.37 朋美
志保ちゃんから「引っ越した」と聞き、仕事が休みの今日、買い物に付き合う事にした。 引っ越しをした経緯は、簡単に電話で聞いていた。 電話での志保ちゃんの声には覇気が無く、まるで別人と喋っている様だった。 今日顔を合わせた彼女は、表向き平静を装っている様だったが、目には力が無く、彼女が持つ「凛」とした雰囲気はなりを潜めてしまっていた。
「とりあえず、ご飯が作れるぐらいの物は欲しいかな」と言って、100円ショップを訪れ、小振りのフライパンや菜箸、お玉や茶碗等を買った。タオルも何枚か買った。それだけでも持参した大きな紙袋2袋分にもなった。 「本当はテーブルも買おうと思ってたんだけどね」 「テーブルかぁ、配達してもらったら?」 「そうだね。じゃぁ3階の雑貨屋さんに行ってみようかな」 会話は成立しているのだが、どこか上の空と言った雰囲気だ。 目線はふらふらとしていて定まらず、返事もふわふわしている。 テーブルは翌日には配送してくれるそうだ。 他にいくつか必要な物を買い、会社の寮へ戻った。道中、ぽつり、ぽつりと話す程度だった。
「本当に何もないんだけど、上がって」 どうぞ、と促され、おじゃまします、と部屋に入った。一般的なワンルームアパートを少し広くしたような間取りだった。 今日買い物した袋からがさごそとグラスを2つとスポンジ、洗剤を取り出して洗った。 「お水でごめんね」 そう言って新しいピカピカのグラスにお水を汲み、持ってきてくれた。テーブルが無いので、床に直に置いた。 志保ちゃんはペタリと対面に腰を下ろした。何から話そう――。
「大変、だったね」 「うん、大変だった」 「彼はどうしてるの?」 「多分、警察に拘留されてるんじゃないかな」 志保ちゃんは項垂れたまま、水に口を付けた。買い物をしていた時より更に、憔悴した様子が痛々しく伝わる。 「志保ちゃん、今、どんな気分?」 本当は「悲しい?」「辛い?」「苦しい?」そんな風に推し測ってあげられたらどんなに良いかと思った。 しかし、私に彼女の気持ちなんて到底分かる訳も無く、こんな質問になってしまった。 志保ちゃんは暫く無言で考えていた。外を走る車の音が聞こえる。 「ん、寂しい、かな。うまく言い表す言葉が見付けられないんだけど、寂しい。何かが零れ落ちた様な」 「そっか」 ずっと一緒にいた存在が、その手を離れた。 相手がいくら暴力を振るう人間だとしても、それまで過ごした10数年分の穴がぽっかりと空いてしまった訳だ。それを埋める事は容易ではないだろう。
二の句が次げずにいると、志保ちゃんが口を開いた。 「同僚の鈴宮君に、好きだって、守るからって、言われたんだ」 「志保ちゃんは、どう答えたの?」 俯いた顔をあげる事なく彼女は、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいる。 「好きだけど、好きだなと思ってるけど、簡単に付き合うとか、そんな風に今は言えないって、伝えたかな。」 動揺してよく覚えてないんだ、と少し困った顔を見せた。 志保ちゃんの事だ、鈴宮君と付き合う事で、彼氏(元彼氏になるのか)からの強力な嫉妬で迷惑を掛けてしまう事を懸念しているのだろう。 それに――志保ちゃん自身、まだ彼氏の事を愛しているんじゃないか。 「まだ、彼の事、好きなんでしょ」 彼女は1度私の目を見た。そして目を細めて少し笑った。 「好きだよ。そりゃ暴力も振るうけど、そうじゃない時の彼は、本当に優しくて、私の事を1番に考えてくれて、一緒にいて幸せだったんだよ。私さえ我慢してればこんな事に――」 「違うよ、それは。」 話し終わる前に私が言葉で遮った。それは違うよ、志保ちゃん。 「我慢するのはおかしい。我慢した結果どうなった?2人の赤ちゃんは死んじゃったんだよ。我慢した志保ちゃんが悪いって言ってるんじゃない。我慢を強いている彼に責任があるって事だよ。」 強い調子で話したら、一気に喉が渇いてしまった。ゴクリと喉を鳴らして水をひと口飲み「それに」と続けた。 「エスカレートしたら、志保ちゃんの身体だって危なくなるかもしれないんだよ。志保ちゃんが我慢すれば全て丸く収まる事ではないんだよ。」 そこまで言うと、志保ちゃんの目が少し潤んだ。瞳が左右に揺れるのが見て取れる。 「それでも、いないと、寂しいんだよ」 私は鞄からポケットティッシュを取り出し、彼女の膝の前に置いた。「ありがと」と小さく呟き、中から1枚ティッシュを取り出した。
