.21 大輪
新社会人としての生活が始まった。全く経験のない事が仕事として与えられ、毎日が勉強。それでも周囲に迷惑を掛けない様に、手を動かし、頭を動かす。あっという間に時間という物は過ぎていく。 社会人になってもまだ、女性グループへの苦手意識は薄れず、腹を割って話せる相手は、同じグループで仕事をしている、3歳上の同期の斉藤君、あだ名は「さいちゃん」だ。彼は某有名大学の大学院を卒業している超エリートなのだが、話をするとそんな片鱗も見せない。ただのエロで話し上手で中2脳、そして「超イケメン」なのであった。おまけに女癖が物凄く悪い。 ユウと別れてから暫く、大人しくサトルさんからの連絡を待っていたが、新しい仕事で忙しいのか、連絡はなかった。私は入社して間もなく、同期女性に「人数合わせにお願い」と頼まれた合コンで知り合った、3歳年上の小岩井将太という男と付き合っている。 将太は、某有名建設会社に勤務している、ごくフツーの男で、音楽の趣味が合ったのがきっかけで、合コン後も何度か会い、何となく付き合った。付き合ってくれと言われたような、言われていないような、そんな何となくな付き合いだが、もう1年以上の付き合いになる。私は入社2年目に入っていた。 「今日は4時にあがりまーす」 パソコンに目を落としていたさいちゃんがこちらへ向いた。 「え、何、デート?それとも浮気?」 声がデカい、と一瞥。 「ライブ。渋谷で待ち合わせしてんだわ。あ、相手は将太だからね」 今日はパンクロックバンドが幾つか集まるイベントが行われる。将太とは現地で待ち合わせる事になっている。 白衣の下は相変わらず、スニーカーにTシャツなんていう色気のない服装で、仕事をしに来ているのか、遊びに来ているのか。時々守衛さんが目を丸くしている事があるが、見て見ぬフリをしている。 株式会社水原。業界大手のメーカーで、福利厚生等が手厚い。フレックスタイムを採用しているため、私は朝6時半から働いて、誰よりも早く帰る。そんな事が許される会社であり、職場環境だ。そんな訳で、仕事で稼いだお金は家賃とライブのチケットに消えていく。 白衣を脱いで椅子の背に掛ける。学生時代よりは幾らか丁寧に畳むようになった(洗濯も、それなりの頻度で行っています)。 「お先に失礼しまーす」 「お疲れー」
自由になるお金が増えて、ライブに行く事が増えてから、渋谷という街が身近になった。以前は「トウキョウコワイ」とかカタコトでふざけていたものだ。 目的のライブハウスへ向かう途中で携帯が震えた。将太からだった。 『ごめん、今日、仕事抜けられなくなった。埋め合わせは今度します。ほんとごめん。』 こんな事は日常茶飯事だ。何度予定をすっぽかされた事か。まぁ、理由が仕事なら仕方がない。 将太の会社は、当たり前の様に真夜中まで仕事をさせられるような会社だ。職場から直接、私の家に来る事があるが、大抵夜中だ。たまにライブのチケットをとっても、10回中7回は『ごめん』のメールを見る羽目になっている。勿論、埋め合わせなんてものはされた事はない。求めてもいない。 携帯をウエストバッグにしまい、ライブハウスへ向かった。
1人でライブに来る事にも慣れた。何物にも縛られずにゆっくりライブが楽しめると考えると、1人っていうのも悪くない。開演まで時間があったので、人で溢れるロビーの隅にあったベンチに腰かけた。ロビーでは、友達同士、恋人同士、開演を待ちわびて「このテンションどうしたらいいのー」という感じで落ち着きなく動き回る人が沢山いた。出馬前の暴れ馬だ。落ち着け。暴れるのはライブ中にしろ。こういう時間は正直な所、寂しさもあったりする。 「あのぉ――」 声がする方に振り向くと、短髪で色白の男性が不安げな顔をして座っていた。隣にいたんだ。気配を消してやがったか? 「携帯、貸してもらえたり、しません?」 とても控えめに大胆なお願いをしてきた。 