.9 志保
朝の天気予報で、「夕方から雷雨になる恐れがあります」とお天気お姉さんが言っていた。その通りになった。 長傘は鈴宮君に貸し、私は折り畳み傘をさして帰った。傘に当たる雨の音で、周囲の音がかき消されてしまうような雨。 「バケツをひっくり返したような」という形容がぴったりの雨だった。傘をさしていても、肩や鞄はびしょびしょになってしまった。雷も激しく、鳴る度にビクンと震えた。 雷が嫌いだ。雷が鳴る度に、施設の1階にある物置部屋の隅に隠れて泣いていた。 『雷様がお臍を持って行ってしまう』という今にしてみればどうでもいい迷信を信じ、しかも『自分の大事な物も持って行かれてしまう』という付加的な恐怖まで勝手に想像し、小さく震えていたのだ。 そんな事が何度かあり、「志保ちゃんは雷の度に何処かへ姿を消す」と言われ、私が逃げ込む場所を1番初めに見つけたのが明良だった。
「大丈夫、少し我慢すればすぐ終わるから」 そう言って私の背中をさすってくれた。頭を撫でてくれた。今は雷が鳴らなくても思い出す。 「少し我慢すればすぐ終わるから」 勿論、別の意味で。
家に着いてからも雨脚は弱まらず(辛うじて雷は収まった)、換気扇の向こう側からバシャシャと雨音が響いていた。 換気扇を回すとその音が少し遠くなる。夕飯の支度を始めた。もうそろそろ明良が帰ってくるだろう。
タレに漬けた肉を炒めていると、明良が帰ってきた。ただいま、とひと言あって居間へ入ってきた。 「お帰り、雨凄かったけど大丈夫?」 振り返ると、私と同じく両肩を雨に濡らした明良が顔を顰めていた。 「凄い降り方だな。いつ止むんだろ」 私は洗面所にタオルを取りに行き、明良に渡した。彼は着ていたシャツをその場で脱いだので、それを受け取り洗濯機に入れに行った。濡れた鞄をタオルで拭きながら「あれ」と明良が言った。視線は玄関に向いている。 「お前何で折り畳みなの?今日傘持ってったよね?」 「あぁ、貸したの。同期の鈴みっ――やっ――」 明良の顔が一気に曇った。私はその場に立ち尽くした。暫く沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは明良だった。 「飯、作ってるんでしょ。腹減った」 その言葉には表情や抑揚が全く感じられなかった。私は黙ってキッチンへ戻り、肉を炒めた。
いつもそうだ。1度は許したように見えて、あとからドカンと怒りが襲ってくるのだ。嫉妬の怒りが。 テーブルに料理を並べ、2人手を合わせていただきますと言った。それから食べ終わるまで、一切会話は無かった。 食事を終えて食器の洗い物をした。風呂を洗い、お湯を張り始めた。浴室からはジャバジャバとお湯が落ちる音が聞こえる。 明良はソファに横になって、テレビでナイター中継を観ていた。私はソファの下に座り、一緒にナイターを見始めた。 グゥッ、と変な声が出てしまった。後ろから腕で首を絞められたからだ。
「何で傘なんて貸すんだよ」 ほら来た、急に始まるんだから。 「くるし、から、しゃべれ、な――」 畳に押し倒された。ドン、と音がした。階下の人がびっくりしただろうか。 両方の二の腕をギュッと掴んで床に押し付けられる。正気とは思えない明良の顔に慄然とした。 「何なんだよ、お前は何で俺の気に障るような事ばっかりやるんだよ」 こういう時は、何を言っても無駄なんだ。『少し我慢すればすぐ終わるから』そう言う事だ。 「何で黙ってんだよ、オイッ」 左の頬を1度、2度、3度、掌でビンタされた。3度目で口の中に鉄の味がした。どこか切れたか。 「お前ふざけんなよ」 私の胸に顔を埋めながら泣きそうに言い、そのまま犯された。そう、これはセックスなんかじゃない。強姦なんだ。
