.25 香草
ひまわり君から、今週末東京に来る、とメールが来た。土曜日に映画を観に行かないかとの事だった。将太は土曜も出勤らしい。 「じゃ、私その人と映画行くわ」 「何観るの?」 「知らない。お勧めがあるみたいだよ」 自分の嫁が、誰とどこで何をしようと、あまり興味が無いのか、興味が無い振りをしているのか分からないが、何も訊いてこないのだ。将太は何を考えているのか良く分からない。
「日曜はバンドだから、帰りはタキと夕飯食べてから帰るね」 タキと、あとはインターネットで知り合った女性、合計5人の女性でバンドを組んでいる。タキはベース、私はギターボーカルだ。学生の頃はベースをやっていたが、何となくギターに興味が湧いて、1本買ってしまった。初めは「歌いながら弾くなんて」と思っていたが、慣れてしまえばそう難しいものでもなかった。
土曜日、ひまわり君、もとい太一君は私の最寄駅まで来てくれた。丁度お勧め映画は近くのシネコンで観る事が出来た。 「どうだった?面白かった?」 タイ料理屋でランチをした。私の大好きなヤムウンセンを突きながら、映画の話をした。 「面白かった。ホラー映画ってさぁ、観た後にだんだん笑えてこない?」 「あぁ分かる、ここで怖がらせたかったのかーって冷静に思うと、笑える。でも俺、陰から顔が見えた瞬間、ちょっとちびりそうたっだけどねぇ」 おんなじだ、この人のツボと私のツボ。私はチビリそうにはなってないけれど。 「だけど観ちゃうんだよなー、あの手の映画。オチは分かってるのにね」 ハハハーと笑うその顔は、やっぱりひまわりみたいで、吸い込まれる。素敵な笑顔だ。
「ミキちゃんは車の運転するの?」 「私はノーライセンスだよ」 ヤムウンセンからパクチーを拾って口に入れる。鼻腔に広がる独特の匂い。おいしい。 「じゃぁさ、今度レンタカー借りてドライブ行こうよ。あ、友達に車借りようかな」 どこに行きたい?何したい?とニコニコの笑顔で問われた。特に希望は無かったけど、唯一思いついたのは「雷門に行きたい。」だった。理由は、行った事が無いから。それだけ。それなのに太一君はとびっきりの笑顔で言うのだ。 「いいねぇ、俺も行った事ないんだよ。でも近くに美味しい天丼のお店があるっていうのはテレビで観たから、そこに行こう」
田口とは性格が全然違うけれど、田口と同じ安心感がある。田口は捻くれた笑顔しか捻り出さないけど、私を前向きにさせてくれる。それと同じだ、太一君。 新潟と神奈川じゃ、次がいつになるか分からないけれど、次は雷門ね、と約束をして、別れた。彼は明日夜行バスで新潟に帰るらしい。
翌日、昼過ぎからバンドのスタジオリハがあり、ミーティング後にタキと食事をした。 「で、新婚生活はどうなのよ」 タキは大して興味もなさそうに、ピラフの上に乗ったエビにフォークをさしながら訊いた。 「何も変わっちゃいないよ。何も変わっちゃいないぜ、俺達は、みたいな」 何の映画だったかのセリフを引用した。 「あんた、変わってないな」 そりゃそうだ。仕事が変わったわけでもない。子供が出来たわけでもない。変わる要素が無い。 「変わった事は、表札が小岩井になった事と、左手の薬指のコレ。指輪をしている事。そんだけ」 左の掌を広げると、さっきまでギターを触っていた指先が真っ赤になっていた。練習不足が祟った。痛いなぁと呟く。
「タキはどうなの、同僚君とは」 「もうダメかも。顔合わす度に喧嘩だもん」 タキの彼には一度会った事がある。何と言うか――気の弱そうな彼。タキにはもう少ししっかりした彼がお似合いだよな、と僭越ながら思ってしまったのだった。 「元彼とは連絡とってるの?」 「連絡取ってるも何も、ちょっとしたストーカーだよ、あの人」 タキから別れを切り出したのだが、元彼君は「別れない」の一点張りらしい。ま、それぐらい強い人の方が、似合ってる。そう思う。
店員さんに「お冷下さい」と告げてから言った。 「サトルさんって、覚えてる?」 「あぁ、あの何考えてるか分かんないヤリチン?」 随分酷い言い方だと思いつつ、「そうそう」と相槌を打つ。 「今、東京に住んでるんだって」 タキが私を上目使いで睨む。 「あんた、善からぬ事を考えてるんじゃなかろうね?人妻だよ?」 「善いか悪いかは別にして、会うつもりでいるんだけどね、つーか会いたいんだけどね」 はぁ、とため息をつくタキ。彼女に何度ため息を吐かせた事か。 「あんたさぁ、何で結婚したかなぁ」 「惰性」 「お前なんて流されてしまえ。惰性で島に流されてしまえ。そして永遠に帰ってくるなっ」
帰宅すると、将太はソファで膝にノートPCを乗せて座っていた。 「ただいま」 「お帰り」 「何やってんの?」 「オークション」 またか、と思いつつ、彼のやる事に干渉したくないので、私は自分のマッキントッシュを立ち上げて、拙い文章でブログの更新作業に入った。映画の感想でも載せておくか。
一緒に暮らすようになっても、お互いが勝手な作業をしている事が多く、タキの言う通り「何で結婚したんだろう」と思う事は多い。結婚する前の様に、何とかして会おうという熱意が無くなるのは当然で(だって一緒に住んでるし)、寝る時間もお互いずれるので、セックスの回数も激減した。そこに不満はない。が、結婚って、こういう物なの?と疑問には思うのだった。
自分の父と母を思い浮かべる。父は泊まり勤務の仕事で、家にいる時は母と喋るでもなく、枝豆を食べながらナイター中継を見ていたり、釣り具の手入れをしたりしていた。母は母で、録り貯めしたサスペンスドラマを見たり、買い物に出たりしていた。結局、2人が会話している場面って、食事時ぐらいだ。 子供を介さない限り、夫婦ってそんなものなんだろうか。新婚って、こんなに退屈なもの?