「えっ、あ、どうぞ。落としちゃったんですか?」 携帯を鞄から取り出し、手渡した。ライブ始まってもいないのに、携帯落とすって、どんなドジっ子だよ。 「俺、新潟から来たんですけど、家に携帯置いて来ちゃって。こっちの友達と連絡が取れなくて困ってたんですよ。いや、番号は手帳に書いてあるんですけど、公衆電話って今、あんまり無いでしょう」 彼は鞄から焦げ茶色の革の手帳を取り出した。ページをめくり、指先で小さな文字を追い、携帯に入力した。手帳は几帳面な文字が並んでいた。今時、携帯番号を手帳に控えている若者なんているんだな。 「あ、もしもし?太一だけど、携帯忘れて来ちゃって、親切な人に借りてるんだけど、え、そうなの?まじでか。じゃぁ終わったらお前ん家行くわ。うん、そんじゃねー」
通話が終わり、彼は携帯のディスプレイをタオルでぎゅぎゅっと拭い「ありがとう」と言って返してくれた。 「お友達さんと連絡取れました?」 携帯をしまいながら、特に興味もないが、社交辞令としてとりあえず聞いた。 「それが、仕事で来れなくなったんですよ。1人でライブ観て帰る事になっちゃいましたよ、アハハ」 何が楽しくて笑っているのか分からないけれど、この人の笑顔って爽やかで素敵だな、と思った。 「私も1人ですよ。1人って気楽でいいですよ」 「1人より2人でしょう、一緒に観ません?」 な、ナンパ?何だろうこの人、ナチュラルにナンパしてる? 「私、モッシュピット行かないで後ろから観てますけど、それで良ければ」 俺もです、と言って、さっきまでの不安げな顔なんて思い出せないぐらい、カラリとした笑顔をしている。ひまわり、そうだ、ひまわりみたいだ。 「ひまわり君って呼んでもいいですか?それと、敬語はやめません?同じ年ぐらいでしょ?」 勝手なネーミングだが、「名前は?」と訊くのは少し気恥ずかしかったのだ。 「ひまわり君?いいですけど、あ、いいけど何で?俺は22歳。同じぐらい?」 「お、ビンゴ。私も22歳。ひまわり君のあだ名の由来は教えてあげない。私はミキでいいよ」 ひまわり君は、その笑顔を崩さずに、私の話に頷いていた。
ロビーにいた人が一斉に動き始めるとともに、場内から音が響いた。 「あ、私オープニングアクト観ないから、観たかったらどうぞ。私ここにいる」 「奇遇。俺も見ない」 そう言ってまたひまわりの様な笑顔を寄越す。何かこう――惹かれる笑顔だ。 オープニングアクトが終わるまで、お互いの身の上の話をした。ひまわり君は新潟で公務員をやっているらしい。大学は東京にあったので東京で暮らしていた事もある、と。新潟は故郷だけど、1人暮らしをしているそうだ。ちなみにナンパは初めてだとの事。あ、やっぱりナンパだったのか。 大体音楽の趣味も似たり寄ったりで、その他にも好きな漫画も小説も共通する部分があり、お互い驚いた。驚いてまた、ひまわりの様に笑う。 「さて、行きますか」 私から声を掛け、席を立った。新潟から来ているにしては軽装な彼は、大きな荷物はクロークに入れてきたんだろう。ウエストバッグだけだった。仕事帰りの私ともウエストバッグひとつだ。自分がいかに軽装で仕事に行っているかを思い知る。
ライブ中は、無駄口叩かずに大人しく観ていた。五月蠅く話しかけて来たら離れてやろうと思っていたが、ひまわり君もライブに熱中していたのだろう。大人しかった。
