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作品名:ふたつの心臓 作者:SO-AIR

第15回   15
.29 朋美


 母子手帳も、キーホルダーも、燃えるごみの中に捨てたという。
 私には察しがつかない。『辛い』なんて簡単な言葉では言い表せないんだと思う。
 こんな時、同じ気持ちが共有できたらどんなに楽かと思う。志保ちゃんの苦しみを、半分共有させて欲しいと切に願う。

「体はもう、落ち着いたの?」
「うん。止血剤も飲んでるし。痛みもないし大丈夫みたい」
 少しやつれた表情に、無理やりに笑う笑顔が痛々しい。
「彼は――彼は何て?」
「まぁはっきりとは言わないけど、嬉しいんじゃないかな。邪魔者がいなくなって」
 さすがにはっきりとは言わないけどね、と再度付け加えた。
 訊いてもいいのか迷ったが、訊かなければ何の協力も、理解も出来ないと思い、思い切って訊いてみた。
「流産の理由って、分かったの?」
 更に悲しい表情になった。こんな表情、見ていられない。もう、笑っているのか泣いているのか分からない。
「泣きたかったら泣いていいよ」
 私は部屋にあるティッシュを箱ごとテーブルに置いた。「ありがとう」と消え入るような声で志保ちゃんは答える。
「理由は多分、憶測でしか判断は出来ないけど、前日に暴行されたんだ。お腹を中心に蹴られて、痣だらけ。あんな小さな命が死なない訳がないよ。よく、1日も――持ち堪えてくれたと思う――」」
 ポロポロと涙が零れ落ち、志保ちゃんが座る青い座布団を紺色に染めていく。
「そっか。それは辛かったよね。赤ちゃんも頑張ったんだね。痛かっただろうね。苦しかっただろうね。」
 志保ちゃんの横に座り、背中を擦る。嗚咽が止まらない志保ちゃんを何とか鎮めようとするが、うまく行かない。

「彼じゃなきゃ、ダメなのかなぁ」
 思った事をポツリと言ってしまった。
 俯いていた顔を上げ、泣きはらした顔で「分からない」と答える。
「他人で、施設で育った訳じゃない私が言う事だから、気に障ったら遠慮せず言ってね。もう、志保ちゃんの気持ちは愛情じゃなくて情なんじゃない?そりゃ赤ちゃんが出来た時は嬉しかったと思うけど、相手が嬉しい顔をしていないって見抜いていたよね。純粋に愛しているなら、その時点で『どうして?』って問い詰めると思うんだ」
「そうだね、問い詰めるのが普通だね。でも私、今にして思うんだ。赤ちゃんが出来たら、明良に依存してる分が赤ちゃんに半分移るんじゃないかって。同じ様に明良も半分、赤ちゃんに依存するようになるんじゃないかって。そう思って私は嬉しかった。少し、身が軽くなるかなって」
 実際には、彼氏はそれを危惧していた訳だ。志保ちゃんの依存が、愛情が、赤ん坊へ半分移ってしまう事。それが許せなかったんだ。
 テーブルに置いた紅茶をひと口飲んだ。
「私ね、自分が置かれている状況が、完全な共依存で、DVだって事、自分で良く分かってた。私と明良はお互いに依存し過ぎてるって良く分かってたんだ。だから、赤ちゃんが出来て凄く嬉しかったの。2人の世界が3人になるって。だけど、DVが子供に及ぶ危険性があったんだよね。そう思うと、結果的には、良かったのかな」
 私も紅茶をひと口飲んだ。だいぶ冷めてしまった。
 子供を持つ事と、依存が軽くなる事の関係性はもしかしたらあるのかも知れない。
 だけどそれは、双方が同じように依存度を薄める事でうまく行く。
 今回は彼の依存が志保ちゃんだけに集中していた。これは絶対に、絶対に今後も変わらないだろう。
 志保ちゃんは、これから彼の依存から抜け出す方法を考えなければならない。

「もっと早い段階で、きちんと言ってあげられなくて、ごめんね。」
 私が気付いた時点で「それはDVだから、抜け出さなきゃ」って嫌われるのを覚悟で言ってあげたら良かったと後悔している。志保ちゃんはもう出尽くしたであろう涙をまた流しながら、首を大きく横に振った。



.30 志保


「鈴宮君、今日遅い?」
 結局私は火曜・水曜と2日間、病欠を貰い、木曜の今日やっと出勤した。
 火曜は仕事が休みだった朋美ちゃんの家で泣きまくり、昨日1日かけて目を冷やした。
 泣きはらした目は1日で元に戻った。人間の回復力って凄い。
「今日は19時ぐらいまでサンプリングがあるんだよなぁ」
「あ、じゃぁ手伝うよ」
 うぉ、助かる、と言って鈴宮君は12時のサンプリングをし始めた。
 今朝1番に顔を合わせた鈴宮君は、何もなかったかのように「おはようさん」といつも通りの挨拶をしてくれた。
 お蔭で、私も通常通り業務が出来ている。
 明良から受けた(と思われる)暴行の痕もなさそうだ。