お風呂から溢れた水が、ザーっと流れ出る音がする。あぁ、水が勿体無い。 やけに冷静な自分が俯瞰している。
事が済むと、私は全裸のままさっと立ち上がり、風呂のお湯を止めに行った。戻ってくると、正座をして項垂れる明良がいた。 「また、やっちゃったよ。俺」 彼の隣に座ると、静かに「ん」と頷く。 「お前が他のヤツに靡くのが怖いんだよ。お前は俺の物なんだよ。俺だってお前の物なんだよ。分かるだろ?俺、1人になるのが怖いんだよ」 私に凭れ掛かってきた。頭を撫でる。よしよし、もう大丈夫。私はここにいる。あなたを独りになんてしないから。私とあなたでひとつだから。 あ、これを『共依存』って言うんだっけ。
ガラステーブルに映る自分の顔を見ると、左の口角が切れている。頬の腫れは明日までに引くだろう(経験上)。口角の傷は、うまく化粧で誤魔化す自信が無い。 明良が冷凍庫から、保冷剤を持ってきてくれた。明良の誕生日に買ったケーキについていた保冷剤だ。もしもの時(ま、こういう時が多い)の為にとっていたものだった。 「これ、こっちのほっぺたに当てておいて」 そして明良の部屋着を肩から掛けてくれた。 嵐が去った後の明良は酷く優しい。まるで別人格だ。 私が好きになった明良は、いったいどの人格なのだろうか。
.10 令二
「おはようさん」 「おはよ、わざわざポストイットまで付けてくれちゃって、ありがとうね」 昨日は結局、雨に打たれずに寮まで帰った。 「俺が帰る時間にはもう晴れててさ。でっけー月が出てたよ」 そう言って志保ちゃんを見て驚いた。左の口角が、切れている。化粧で誤魔化そうとしているのか、肌色の粉の中から、血だか何だか分からない液体が染み出ている。 「口、どーした?」 茶色の瞳はいつかと同じように、揺れ動く。 「あぁ、転んだ」 「は?」 「転んだ」 転んで口を切るって、どんな転び方をしたんだ? 「目立つ?」 そう訊かれて今一度よく見てみる。隣で話していると分かる程度だ。 「近づかなければ目立たない。近づくと目立つ」 「じゃ、近寄らないで。」 手のひらで胸の辺りをぐーっと押された。椅子のキャスターが転がって、隣の隣の席まで飛ばされた。
本当に転んだんだろうか。まぁ嘘を吐く理由もないか。 そんな事を思いながら、朝1杯目のコーヒーを淹れるために、ポットのある机へ向かった。ドリップコーヒーが落ちるまでの間、今日の仕事の段取りを考えたり、途中でお湯を継ぎ足したりしながら、ふと志保ちゃんを見た。 半そでの白衣から覗く二の腕に、赤い痣のような物がついていた。肌が白い彼女の肌では余計に目立って見える。 俺はびっくりしてドリップコーヒーをそのままに志保ちゃんの隣に座った。 「ねぇ、二の腕、凄い事になってるけど、これも転んだとか、言う?」 えっ、と志保ちゃんは狼狽えて自分の左右の二の腕を見た。きっと、半袖なら隠れると思っていたに違いない。 コーヒーの匂いが居室に立ち込める。俺たち以外居室にいなくて、良かったかもしれない。
「何かあった?」 「ない」 「じゃぁ二の腕の赤い痕は?」 二の腕を擦りながらもぞもぞと答える。 「これは、彼氏と喧嘩して――」 あぁ、喧嘩したのか。こりゃまた随分とバイオレンスな彼氏だ事。 「彼氏、容赦ないな。張り手とかすんの?」 「まぁ」 「女相手に?」 「そんなに興味ある?この話」 志保ちゃんが今まで見せた事が無いイラついた顔をした。怒ってるんだろうか。 「ごめん」 一言謝って俺はコーヒーを取りに戻り、そしてデスクに戻った。
暫く志保ちゃんとは口をきかなかった。志保ちゃんはデスクの引出しから長袖の白衣を取り出し、それに着替えた。 ちらりと見たその二の腕には、指の痕までくっきりと残っていた。
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