ライブが終わり、クロークから荷物を取り出したひまわり君と、渋谷の駅まで一緒に歩いた。 「いつも1人でライブに来るの?」 「いつもじゃないよ。大抵彼氏が仕事で来れなくなるから、1人になってしまうって感じ」 忙しい人なんだわ、と付け加える。 「ひまわり君は、こっちにはよく来るの?」 「新潟じゃあんまりライブもないしね。今日みたいに金曜の夜とか土日なら東京まで来る事あるよ。まぁそんなにしょっちゅうは来れないね」 歩きながら鞄の中をごそごそと探り、手帳と同じ焦げ茶色の小さなケースから、1枚の白い紙を取り出し、私に寄こした。 「これ名刺。ひまわりの『ひま』は『暇人』の『暇』ではないよね?」 本当に公務員だ。ひまわりの「ひま」は勿論「暇」ではない。 「違うよ、笑った顔がひまわりみたいだったから言ったの。本当の名前は原田太一君というんだね」 へぇ、と言いながら名刺をひっくり返して「こっちは英語か」と呟いた。 「ひまわりみたいなんて言われた事ないよ。そうだ、後で友達の携帯で履歴調べるから、電話しても大丈夫?今日のお礼、今度したいし」 「お礼なんていいよ。電話貸しただけだし」 「電話代払ってないからさぁ」 「別にいらないし。私もいっぱしの社会人ですので」 「ミキちゃんって面白いね。気に入った。やっぱり絶対電話する」 そこだけやけに強い口調で断言し、「それじゃ俺こっちだから」と別の改札口へ向かって行った。
帰宅したのは日付が変わる頃だった。すぐにシャワーを浴び、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、コップに注いだ。 『私が男友達と会ったりライブに行ったりする事にいちいち過剰に干渉しないでね。』 将太にはそう言ってある。今日ひまわり君もとい原田太一君と知り合った事を話しても、「ふーん」で終わるのだろう。束縛というものは、されると面倒だが、されないと寂しいものだ。麦茶をごくごくと飲みながら、そんな事を考える。 明日は休みだし、ちょっとテレビでも観てから寝るかと思い、リモコンを探していると、携帯が鳴った。知らない番号からだった。 「もしもし?」 『あ、さっきの、太一です。ひまわりの』 「あぁ、ひまわり君」 リモコン探しを諦め、布団の上にでんと座った。 『ひまわり君ってやめてよ、太一でいいよ。遅くにごめんね、寝てた?』 「寝てないよ。して太一君、誰の電話を使っているんだい?」 『友達の携帯。とりあえず今日のお礼は今日のうちにしておこうと思って』 何て律儀なんだ。というかお礼なら渋谷で何度も言われたと記憶している。同じ動作を繰り返す、からくり人形を思い出す。 「わざわざどうも」 『新潟に戻ったら、携帯に電話してもいい?』 この人、結構厚かましいかも。でも憎めない感じがして、ふふっと顔がほころんでしまった。 「いいけど、電話よりはメールの方が助かる。仕事もあるし、彼氏もいるし」 「あ、そうか。じゃぁメールアドレス教えてくれる?」 私が言うアドレスを、おそらくは彼の焦げ茶色の手帳に書き込んでいるんだろう。復唱した後、彼は言った。 『じゃぁ新潟に帰ったらメールするから』 ひまわりの様な笑顔が携帯のあちら側に一瞬、見えたような気がした。厚かましく笑うひまわり。嫌いじゃない。私にはない、底抜けな明るさがそこには垣間見えた。
.22 漂流する
「いらっしゃい」 玄関のドアを開き、将太が部屋に入る。 「一昨日はごめんね。また例の上司がどっさり資料持ってきちゃって」 頭をぼりぼりと掻きながら頭を傾げた。 「別にいいよ。いつもの事だし。それに面白い人に出会ったし」 え?と頭を上げた将太は食いついてきた。 「誰、何それ?男?女?」 「男。新潟から来てるんだって。ひまわり君っていうんだけどね。以下省略」 予め淹れておいたコーヒーをカップに注ぎ、テーブルに置く。客人でもないのに、将太が家に来る時は必ず、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。コーヒーの香ばしい匂いに、思わず深呼吸をしてしまう。カフェイン浴だ。
