.35 令二
俺はあの後、パトカーに乗せられて、市立病院に行った。 対応した医師が、あの時の斉藤という女医で、驚いた。彼女も俺の事を覚えていたらしい。 「この傷は、もしや?」 「もしやです」 先生はふふん、と鼻で笑った。 悪気は無いのだろうが、この医師は少し人を小馬鹿にした様な態度をとる。 「何が可笑しいんですか?」 「君が頭を突っ込んだんでしょ」 処置の手を休める事無く喋る。 俺は無言だったが、この場合の無言は、否応なしに「肯定」と捉えられているだろう。 「現行犯?で彼は拘留ってとこかな?」 「そうなんですか?」 俺は奴がその後どうなったかなんて知らない。隣にあったパトカーで恐らく警察に向かったのだろう。 「君は彼女にぞっこんなの?」 「え、何すかそれ」 この女医は何が知りたいんだ。 俺は処置の痛みに耐えながら会話をしているというのに、ニヤニヤとまぁ良く喋る事。このお喋りババァがっ。 「彼女が彼から抜け出すには、本人の自覚と、本人の努力と、周りの協力が必要。君は協力してあげられるんだよね」 「勿論」 俺は守ると決めた。こうして身体を張って守った。 これからだって、奴の拘留が解けて戻ってきても、俺は志保ちゃんを守る。 まぁ、ちょっと体力作りは必要かもしれない。 「ぞっこんだな」 ハイ終わり、と俺の頬をピシャっと叩いた。イテッと思わず声を上げた。 こいつ本当に医者かよ。
その後警官と一緒に一旦家へ戻り、その場で事情聴取を受けた。 志保ちゃんがDV被害者だという事を何となく知っていたとか、俺の部屋に逃げるようにと伝えた事、まぁ必要な事は全部話した。 警官は話を聞き終えると「また何かあったら協力してください」と言い残して帰って行った。
隣の部屋にいる鈴木さんを訪ねた。インターフォンを押すと、すぐに鈴木さんが顔を出した。 「お前その顔、すげぇなぁ。イケメンが台無しじゃねぇか。まぁ入んなよ」 首の後ろをぽりぽり掻きながら鈴木さんの部屋に入った。 「何か面倒掛けてすんませんでした」 壁の血痕をちらりと見た。うわ、俺の血。思ってた以上に飛んでる。 「なーに言ってんだよ、志保ちゃんの為じゃんか」 水でいいか、と言われて頷いた。ここんちには茶は無いのか。そうか。 さっき冷蔵庫を覗いた時は、ビールとわずかな食糧しか入っていなかった。 「さっき志保ちゃんには言ったんだけど、今晩はこの部屋を志保ちゃんに貸す事にしたよ。恐らく彼氏は拘留されて家には戻らないとは思うけど、一応」 「はぁ」 「明日朝一で総務に連絡取るから、そしたら紅葉寮の1部屋を確保して、そこに移れるように手配しよう」 流石、鈴木さんだ。俺はそこまで考えていなかった。とりあえず彼女を守る事で精一杯で。 「お前、明日有休取れるか?」 「あ、はい」 「そしたらさ、会社の軽トラに段ボール積んで、志保ちゃん乗せて彼女の家まで行ってさ、引っ越し手伝ってやってよ」 「あ、はい」 目の前のテーブルに水が2つ置かれた。さっきは水をいれようとした所で騒ぎが始まったんだっけ。
「今回は急だったから俺もあんまり協力できなかったけど、アレだな、お前ちょっと無理し過ぎだったぞ。」 俺は腫れ上がった頬を撫でた。ズキズキ痛む傷が、熱い棒を押し付けられるように更に痛んだ。そうですよね、と呟いた。 「まぁ、守ってもらった志保ちゃんからしたら、お前はスーパーマンだよ。惚れたかもな」 「だと良いですけど」 俺は照れ隠しに口角に貼ってあるテープを剥がしてみたり、湿布の位置を変えてみたりした。あぁ痛い。 「お前、惚れてんだろ」 思わず鈴木さんの顔を見た。蕩けそうな笑顔で俺を見ている。あわわ、全てバレている。 俯いて「はい」と答えるしかなかった。鈴木さんは全部お見通しか。 「敵は手強そうですけど、俺、諦めないで頑張るんで」 「おう、俺は協力する」 すっと、鈴木さんの太い腕が差し出され、握手を求められた。 俺は男にしてはか細い腕をだし、がっちりと握手をした。男同士の誓いを立てた。 「とりあえず今日はお前の部屋に泊めてくれ」 「あぁはい――」
.36 志保
鈴木さんの部屋に1泊させてもらい、翌日には鈴宮君の手を借りて、紅葉寮の六階に引っ越しをした。 家財道具の殆どは明良が購入した物なので、それらは置いてきた。 生活に必要な物は、新たに買い足す事にした。 とは言え、この寮には最低限の家電が置いてある。電子レンジもトースターも、冷蔵庫もある。エアコンだって完備だ。 となると、細々したもの、そうだな、フライパンとか?タオルとか?そんな物を買い足せばいいかな。
鈴宮君は、私の引っ越しを手伝うために有休をとってくれたと言う。 お礼をしてもしきれない。今度コーヒーをご馳走しようと思う。
衣装ケースの中に畳んである服を、ハンガーに掛けてクロゼットに仕舞っていく。 ワンピースが多いな、と思う。ワンピースはそれ1枚でコーディネートが決まって、楽なのだ。 その他の服は、衣装ケースごとクロゼットに入れた。 書籍や細々とした物は、段ボールに入れたままにした。 明日もう1日有休をとった。テーブルを買いに行かないと。 「買う物リスト」に「テーブル」を書き足した。 荷物は大体片付いた(と言っても、段ボールはまだ数個ある)。 畳んでおいた布団に寄り掛かると、ズズと身体は水平になっていく。 白いクロス張りの天井を眺める。真っ白だ。
明良は今頃警察署に拘留されているんだろうか。 引っ越しで家に戻った時には、明良の姿は無かった。鴨居にはスーツが掛かったままだったところを見ると、仕事に行った訳でも無さそうだった。 あの時、私は彼の暴力から逃れようと、必死で逃げた。 そして鈴宮君は明良にこっぴどく殴られ(翌日の顔は青紫だった)、明良は警察に捕まった。 「大丈夫、少し我慢すればすぐ終わるから」 そう思って毎回耐えてきた。雷が鳴っても、明良に殴られても、明良に犯されても、いつも思い浮かべるのはこの言葉だった。 あの日、この言葉を呼び起こしていたら、鈴宮君は殴られず、私は明良の横にいただろう。
テレビも無い部屋の中、冷蔵庫から低い呻き声の様な音だけ聞こえてくる。1人でいる事をこれ程孤独に感じた事が、あっただろうか。 親に捨てられたあの日から、人目を忍んでしくしく涙を流す私の背を擦ってくれた手を思い出す。 人の掌って、こんなに温かいんだと感じた。明良に守られ、明良に頼り、明良に縋り、明良を愛してきた。 結局依存していたのは、私の方ではないかと気づく。 心臓の真ん中に小さな穴が出来ている。そこに吹き込む風が、隙間風となって反対側に抜ける音がする。幻聴か。 寂しい。隣に居る筈の明良がいない。喪失感が心を支配する。 私を守ってくれた、あの温かい掌を無くした。
愛ゆえに周囲を傷つける明良。私1人が我慢すれば、少なくとも周囲を傷つける事は無かっただろう。 あの時、咄嗟に逃げようと思った自分の行動を悔いた。
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