.17 志保
今日のバーベキューは上出来だった。何がって、明良を会社の方々に紹介できたし。バーベキュー自体も楽しかったし。 明良はずっと笑っていたし(営業スマイルである事は薄ら気づいていたが)。 家に着くまで手を繋いでいた。 明良の腕から明良の幸せエキスが注がれて、私の胸の中一杯に広がる。 幸せは自分で掴む物とは言うけれど、私は明良から幸せを貰っている。 そして私の指の先からは私の幸せエキスが明良に向かって流れて行く。
懸念していた鈴宮君の事も、取り越し苦労だった。鈴宮君と明良は笑顔で会話していた。 私はずっと明良の横にいた。これで私と鈴宮君が「仕事だけの関係」である事を納得してくれたと思った。思っていた。
玄関を開け、中に入る。蒸し風呂のような湿気が室内を占拠している。 まだ夕日が射している居間の掃出し窓を全開にし、扇風機を回す。明良は洗面所に手を洗いに行った。 キッチンには小窓がある。ここを開けると掃出し窓から入った風が室内を通って小窓から抜けて行く。 その窓を開けにキッチンへ入ろうとすると、奥の洗面所から出てきた明良に突然、腕を掴まれた。 さっきまであった笑顔は、皮を1枚剥いだ様に失われている。あぁ、また私、何かやっちゃったのかも――。
腕を掴まれたまま居間へ引きずられる。裸足の踵が畳を滑り、熱くなる。乱暴にソファに投げ出された。今日はソファで良かった。痛くない。 「鈴宮と、随分楽しそうにしてたな、お前」 鈴宮君と話をしていたのなんて、ほんの一瞬だ。 確か、明良の事を褒めてくれたんじゃなかったっけ。そんな一瞬の出来事を――。
「アイツに握られた手はどうなってる。あ?」 そう言って私の右手首をグイっと掴んだ。 「汚らわしいんだよ。あんな奴に触られてんじゃねぇよ。ここから全部、ちょん切ってやりてぇぐらいだよ」 私はちょっと笑いそうになった。そんなの洗えば済む問題じゃん。子供みたいにムキになって。 まさか、思っている事が顔に出ているとは思わなかった。 「笑ってんじゃねぇよ。お前は隙がありすぎなんだよ」 脇腹を蹴られた。身体が無理な方向に撓る。作用があれば反作用。すぐに真直ぐに戻る私の身体は健康だ。
明良は私の右手を放し、ガムテープや梱包用具が入った箱から、白いビニール紐と鋏を取り出し戻ってきた。 夕日が照り付ける居間は、申し訳程度の風が入るだけで、暑い。あぁ、キッチンの小窓を開けたい。 帰り道でかいた汗は引かず、更に汗が噴き出してくる。
両手をバンザイの様に高く上げられ、ビニール紐で手首をきつく巻かれた。何重にも、何重にも。 固結びにされた紐は、私の手首だけではない、腕の動きも封じてしまった。 「お前の手は汚いからな、俺とつながる事は許せない。俺とお前から暫く隔離しておく」 そう言ってワンピースの中に手を入れ、ショーツを脱がせた。 ソファに凭れ掛かる私の髪を掴んで、畳の上に乱暴に落とされる。後頭葉から前頭葉にグラデーションが出来る様に一瞬冷たくなる。 前戯も何もない、挿入だけのセックス。同意のないセックス。強姦。 明良が抜き差しする度に手首に痛みが走った。こんな事で明良が満足するならお安い御用だ。身体なんて減る物じゃない。いくら犯されたって私は明良の物だ。 大丈夫、少し我慢すればすぐ終わるから。
ワンピースの胸の辺りに、明良の精が吐き出された。明良の額から落ちる汗も、私のワンピースが吸収している。 あぁ、シミになる前に洗わないと。そう思うのだが、身体が動かない。 腕が縛り上げられているだけで、人間と言うのはなかなか自由に動けない物なのだと悟る。 明良がシャワーを浴びている音がする。吐精されてから今までの経緯を忘れている事から、どうやら気を失っていたのではないかと気づく。 あぁ、窓を開けたい。どうにかして身体を起こせないか考える。うつ伏せになってしまったら、畳が汚れる。どうにか腹筋を駆使して――。動こうとすると手首が紐に締め付けられる。