.26 ギブス
本格的な夏に入った。梅雨明け宣言が出され、連日強烈な日差しの中、自転車を漕いで通勤している。あぁ、日焼け止めぐらい塗らないと。そう思いつつ、面倒なので日陰を選んでフラフラ走行している。
職場には科学機器が沢山置いてある。排熱が高い機械も、熱に弱い機械もあるので、夏場はガンガン冷房をかけて室温を一定に保つ。冷え症の私には少し辛い実験室。そんな時は30度の培養室で少し温まる(37度だと流石に暑い)。 今日もそんな風に暖を取っていると、白衣のポケットに入れてあった携帯が震えた。メールの着信を告げる、短いものだった。 サトルさんからだ――。 携帯を手に培養室から走り出て、そのまま女子トイレに向かい、個室に入る。そしてメールを開く。
『こんにちは。毎日暑いけど、身体壊していないかい? 大きな仕事が終わって少し落ち着いたので、良かったら遊びに来ないかい?最近は料理をしてないから何もおもてなし出来ないけど、近況を聞きたいなと思っているよ。 では、返信待っています。』
メールを読んでいる間に誰かがトイレに入り、出て、電気を消された。私、居ますけど。
「例の彼からメールが来た」 さいちゃんに伝えると、ニヤリと笑うさいちゃんの顔が怖い。 「ついに会うの?」 「うん、会う。ヤるかどうかは分からないけどね」 居室に誰もいないのを良い事に、雑談。まぁ、実験の合間だから誰も文句は言わないのだけれど。
「俺は、ノッチは出来る子だと思ってる。なのでヤるに200円」 「何その理由。褒められてないし。でも私もヤるに200円」 「それじゃ賭けにならないじゃん」 「あ、そっか。じゃ小野さんと浅田さんにも賭けてもらうか」
その後、小野さんと浅田さんの職場へ赴き、それぞれに掛けてもらったが、2人とも「ヤらないに200円」だった。 小野さんは「何だかんだ言ってもノッチは理性を保つ」だそうで、浅田さんは「俺の中のノッチはそんな奴に踊らされるような女ではない」だそうだ。 本当に愉快な人達だ。彼らと雑談するために仕事に来ているようなものだと、最近、思うのだった。
「明日、東京の友達のとこに遊びに行く」
パソコンを見ながらマウスをせわしなく動かしている将太は画面を見たままで「東京のどこ?」と訊いてきた。 「高円寺」 「ふーん。あの辺、いい雑貨屋さんが多そうだよな」 カチカチ、クリックの音が家に響く。これ以上の会話は無い。たまに日付が変わる前に将太が帰宅しても、これといって会話が無いのだ。家で笑わなくなったな――そんな事を思いながらシャワーを浴びて、雑誌を見ながら買ってあったアイスキャンディを食べ、歯を磨いて寝た。
新宿で中央線に乗り換え、高円寺に着いた。
『駅に着きました』 『迎えに行くので、北口で待っててください。メッツがある方ね』
北口のメッツの壁に寄り掛かりながらサトルさんを待った。暑い。さっきまで耳にしていたイヤフォンを鞄に仕舞うと、蝉の声が耳を支配する。日が当たるアスファルトからは陽炎が見える。きっとサトルさんの部屋はエアコンがガンガンだ。自称「地球にやさしい男」はエアコンに頼りきっていた筈だ。
見た事のある姿の男性が、こちらへ歩いてくるのが見えた。白地に何かがプリントされているTシャツ、いつか見たマドラスチェックのショートパンツ、黒い短髪。線の細い身体。そこに乗る小さな頭。 手を振ったら、振りかえしてくれた。サトルさんだ。私も走り寄った。 「暑いね。そんなに遠くないんだ、家まで。行こう」 「うん」と頷いて、歩くサトルさんの後を追った。 私、うまく笑えてるかな。
駅から徒歩数分、古びたマンションの6階。そこにサトルさんの新居があった。タイル張りの壁面はところどころタイルが落ちている。エレベーターに乗るとロープがギシギシと音を放ち、振動する度に恐ろしい。 金属音がギィと響く玄関ドアを入ると、フローリングの部屋が2間続き、右手に和室がある。和室の窓からは風がスーッと入ってくるのが分かった。確かに1人で住むには広い部屋だ。大きな家具は無く、パソコン用の大きめのデスクと、ちゃぶ台があるぐらいだ。 「エアコンないんだ。風は多分通ると思うから」 開け放った窓からは、申し訳程度に風が入ってくる。玄関を閉めてしまうと、風の通りが悪くなるようだ。周りは住宅街で、高い木も崖もないので、蝉の声は随分下から聞こえてくる。
