞ、その男」
目の前が一瞬モノクロになった。ハンマーで頭をかち割られたような衝撃を感じた。身体だけが目当て。それは何となく、何となくだけど勘付いていた。それに、私だってそれで良いと思っていた。 だけど、それを言葉にして認めてしまったら、自分がとても惨めで仕方が無くなってしまう。だから耐えていた。 さいちゃん、君の言っている事は正しいと思う。セックスフレンド。1度はそれでも良いと腹を括った。その時だけでも自分を愛おしく思ってくれるのなら良いと。 だけど人間は欲深い。少しでも構ってもらえると、もっともっと欲しがる。追い求める。
そして状況は変わった。サトルさんに彼女が出来たのだ。常に愛おしく思う存在がいる中でサトルさんが私を愛おしく思うかどうかなんて関係ない。 ただの快楽のためのセックスに成り下がっているんだ。
「そうだよね。身体だけって感じだよね――」 「ちなみに昨日の夜、俺はノッチとセックスする夢見たよ」 「どうだった?」 「すっげぇー良かったよ。特にフェラが」 「妹に刺されて殺されてしまえ」
その週の水曜定例会の議題は、さいちゃんの見た夢とホテル代についてだった。 満場一致で「ホテル代は男持ち」となった。
久しぶりにひまわり太一君からメールが来た。
『ご無沙汰です。漫画、借りっぱなしでごめんね。 9月に新潟で、小規模だけどフェスがあります。ミキちゃんが好きそうなバンドが幾つか出るんだけど、こっちに来る予定はある? もしあるようだったら一緒に行きたいなと思って。あ、旦那さんと一緒に行くならそうしてね。ではでは。 漫画、凄いグロテスクだね』
新潟か。飛行機でも新幹線でも行けるな。正直言って、将太と一緒に行く気にはならないけど、1人なら行こうかな。 インターネットでメンツを調べてみると、なかなか興味をそそられる面々だったので、すぐに太一君に行く旨をメールし、チケットをとった。宿は、太一君の家に泊めてくれるそうだ。 ロックフェスが7月にあり、8月はタキとさいちゃん達と山中湖に泊まりで遊びに行く。9月は新潟でフェス。なかなか忙しい夏になりそうだ。 ロックフェスには結局1人で行く事になった。将太は仕事で、行けそうなら土曜と日曜に直接車で来るそうだ。まぁ、「みゆき」さんとよろしくやるのかもしれないので、無理強いはしなかった。「チケット代が勿体ないよ」とは言っておいた。
スキー場で行われるフェス、標高が高い山の中なので天候が変わりやすい。雨が降っても傘をさす事が禁止されているので、レインウエアで凌ぐ。今年も初日から雨だった。 SNSで知り合ったハルさんと、そのお友達(かつての私の同級生)福島君とお酒でも呑みましょうと連絡を取り合ったのは、雨が上がった夜だった。1番大きなステージのトリのライブを浅田さんと観て、「そいじゃ」とフードエリアに走った。
「ハルさん?」 「ミキさん?」 「おぉ、ちゃんと連絡取れたー」 「電波悪いからねぇ。奇跡的」 「あ、福島、こっちーっ」 ハルさんが大きく手を振る先には、見覚えのある顔の男性がいた。あぁ、福島君だ。 「なつかしぃ、中野さんでしょ?」 「懐かしいね、つか福島君、背が伸びたね」 福島君は顔は良いのだが背が小さかった覚えがあった。それが今では、かなりののっぽさん。 福島君はあいさつ程度に顔を出しただけで、真夜中のイベントに顔を出すらしく去って行った。
私はハルさんとしっぽり日本酒を呑みながら話をした。 「今日旦那さんは来ないの?」 「あぁ、多分来ないね」 「多分?」 「仕事があるんだか無いんだか、良く分からない」 レインウエアの前ファスナーを開けて換気する。ばたばたと羽ばたくような音がする。 「どこに泊まるの?」 「とりあえず今日はこのまま朝まで会場にいて、朝電車が動き出したら、お祖母ちゃんちに行って寝る、かな。そんでまた、夕方ぐらいにこっちに来る。」 タフだねぇ、と言われた。日本酒なんて普段呑まないから、何だか頭がクラクラしてくる。