「いやぁ、助かったよ。20時まではかかると思ってたのに、あっという間に終わった」
「そりゃ良かったです」
 会社から私の最寄駅まで2駅分位を歩いた。途中、鈴宮君は「身体大丈夫?」と心配してくれた。
 駅に着くと、彼はいつもの場所に自転車を停めた。
「カフェにでも行って、サンドイッチ程度にしておく?」
 鈴宮君の提案に「ん」と頷いて、いつものカフェに入った。今日は生憎、と言うか、いつもなら満席の筈の窓際の席だけが1席空いていた。
「今日は私が出すから」と言っても鈴宮君は「こういう時は男が出すって相場が決まってんの」と言って引かなかった。私はサーモンとクリームチーズのベーグルとカフェモカを、鈴宮君はブラックコーヒーとサンドイッチを頼んだ。

「いつも奢って貰っちゃって、ごめんね」
「いいよ、仕事も手伝ってもらっちゃったし」
 ピリピリとサンドイッチの包装を剥ぐ音がする。私はベーグルの上と下をぺりっと剥がして中を見た。すると鈴宮君は怪訝な顔で私を覗き込んだ。
「何してんの?」
「え、いや、具に偏りがあると食べにくいから、確認」
 アハ、変な人、と笑われた。
「んで今日はどうしたの?志保ちゃんから俺を誘うなんて、珍しいから雨降るんじゃないかと思って折り畳み傘持ってきちゃったよ」
 うそばっか、と言うとイヒヒと意地悪く笑う。
「この前のお礼と、あれ、明良に殴られた?でしょ?ごめんね、って」
 鈴宮君は左の口角を触って笑った。
「こんなの怪我に入らないし。翌日には消えてなくなってたよ。あの女医カッコよかったよなー。君の彼氏に『青二才っ』とか言ってたよ」
「へぇ、それは知らなかった」
 初めは気に入らないと思ったあの女医だけど、すぐに印象が変わった。
 言う事は全て的を射ていて、あんな先生、あんな友達が周りにいたら私はどんなに助かっただろうと思う。

「明良との付き合い方も、ちょっと変えて行かないとな、って思ってて」
「あぁ、俺、ちょっと聞いちゃったけど、お腹、沢山殴られてたんだって?妊娠してた事もびっくりだけど、その上で腹を殴られてた事の方がびっくりだよ。女の腹殴るって、ある意味スゲェよ」
 考えたらお腹痛くなってきた、と鈴宮君はお腹を擦って笑った。
 鈴宮君がこうしてちょっとした事を笑いに変えてくれる、場を和ませてくれる事が「好きだな」と思った。
 今までは誰かを「好きだな」と思っても「私には明良がいる」と思って押し殺していた感情だ。
 ずっとだ。ずっとそうして生きてきた。
 今日ここでやっと「好きだな」と思った。
「好きだな」
 やっと、口に出せた。
「へぇ?」
「そうやって、ころころ笑ってる鈴宮君見てるの、好きだな、って」
 鈴宮君は目を少し潤ませながらジワジワと顔を赤くした。それにも笑ってしまった。
「そんなに照れさせる様な事言ってないからね」
「あ、冷たい事言うねぇ」
 顔を見合わせて笑った。好きだ、こうやって笑い合う事も。

「それで、彼とは現状一緒に住んでる訳だけど、どうやって付き合い方を変えて行くの?」
 急にまじめな話に戻ったので、笑った顔からなかなか顔が戻っていかず、四苦八苦した。
「うん、とりあえず会社の寮に入ろうかなって。離れてみて分かる事もあるかも知れないし。一緒にいる事がダメなのか、付き合っている事がダメなのか。今の所それが分からない」
 うんうん、それで?と鈴宮君が促す。
「でもね、多分付き合っている以上、彼からの猛烈な嫉妬ってのは避けられないと思うんだ。そうなるともう、別れるしかないし、別れるにしたって相当労力を使うと思うんだ」
「だね。別れてくれなそうだよね」
 別れたい、なんて言ったら羽交い絞めにされて、縄で縛られて、死ぬ寸前まで殴られて、犯されて、捨て置かれるに決まってる。そしてお決まりの「お前が必要だ」。
 「殺されそうになったら鈴宮君にSOS出すからさ、飛んできてよ。胸にSって書いて」
 「それスーパーマン?」
 「うん」
 アハハッとまた笑った。笑い事じゃないのに笑った。