ガシャっと風呂場から折り畳みドアが開かれる音がした。 「明良、キッチンの窓開けてくれない?」 あぁ、と言ってガラガラと窓が開く音がした。明良はボクサーパンツだけを身に着け、タオルで頭をゴシゴシ拭きながら居間に入ってきた。そして私見て目を剥いた。 「志保、お前そんな格好でずっといたのか――」 あぁ始まった、第2の人格。自分がした事の半分は記憶から欠落しているんだろうな。 「汗びっしょりじゃんか、腕、外すよ」 出しっ放しになっていた鋏を持ってきて、紐を切った。身体を起こすと、白い短い紐が十本転がっていた。 手首には真っ赤な痕がついている。きっと本物のSMで使うロープは、こんな風に汚らしい痕はつかないんだろうな。 細かい皺の様に赤い線が走っている手首を見て、そう思った。身体を起こし、ソファに凭れた。
「とりあえずその服、脱がないと」 ソファに凭れて座る私はまるで人形の様に動かない。動けない。 腰まで捲れているワンピースを脱がすのはそう難しい事ではなく、明良が脱がした。 私の傍に膝をついて座り、そして私の頭を抱いた。ボディソープの匂いがする。 「俺はこんな事がしたいんじゃないんだ。お前が俺から離れて行くのが心配でならないんだよ。お前の事を他の奴らが気安く触る事が許せないんだよ。分かってくれるよね、志保?」 「ん」 静かに頷いた。シャワー、とだけ言って私はフラフラする身体を何とか立ち上がらせ、その場を離れた。
.18 朋美
その日、志保ちゃんは薄手の長袖Tシャツを着てきた。 数多の蝉が壊れた弦楽器の様な耳障りな音を発している。アスファルトからは陽炎が昇る。 最高気温は35度を超える酷暑日に、どうしたんだろう。日焼けでも気にしているんだろうか、はたまた過剰な冷房を懸念しているんだろうか。 それとも何か隠したい物がある、とか――。私は敢えてそれには触れないでおいた。
「新しいワンピースを買おうと思って」 そう言っていた。私達は駅前にあるショッピングモールに入り、色々な店を見て歩いた。ノースリーブの着易そうな物、と志保ちゃんが言っていたので、それに見合いそうな物を一緒に探した。 「これなんてどう?似合いそうだけど。」 グレーと紺の斜めボーダーが不規則に入った、ジャージ素材のワンピースは、色が白くて華奢な志保ちゃんに似合いそうだった。 「ノースリーブというかタンクになっちゃうけど」 「うん、これにする」 ろくに検討もせずに返事をするので驚いた。 「え、試着は?」 それなりのお値段がするワンピースだった。試着しないで買って大丈夫なんだろうか。 「うん、大丈夫。このサイズなら大丈夫だよ」
以前私が買ったニットワンピースを志保ちゃんに譲った事があった。 バーゲンで試着室は大行列しており、待てなかった私はデザインが気に入っただけでそのワンピースを購入した。 帰宅して着てみると、お世辞にもスタイルが良いとは言えない身体のラインがキッチリ見えてしまって、それはそれはとても残念なワンピースになってしまったからだ。 その時に志保ちゃんは「試着しないで買うなんてダメだよ」と私を咎めていた。 華奢な志保ちゃんが私と同じような失敗を犯すとは考えられないが、それでも試着をしないで洋服を買う志保ちゃんの行動が、不可解だった。 長袖Tシャツ。試着しないで服を買う。一体どうしだんだろう。
その後、いつものコースでカフェ「ディーバ」へ向かった。 通りには日焼け防止のアームカバーをしている女性や、それ用のカーディガンを羽織っている人は見かけたが、やはり志保ちゃんの長袖は少し浮いて見えた。