「それにしても、入社2年目でそれだけの仕事をさせられるってのも、大変だね」 他人事だ。私は2年目だが、「やる事をやって帰る」を基本としているので、仕事が大変だと思った事が殆どない。会社のスタンスも違うのだろう。私の職場は「結果こそ全て」な感じだが、将太の職場は昔ながらの「馬車馬の如く努力したものが報われる」みたいな所がある。 「まぁね。家庭が出来れば上司も、考え方を変えてくれるのかなぁとも思うけどね。嫁さんが待ってるだろ、早く帰れ、みたいな」 そんな物だろうか。「ただの社風じゃないかなぁ」と呟きながらコーヒーとずずっとすすった。
「そんな訳でさ、ミキ、結婚しよう」 そうだよね、家庭が出来れば仕事も―― 「――はぁ?今何つった?」 「だから結婚しようって」 何言ってんのこの人、仕事が大変だから結婚しちゃえって事か?仕事のし過ぎで頭パーンってなったのか?おかしくないか? 「ちょ、ま、落ち着け、落ち着け、特に私。結婚したからって仕事が楽になると決まった訳じゃないんだよ?」 手に持っていたカップを落としそうだったので、とりあえずソーサーに戻す。手が震えている。 「分かってるよ。仕事の事は、言い訳っつーか――ストレートにプロポーズするのが恥ずかしかったからちょっと遠回しに言ってみたまでで」 ストレートに言えよ、と思い、少し膨れっ面になった。
大概女という生き物は、プロポーズには全く勝手な憧れを抱いているものだ。高層ビルの最上階にあるレストランの窓際で、とか、夜の公園で、とか、セックスの後で、とか。婚約指輪が入った小さな箱をどこかに隠して。 それが何だ、この状況。お茶飲みながらしっぽりプロポーズ。老後の縁側かっ。
「断る理由はないけど、それでもちょっとだけ考えさせて」 「うん」 「それと、前にも言ったけど、私が誰と遊ぼうが誰と会おうが、過度に干渉しないっていうのは結婚後も続行ね」 「うん。他には?」 「考えついたら付け加える」
どうしてこうなるかな。どうして私ペースの付き合いになるかな。将太は何も言わない。何もかも、私の言う通りに、思うとおりにやらせてくれる。私は誰かを振り回したいわけではない。逆に、誰かに翻弄されたりしたい。恋愛の駆け引きなんかがあってもいいと思っている。そう、サトルさんみたいにふわふわの人との駆け引きなんて、最高で最低だった。 「ミキらしくていいね」 そういうと私の腰を抱いてキスを落とした。そして1週間ぶりのセックスをした。
「ちょっと落ち着け。本当にそれでいいの?まだ22歳だよ?やりたい事とかないの?」 タキは顔を真っ赤にしながら熱弁をふるっている。私が余りにもストレートに「結婚する」と言ったからだ。 「やりたい事なんてこれからやるよ。結婚は何つーか、区切り?別に何が変わる訳でもないし」 よく考えてみたら、結婚したら一緒に住む以外に、何か変わる事があるんだろうか。当面何ら変わる事はないと思うのだが。
「止めやしないけどさぁ、後悔しない?別に子供が欲しいとか、できちゃったーとか、結婚しないとまずい状況じゃないんでしょ?」 「ないよ、でもいつかするなら、今でもいいじゃん。断る理由が見つからない。相手を嫌ってもいないのに、プロポーズ蹴って、別れるってのもおかしな話じゃないですか」」 タキは額に手を当てて俯いてしまった。 「あんたには感服だよ。肝が据わってるよ。何も言う事はない。嫁に行け。そして帰ってくるな」 そう言って顔を上げ、チョコレートパフェの底にあったシリアルをぼりぼり食べていた。
タキは、職場に近い所にアパートを借り、1人暮らしをしている。私の職場にも近いので、時々こうして顔を合わせてご飯を食べに行ったりする。 長年付き合っていた彼とは別れた。その代り、職場の同僚と付き合っている。そういえば、こいつも公務員だったっけ。
「そういえばね、この前ライブ行った時に、面白い人と知り合いになったんだよ。ひまわりみたいなヒト」 「男?」 「そう」 タキは目を瞑って絶句していた。「また男かいな」
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