その後は、翌日以降のフェスのラインナップの話や、私のブログの内容がしょうもないという話などをした。初めて会ったにしては話の尽きない人だった。 横浜に帰ったらフェス反省会と称して呑みに行こうと約束をした。
結局将太はフェスには来なかった。帰ると「仕事だったんだ」と言っていた。
そろそろ潮時かな、と思い始めた。私も彼も、お互いの事を考ええずに行動している。こんなのは夫婦でも何でもない。勿論、恋人でもない。 惰性で結婚を受け入れてしまった事を悔いた。 もし次があるのなら、結婚を「確実な物」として考え、全ての過去を清算して、「この人の為なら自分の自由を多少奪われてもいい」と思える人との間に、結婚を受け入れようと思った。
.38 顧(かえり)みる
フェスから帰ってすぐ、ハルさんと飲みに行った。ハルさんは気を遣って、洒落たレストランを予約してくれたが、「酒が高い」と言って結局2次会はオヤジ達が集まるような大衆酒場で、枝豆を突きながら酒を飲み、大いに喋った。 誰かとこんな風に言いたい事を言い合って騒いで笑って食べて飲んだのって、凄く久しぶりに感じた。太一君と花火をして以来?
「フェスの時、ミキちゃん、髪の毛ぐっちゃぐちゃだったよね」 女相手にこんな事を平気でヌカす人なのだ、ハルさんは。とても話しやすく、同じ年なので気を遣う事もない。
しこたま呑んで駅で別れた後、ハルさんから携帯にメールが来た。
『今日はありがとう。女の子と話してこんなに楽しかったのは久しぶりだったよ。出会いがもっと早ければ、俺が結婚してくれって言ったのにっ』
本当は笑ってしまう所なのだろうが、真剣に読んでしまう自分がいた。本当、こんな人が結婚相手だったら、毎日が楽しいんだろうな。タイミングの神様につくづく見放されている人生だ、そう思った。
それから3日と空けずにハルさんと映画を観に行った。 「ミキちゃんはトイレに入ってから出てくるのが異常に早い。どんだけの勢いで尿を出してるんだ」 と言われた。
そして3日と空けずにもう1本、映画を観に行った。 ハルさんはヒマだった。家業を手伝っていたがそれを辞め、新たに就職先を探している最中だったのだ。16時には退社する私と、渋谷や新宿で待ち合わせて映画を観た。 その日観たのは邦画で、芸人がメガホンを取ったB級映画だったが、なかなかの物だった。映画を観た後、何となく看板が目に入った焼き鳥のお店に入った。
ビールと枝豆と焼き鳥を前にして、ハルさんは言った。 「焼き鳥は、串から外して皿に乗せておかないと、喧嘩になる」 葱間を1本お皿からとると、お箸で器用に鶏肉をお皿にコロンと落としていく。 「それじゃ葱間にならないじゃん。鶏と葱じゃん」 「だが、それがいい」 そして次々に串からお肉を外していくのを見て、私も同じように串からお肉をコロンと落としていった。
「もう大人だから喧嘩しないけどね。でも、串に刺さった焼き鳥の最後の1個を食べる時に、どうやったら上品に食べられるのか、って考えなくていいから、この方法はいいね」 鶏肉が抜けた串を1ヶ所に纏めながらそう言うと、ハルさんは私の顔を覗き込みながら言った。 「上品に?上品に食べる方法なんて考えてんの?ミキちゃんが?寝言は寝て言ってくれ」 纏めた串を、ビールを持つハルさんの手の甲に付き立てた。イテッ、と言って、ビールが跳ねた。