「夜、電気を消してお布団に入ると、寂しくて眠れなくて。明良がいない、って寂しくて。ぼろぼろ涙が零れてくるんだ。こういう時に明良は、私の背中を擦ってくれたのに、今はその手が無いんだと思うと、もっと寂しくなって――」 決壊したダムの様に一気に涙が落ちた。あぁ、タオル出してあげたら良かった。 嗚咽を堪えながら「こんなに寂しいとは思ってなかった」とポツリと言った。 私は彼女の傍に移り、背中を擦ってあげた。更に涙が溢れだした。嗚咽が止まらない。 彼の掌に替わってあげる事は出来ないけれど、少しでも人の温もりを彼女の背中に浸みこませようと必死だった。 あなたを大切に思い、守りたいと思い、寂しい思いをさせたくないと思う人間がここにもいるんだよ、と伝えたかった。
.38 令二
青葉寮にパトカーが数台停まった事で、野次馬が湧き、俄かに騒がしくなった。 しかし、何が起きたのか知っている人は少なかった。 俺の周囲では、俺の顔の様子を見て、俺が何らかに関与しているのではないかと噂されていたようだ。 勿論、俺はベラベラと周囲に話す事はしなかった。
引っ越しを手伝った翌々日には志保ちゃんが出社してきた。いつも通りに朝の挨拶をして、何事も無かったかのように仕事を再開した。 仕事中、志保ちゃんは実験室でぼーっとしている時間が増えた。 仕事の考え事をしているのかもしれない。彼の事を考えているのかも知れない。いや、分からない。 とにかく、心ここにあらずと言った雰囲気で、話し掛けるのも憚られる。 お昼休憩では「私、今日は食堂パスです」と言って居室に残った。 飯を食って実験室に行くと、彼女は実験台に突っ伏して寝ていた。 眠ってはいないだろうと思い「大丈夫?」と声を掛けると、「ん」と顔をあげずに返事をした。
定時を過ぎ、鈴木さんと俺、実験中の志保ちゃんを残して皆帰って行った。 俺は鈴木さんと仕事の打ち合わせをし、鈴木さんは「おれこれから組合だから、志保ちゃんの事と、戸締り宜しく」と言ってニヤリとして部屋を出て行った。 実験を終えた志保ちゃんが居室に戻って自分の席についた。 「しんどそうだね」 「ん。しんどいね」 「話、訊こうか」 「ん」 志保ちゃんは俺のデスクにあったマグカップをサッと手に取ってシンクに行き、志保ちゃんのマグと並べてコーヒーをドリップし始めた。 香ばしい匂いが居室に広がる。 俺はもう殆ど仕事を終えたので、ぐーっと伸びをしたり、首を回したりして、沈黙を遣り過ごした。
「どうぞ」とコーヒーを差し出されたので「ありがとう」と受け取った。 「どう、1人で暮らしてみて。ってもまだ2日ぐらいか。」 俺は努めて明るく話しかけたが、彼女は目を伏せたままでぽつりと「寂しい」と言った。 「明良がいない生活が、こんなに寂しいと思わなかった。彼から離れてみようかなって私、言ったけど、毎晩寂しくてなかなか寝付けないんだ」 好きだと伝えた彼女が、俺の前で他の男に縋っている。これ程辛い事はない。 どうにかして、その男に代わる事は出来ないだろうか。 「一緒に暮らす事はまだ出来ないけど、寂しい時に駆けつける事なら出来るよ、俺。志保ちゃんが寝付くまで俺が背中を擦ってあげる事だってできるよ。何度だって殴られてもいい。殺されかけたって良い。それでも宮川に負けない位に、俺も志保ちゃんを愛せるよ。俺が代わりを務める事は出来ないかなぁ?」 俺は思いのたけを一気に吐き出した。 志保ちゃんは眉根を寄せて、少し困ったような顔をして頬杖をついた。 「代わり、かぁ」 俺はその後に紡がれる言葉を待った。コーヒーを一口啜る。 「段階を追って、彼と別れる事が出来たなら、喜んで鈴宮君の言葉を受け入れる事が出来たと思うんだ。だけど、急にね、昨日までそこにいた人が急にいなくなったんだ。そしたら身体のここんトコに、穴が空いたみたいになったの」 そう言って左胸を押さえた。そして泣きそうな顔をしながら少し笑った。 見ていられなかった。そんな顔はもうごめんだった。 「その穴、俺が塞いでいく事は出来ないかな。時間が掛かってもいいから。ほら、砂時計みたいに、少しずつ、少しずつ、じわじわとその穴を埋めて行くから」 少し強引かなと思ったが、同情したって仕方がない。 俺は思った事をストレートに伝えた。志保ちゃんは少し表情を緩めた。 「ありがとう。ほんと、ありがとう」 それから暫く無言で、彼女はパソコンのデスクトップを見つめていた。 俺は彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、俺の必死さを伝える言葉を探した。 彼女の心に空いた穴を埋めたい。俺が温もりを与えたい。縋って貰える存在になりたい。 暴力ではない、心でつなぎ留めておきたい。
しかし俺の語彙力ではこれ以上言葉を続ける事が出来なかった。
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