.23 明良
家に帰ると、はち切れんばかりの笑顔をした志保が、白い棒切れを持って立っていた。 「おかえり」 「ただいま。どしたの」 その笑顔を更に輝かせて、俺の目の前にその白い棒を突き出した。 「青い線が出てるでしょ?」 あぁ、妊娠しちまったか。しくじった。その本心は顔に出さずに、志保の両肩を握った。 「良かったなぁ、赤ちゃんかぁ」 「そうだよ、私と明良の赤ちゃんだよ」 目をうるうるさせて今にも涙が零れんばかりの顔で頬を赤らめている志保が、愛らしくて仕方がない。
俺は、志保がいればいい。 子供なんてどうでもいい。
「病院には行ったの?」 「まだなんだけどね。早いとこ産院を予約しないと、お産難民になっちゃうって」 俺は上着を脱ぎながら、大して興味のない話を促した。 「お産難民って?」 「今はお産が出来る病院が限られてるから、早くに予約しないとダメなんだって。私の場合、もうつわりっぽいのも終わっちゃってるから、急がないとまずいなー」 「ふん、じゃぁ病院、急いで探して行ってきなよ。可愛い赤ちゃんの為に」
俺の可愛い志保の愛の矛先が、俺ではなく腹の中の餓鬼に移る事を危惧したが、妊娠させてしまったことは俺の失態だ。 生まれるのなら仕方がない。育てるしかない。 が、志保はあくまでも俺の物だ。相手が餓鬼とて容赦しない。 志保の生理日は大体把握していたのに、いつの間にずれてしまっていたのか。 暴力で頭が混乱すると、俺は避妊をしない。まずいまずいとは思っていても、中で出すか、良くて腹の上だ。 逆に言えば、これから暫くは中で出し放題か。暴力がてら餓鬼が死んでしまったとしてもそれは事故だ。 悲しむ志保を慰めて、また俺の元に戻せばいい。俺だけに愛情を注がせればいい。
「ネットで探せるかなぁ」 完全に浮き足立っている志保を見て、既に彼女の心は、腹の中の異物にあるのだと確信した。 どこにぶつけたら良いのか分からない苛立ちが、沸々と湧き上がってくる音が聞こえた。
.24 朋美
「ごめんね、こんな事に付き合わせちゃって」 土曜の産婦人科は混みあっている。いかにもお腹が重たそうにふぅふぅ言いながら歩いている妊婦さんもいれば、まだお腹が目立たないけれど、鞄に「お腹に赤ちゃんがいます」というキーホルダーを下げている方もいる。 志保ちゃんがママになるのか――。
1人で行くのが心細いと言う志保ちゃんに付き添って、近所の産婦人科に来た。 朝の9時に受け付けを済ませ、現在11時。やっと中待合室に呼ばれた志保ちゃんは、私に「行ってくるね」と言い、スタスタと歩いて行った。 少子化なんて都市伝説なんじゃないかと思われる位、産科は混み合っていた。 隣に座っていた女性は後から来た旦那さんらしき人に「予約してるのに1時間も待ってるんだけど」と不満を漏らしていた。
10分程して、紙切れを1枚持って戻ってきた志保ちゃんに「どうだった?」と訊いた。 「うん、この丸いのが赤ちゃんだって。今、妊娠3か月。5月頃が出産予定日だって」 紙切れに写る丸い物を見つめる。これが人になっていくのか。志保ちゃんのお腹と写真を交互に見比べて「へぇ」と1人で感心してしまった。
「朋美ちゃん、もう1ヶ所行っていい?役所」 「うん、いいよ、行こう」 いざ自分が妊娠した時の為に(現在は相手もいない)、同行した。役所では母子手帳と役所からの資料、「お腹に赤ちゃんがいます」のキーホルダーが貰えた。 「これでアナタも妊婦さんですよっ」 「えへへ、そうだね」 その顔は、もう既にママの様に包容力のある笑顔になっていた。人間って不思議だなと思った。
帰りにカフェ「ディーバ」に寄った。 「今日のお礼で私の奢りね。マンゴーフラペチーノでいいよね?」 「え、いいよぉ、自分で払うよ」 「いいのいいの、ここは甘えておいて」 そう言うので、1杯ご馳走になる事にした。いつもの窓際の席が空いていたので、そこに座ると、程なくして志保ちゃんがフラペチーノを2つ、お盆に乗せて持って来た。 「あれ、カフェモカじゃないの?」 「うん、カフェインを気にして」 妊婦さん、と言うと、へへっと照れたように笑う笑顔が、とても可愛らしく頬を染めた。
「ちょっと気になってる事があってさ」 それまでの笑顔が嘘だったかのように、少し俯いて志保ちゃんが話し始めた。 「どうした?」 「明良の事なんだけど」 ごくり、と息を飲む音が自分の耳にこだました。 「赤ちゃんが出来たって話した時、営業スマイルだったんだ。長く一緒に住んでると、そういうのって丸わかりなんだよね。明良はうまく隠せてると思ってるのかも知れないけど」 バーベーキューの時もそうだったけど、と付け加える。 「赤ちゃんが出来た事、喜んでないかも知れないって事?」 「うん。多分そうじゃないかな、って思って。自分の子供、可愛くないのかなぁ」
暫く何も言えなかった。フラペチーノを口に含んだ。氷の粒が消えてなくなる。 志保ちゃんの赤ちゃんが消えてなくなりませんように。 「思い違い、ではないんだよね」 「うん」 嫉妬だ。間違いない。彼は自分の子供にさえ嫉妬しているのだ。このままでは志保ちゃんも赤ちゃんも危ないかも知れない。
「あのね、志保ちゃん。正直に答えてほしいの」 改めて姿勢を正してこう切り出した。志保ちゃんは静かに頷いた。 「ん」 「彼に、暴力振るわれてるよね」 一瞬志保ちゃんの目がカッと見開いて、そして急速に萎んだ。 「ん」 「彼は、志保ちゃんを独占したいんだよ。赤ちゃんに志保ちゃんを取られるのが怖いんだよ」 「え、だって2人の子供なのに、家族なのに?」 熱くなって前のめりに身体を伸ばし話す志保ちゃんの声は、自然に大きな物になり、隣の人がちらりとこちらを見た。 「家族だからこそ、志保ちゃんは赤ちゃんに愛を注ぐでしょ。彼はそれが気に入らないのかもしれない」 志保ちゃんは今にも泣きだしそうに顔を顰めている。でも仕方ない。これは志保ちゃんへの警告でもある。 「もしかしたら今後、暴力で赤ちゃんを流そうとするかもしれない。そんな事にならないように、自分の赤ちゃんは自分で守るんだよ。暴力の事はとやかく言わないから。とにかく赤ちゃんを守って」 志保ちゃんはまだ膨らむには早い自分のお腹を両手で擦った。 「ん。頑張る。暴力の事、気づいてたんだね」 「そりゃ気づくよ」 以前見た、手首の赤黒い痕を思い出す。 「彼の嫉妬深さも知ってるし。私は志保ちゃんの味方だから、何かあったら連絡頂戴よ。話聞くから」 控えめな笑顔で「ん」と頷いた。 「朋美ちゃんと同じような事を言ってくれる人が、会社にいるんだ。話聞くから、って。私の周りは味方ばっかりだね。良かった」 手を付けていなかった志保ちゃんのフラペチーノは、溶けはじめていた。 「フラペチーノ、溶けちゃうよ」 「あ、ほんとだ」 目尻に少し、涙が光って見えた。
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