「ずいぶんエコな部屋になったねぇ」 「そうだろ、前の俺じゃ考えられない。開けた窓に腰掛けて吸う煙草がうまいんだ」 ちゃぶ台の所に座るよう促されて、そこに座った。サトルさんは早くも1本目の煙草に火をつける。 「風上で吸うのもアレですから」 そう言って、パソコンデスクに腰掛けて煙草を吸い始めた。
「その指輪は、もしかして例の彼から?」 サトルさんの中で、私の時は止まっている。恐らく、ユウの事を言っているのだろう。 「例の彼とはもう、入社前に別れたんだ。これは今の旦那から」 煙草から口を離し、口を開けたままサトルさんの動きが止まった。
「――旦那?」 ちゃぶ台に目線を落として頷いた。 「そう。結婚したんだ」 「マジで?何でいきなり? 「惰性」 「――ミキ嬢、変わってないね」 と言って表情を緩めた。 「そうか、旦那かぁ。ショックだなぁ。俺、何か凄くショック」 「それ、職場の人にも言われたからもういいよ」 苦笑してサトルさんの顔を見ると、サトルさんは笑っていなかった。 「俺は本気で言ってるんだよ。ショックだって。ミキ嬢が結婚するなんて、俺はショックだよ」
何て返せば良いのか分からず困った。私はサトルさんの事が好きだった。いや、今も好きだ。だけどサトルさんの気持ちは最後までふわふわで分からなかった。今「ショックだ」と言われている事さえ、真意が分からない。いつまでたってもふわふわだ。
吸っていた煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、私の座る隣へ来て、腰を下ろした。 「それで、新婚生活は順調なの?」 殆ど尋問口調だ。私はサトルさんと目を合わす事が出来ず、下を向いたままで答えた。 「結婚って、こんなに味気ないものなのかって思ってる。思っていた以上に、退屈」 「退屈?」 「うん、退屈。結婚する前と変わった事なんて、住居と苗字だけ。あとは会話は減ったしセックスも減った。結婚してもしなくても、あんまり変わらないかな。逆に――」
「ミキ嬢?」 サトルさんが私の顔を覗き込んだ。そして華奢な掌で私の頬を優しく包み込んだ。目をじっと見て言った。 「ミキ嬢が結婚して、俺はショックだよ。だけど、結婚して幸せになってくれるなら俺は諦めがつく。今のミキ嬢は、幸せな顔をしてないし、笑顔が笑ってない。そんな顔を見るのは御免だよ」 そしてその手を離し、私をぎゅっと抱きしめた。 「サトルさん、私、どうしたらいいんだろう」 サトルさんの肩に頭を乗せて、抑揚無く呟く。 「幸せになりなよ。毎日旦那の顔を見るのが楽しみだって気分にならないと結婚じゃないよ。二人で笑いあえない結婚なんて、おかしいよ」 そういってさらに抱きしめる腕が強くなる。 「――うん」 目の前が霞んで見える。下まぶたに何かが溜まる。 「ミキ嬢、泣いてる?」 「泣いて――ない――」 しゃくり上げながら答えた。好きな人に「幸せになりなよ」なんて言われたら、嬉しくて悲しい。本当は、あなたと幸せになりたいのに。あなたとなら、私は幸せになれるのに。私は。少なくとも私は。諦めがつく?何なのそれ、ふわふわ過ぎて分からない。
頭を撫でられ、暫く強く抱かれたままだったが、その力が弱まったと思うとそのまま床に背中を預け、サトルさんとセックスをした。1年のブランクなんて感じない、あの時の匂い、あの時の声、あの時の温もり。 今この瞬間が最高に幸せなのに、それを持続的に与えてくれようとしないのは、あなたではないですか。この幸せが永久に続くなら、私は毎日心から笑って過ごせるのに。
煙草に火をつけたサトルさんは、窓枠に片膝を立てて座った。煙草の煙はゆっくり、ゆっくりと私のいる所へと届くと思いきや、手前で散り散りになって消えていく。 「しちゃって、良かったのかなぁ」 サトルさんがぽつりと呟いた。 「私が『幸せだ』って言ったら、どうします?」 「また明日も来て、って言う」 煙草の煙を吐きながら、サトルさんは照れたように笑って言った。
小野さん、浅田さん、あなた達の負けです
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