 2人が笑っていた目線が、ある1点に集中した。私はベーグルをコトリとお皿に置いた。
 ガラスの下、桜の木の下に明良がいた。あの日と同じ目で、私達を見ている。
「ねぇ、行った方がいいんじゃない?」
 鈴宮君は私を心配してそう言ってくれた。
「行かない。今行ったって、行かなくたって、帰ったら殴られるのは分かってる。だから行かない」
 そう、今行ったって、家まで引きずられて、家の中で押し倒されてビンタされて。
 少しでも時間は短い方が良い。そう、少し我慢すればすぐ終わるから。
「あのさ、俺の住んでる寮、知ってる?」
「あぁ青葉寮?」
 独身男性専用の寮で、オートロック式の綺麗なマンションだ。ちなみに女性は「紅葉寮」だ。分かりやすい。
「覚えておいて。505が俺の部屋。506が鈴木さんの部屋。何かあったら走っておいで。駅からなら5分かからないから。走ったら3分ぐらい?」
 ゴーゴー、とゴム、で覚えて、とにっこり笑ったけれど、今度の笑いは少し引き攣っていた。だけどまた「好きだな」と思った。
 人のピンチに笑顔で助けの手を差し伸べる、そういう人、好きだな。
 一緒に悲しんでくれる朋美ちゃんも好きだけど、こうして前向きに笑ってくれる鈴宮君を、私は好きだと思った。

 食べかけのベーグルに手を伸ばし、ひと口食べた。クリームチーズが滑らかでおいしい。ここのベーグルを食べると他の物が食べられなくなる、と朋美ちゃんと良く話す。
「ゴーゴーの鈴宮君は、意中の人に告白するって言ってたけど、結局したの?」
 サンドイッチをモグモグしていたのをコーヒーで飲み下し、「あぁ、あれね」と答えた。
「あれね、言おうとしたんだ。そしたら相手が急に腹痛になっちゃって」
「あら、何、下痢?」
「こら、ここお食事処。違うんだ。お腹痛くて救急車呼んだんだ。血まで出ちゃって」
 目が点になる、とはこの事を言うのか。
 一応確認のため、自分の鼻に人差し指を向けると、鈴宮君は「そう」と言った。
 今度は私が耳まで赤くなる番だった。
 体中の血液が頭に上ってきてしまったような、恥ずかしい顔だろうと思った。見られないように俯いた。
 こういう時は、どう言ったら良いのだろう。今まで明良ばかりと接していたので良く分からない。
 正直な思いを口にしたらいいんだろうか。相手が正面切って言ってくれたんだから、こっちも思っていることを素直に言うべきだ。

 なかなか言葉にするのが難しくても、ひとつとつ並べて、話してみよう。
「あ、あのね、こういうの慣れてないの。分かるよね?」
「うん、彼しかいなかったからね」
 お、分かってる。この人分かってる。酷く冷静に微笑んで聴いている鈴宮君をちらりと見て、また俯く。
「考えた事も無かったの。明良の他に誰かの事を好きだっていう感情を抱いた事も無かったの。思っても押し殺してたの。今までの私だったら『ごめん、明良いるから』で済んでたの」
「うん。それで?」
 鈴宮君はテーブルに頬杖をついて、私を斜めに見ている。何か、余裕だ。告白が終わった人の余裕だ。
「だけど、今回の流産の1件があって、鈴宮君とちょっとだけ近づいたというか――うん、そう思ってて、こうやってお茶して、話して、笑ってたら、この人好きだなあって、何度も思ったの。このシチュエーションが好きなのかな、とも思ったんだけど、そうじゃないみたい。相手が、好き、みたい。笑って、前向きに笑ってくれてる鈴宮君が、好き、みたい。」
 まだ残っていたらしい末端の血液が顔に上る。もうこれで尽きただろう。鈴宮君は、にんまりしている。あぁ、ちょっと憎たらしいかも。
「ただね、まだ明良と一緒に暮らしてるし、上手く別れられるかどうかも分からない。別れようとして迷惑をかけるかも知れない。そう考えると、簡単に『ありがとう、お付き合いしましょ』なんて言えないの」
 頬杖をついたまま鈴村君は表情を変えずに言う。
「別れるまで俺は諦めない。協力もする。迷惑だなんて思わない。俺の腕力じゃ彼に叶わないかも知れないけど、守る。もう志保ちゃんを傷つかせたりしない。それで彼と別れた暁には俺を受け入れてくれる?」
「どうしてそこまで――」
 鈴宮君は顔を綻ばせて言った。
「好きだからに決まってんじゃん。俺はアナタが好きだから、付き合っていた女の子3人と別れました。自分だけ犠牲を払うっていうやり方をやめろと言ってくれた志保ちゃんに従ってね。そして、俺は振られてもいいから、好きな人に告白した。その人が少しでも俺を見てくれるなら、俺はその人を守るし、協力する事を厭わない。」
 ズズズとコーヒーを飲む音がする。鈴宮君って、こんなにスパスパと思っている事を言う人だったんだ。
 それでいて優しい。好きだな。
「分かった。私も頑張ってみる。DVの連鎖から抜け出して、独り立ちして、モテモテの鈴宮君の隣に君臨出来るように頑張ってみるよ」


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