「ところで、旦那さんとは映画に行ったりしないの?」 誰もが思う疑問なんだろう。「映画」じゃなくても、「買い物」でも「ライブ」でも、「旦那さんと行かないの?」と。何度、何人に訊かれた事か。 「うん、趣味合わないし。彼は彼のやりたい事やってるみたいだし。私は私でやりたいようにやってるのが性に合ってるというか」 「へぇ、うちの父ちゃんと母ちゃんなんて、未だにどこに行くにも一緒だし、風呂も一緒だし、物心ついた時にセックスしてるのも見掛けちゃったし、夫婦ってそんなもんだと思ってた。いつまでも初心忘れるべからず的な」 ハルさんのご両親はそうであっても、私の両親はそうではない。そして私と将太も。鶏肉とセットになっていた筈の葱を箸で挟みあげ、口に運んだ。鶏の旨みを吸った葱がとろけて口の中に拡散する。
「私はこうやって、旦那の知らない男の人と一緒に映画を観に行ったり、会ってお茶したり、呑みに行ったりしても、文句は言われない。それに、結婚1年にして既にセックスレス。」 「え、マジで?」 「マジで」 暫く私の顔を、口をあんぐり開けて見ていたハルさんだったが、急に下を向いて、それまでと少し違う、口籠る様な喋り方で言った。 「じゃぁ、旦那の知らない男の人達と会って、性欲を満たしてるって事か」 仲良しこよしのご両親の下で育ったハルさんにとっては、あってはならない事態なのだろう。
「男の人『達』ではないよ。1人しかいない。そういう関係は」 顔を上げて、またしても口をあんぐりと開けて暫く私見て、ぽつりと言った。 「そういう事、言っちゃうんだ」 「言っちゃったね」 「不倫だよね?」 「そうだね。もう色んな人に言われてるよ、その言葉」
私に対する印象ががらりと変わってしまったかも知れない、とは思ったが、嘘を言うのもおかしな話だと思ったから正直に話した。ハルさんは、その先を促すような視線をこちらへ向けたので、幸か不幸か、話しやすい雰囲気だった。 「その人とは、旦那と知り合う前からそういう関係で、その時は何というか、愛してくれてる気がしてたんだ。だけど、ここに来て、あれ?何か身体目当て?みたいに思えてきて。私も、情けないし、悲しいし、自分の気持ちのやり場に困ってしまってさ」 少し沈黙があった。私はコースターの上に乗った酎ハイをひと口呑み、ハルさんは「すみません」と店員に声を掛けてビールを頼んだ。そして言った。
「ミキちゃんと話してて思ったんだ。ふとした瞬間に、悲しそうな顔をする人だなって。心から笑えてるのかなって」 「え?」 「自分では分からないかも知れないけど、ゲラゲラ笑ってても、次の瞬間に冷たい空気が流れ込んでくるんだよ。だから今聞いた話で、その顔にも納得がいった」
自分では意識したことが無かった。誰にも指摘された事がなかった。もともと温度の低い人間だとは自覚していたが、今、根底にある将太に対するやり場のない気持ちや、サトルさんに対する侘しい気持ち、そんなものが滲み出ているんだろうか。 ハルさんはそれを感じ取ってくれている。
「俺なら自分の嫁さん、雁字搦めにして手元に置いておくけどね。ずっと笑わせておくけどね」 ハルさんなら可能ろう。そう思った。ハルさんのような人の嫁になれば、毎日幸福を感じる事が出来るかもしれない。 太一君の笑顔、ハルさんの優しさ、どうしてこうも、旦那以外にいい男が沢山いるんだろうか。私は何を間違えたのだろうか。
たった4回。ハルさんとはそれしか会っていないのに、何だか急速に惹かれて行くのが分かった。 見た目がおしゃれな訳ではない。顔だって中の中だ。性格も刺々しい所がある。でもそれらが新鮮で、話せば話すほど、惹かれた。
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