各々がカウンターで飲み物を頼んだ。今日は窓際の席は空いておらず、先に品物を受け取った志保ちゃんは奥まったソファ席に座って待っていた。 「今日もカフェモカ?」 「うん、さすがにアイスだけどね」 私は前回の挽回で、マンゴーフラペチーノを頼んだ。ひと口含むと、甘ったるいマンゴーソースが口に広がる。冷たさが一瞬、頭に衝撃を与える。 「昨日職場のバーベキューがあってさ」 「どこで?」 「多摩川で。めちゃ暑かった」 昨日も酷暑日だった。あんな所で日光を浴びながら焼肉なんてやったら、自分が焦げてしまいそうだ。 「日焼けしなかった?」 「うん、先輩が朝8時から高架下を陣取ってくれてて」 8時だよ?笑いながら志保ちゃんは言った。私もつられて笑った。 カフェモカをひと口飲むと、少し、私の方までチョコレートの香りがした。
「そうそう、明良も一緒に行ったんだ」 「え?そうなの?凄い意外。一緒に行きそうもないイメージ。」 「何その勝手なイメージは」 可愛い睨みを利かせながらニコニコしている。 あの嫉妬深い彼が、職場のイベントに。 まぁ、職場の面々を知る事で、要らぬ嫉妬が減って良いのかもしれない。そんな風に思った。
「で、楽しかった?」 一瞬、志保ちゃんの顔が曇った。こういう陰りを見せる事が時々ある。特に、彼の話をしていると。 「うん、彼は営業職だから、結構色んな人と話を合わせて、うまくやってたよ。疲れちゃったかもね」 私は志保ちゃんが楽しかったかどうかを訊いたんだけど。何故か彼の話になっている。 志保ちゃんがカフェモカの入った紙容器を少し揺らすと、こちらの席までチョコレートの匂いがする。 「あぁ、カフェモカが甘すぎて喉が渇く」 すみませーん、と志保ちゃんが手を挙げて店員さんを呼んだ。 その瞬間、思わず「あっ」と声を上げてしまった。慌てて両手で口を塞ぐ。 志保ちゃんの上げた腕の袖口から見えた手首に、真っ赤な筋が幾重にも渡ってついているのが見えた。 私の手は無意識に震えていた。
「あ、お冷をひとつ、あ、ふたつ下さい」 かしこまりました、と店員さんがカウンターへ戻っていったのを見計らって、震える手を志保ちゃんの手に伸ばした。 志保ちゃんは手を引っ込めようとしたが、私がそれを阻んだ。志保ちゃんが息を呑む音が聞こえるような気がした。 「これ、どうしたの?普通の傷じゃないよね」 両手を付き合わせた。内側だけに痕が無い。 「ちょっと怪我」 「怪我じゃないよ、これ。こうやって、縛られたんじゃないの?」 痕が無い内側をくっ付けて、志保ちゃんを見た。自然に、鋭い視線になっていたと思う。 「ん、まぁそれはあれだよ、プレイ?そういうプレイだよ。恥ずかしい事言わせないでよ、カフェで」 そう言って志保ちゃんは私の手を振り解いた。 そう言われたら、これ以上追及は出来ない。プレイだと言われたらそれまでだ。 彼にも、志保ちゃんにも、そういう嗜好があるのかも知れない。 それにしても――嫉妬深い彼。このカフェでの目撃事件。バーベキューの事を話す時の、一瞬の陰り。腕の痕。 私の頭の中には「DV」と言う言葉がちらついた。 まさか意志の強い志保ちゃんが、そんな事に巻き込まれる筈はない。 だがしかし、相手の彼は幼い頃から一緒に過ごした結びつきの強い相手だ。 彼に対する愛情や情が強いあまり、拒否できない可能性も否定できない。 私の勘は結構当たる(他の事で使いたい位なんだけど)。 これ以上悪い事が起こらないように。そう思わずにはいられなかった。
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