.21 令二
「令二、ちょっと今時間ある?」 「あ、はい」 鈴木さんに呼ばれ、2階にあるミーティングルームに行った。仕事の話なら居室でするだろう。一体何の話だろう。 ミーティングルームは煙草臭かった。 「本来、仕事中にする話じゃないんだろうけど、志保ちゃんの事でちょっと」 「はあ」 何の話なのか、俺には皆目見当もつかなかった。 鈴木さんは頭をぽりぽり掻きながら、何から言おうかという感じで目をきょろきょろさせている。 小部屋の窓は手入れが行き届いておらず、曇っている。空が、鈍色に見える。
「あのな、志保ちゃんって時々、身体に傷があったりしない?」 面食らった。鈴木さん、気づいてたのか。俺だけじゃなかったのか。 鈴木さんは社員のちょっとした変化に敏感に気づく人だ。志保ちゃんの事も気づいていたのか。 「ありますね。彼と喧嘩すると暴力を振るわれる事があるみたいですよ。あれ、これオフレコで」 人差し指を口の前に立てた。 「お前、DVって知ってるだろう?」 ドメスティックバイオレンス。最近は家庭内のみならず、恋人間で行われる「デートDV」なる言葉まで存在する。 「あれじゃないかなって思ってるんだよね。彼女、彼氏と同棲してるだろ」 張り付いた笑顔を絶やす事無く酎ハイを口にしていたあの宮川という男の顔を思い出す。 「そうすね、でも彼女は暴力を振るってる相手の気持ちも分かるからって言ってました。批難どころか、肯定にすら俺には聞こえましたね」 同じ境遇で施設に引き取られた2人が、お互いを補い合いながら生きてきた。そう言っていた。 「だから、それがDVなんだって。暴力を受けている側が相手のちょっとした優しさとか、相手の不遇に同情して、関係を修復して、これを繰り返す訳だよ。ま、今は俺の推測に過ぎないんだけどな」 鈴木さんは腕組みをしてテーブルを見つめる。
「それで、俺はどうすれば?」 「お前が会社で今、1番彼女に近いポジションにいるから、頼まれてくれ。何か彼女に危険が及んでいそうな気配があったら、俺に教えてくれないか?」 「あ、はい。そうします」 立ち上がりながら鈴木さんは長いため息を吐いた。 「ごめんな、仕事中なのに」 俺は「いえいえ」と言って、部屋を後にする鈴木さんの背中を見ていた。 DVか。それなら説明がつく。俺は腕組みをしながら暫くそこを動かなかった。志保ちゃんは「DV」と言ってそれを認めるだろうか。認めたとしても、それを止める術がある訳ではない。俺は、どうしたらいいんだろうか。兎も角、鈴木さんの言う通り、何かあったら鈴木さんに報告しよう。まずはそれが、志保ちゃんを暴力のループから救う方法だ。
.22 志保
「青い線が出たら、妊娠の可能性があります、かぁ」 妊娠検査薬と説明書を手に、自宅のトイレに入った。 10月に入ろうとしているこの日、まだ暑さは残り、狭いトイレには温い湿気が充満していた。 細いスティック状になった検査キットの先端にある、白い不織布の様な部分に尿を掛ける。 数秒もすると、透明の窓に青いラインがはっきりと出てきた。
胸の辺りがざわざわした。形容しがたい感情に覆われて行く。お腹に、赤ちゃんがいる。
普通のセックスでは避妊している。しかし暴力を伴うセックス(犯されている時)では、避妊していない筈だ。妊娠するのも時間の問題だった訳だ。 報告したら、喜んでくれるだろうか。また暴力を振るわれるだろうか。 孤独だった2人の間に家族が出来る事を、手放しで喜んでくれはしないだろうか。
不織布の部分にキャップをし、周りをトイレットペーパーで拭った。この青いラインは3日は消えないらしい。 明良の機嫌を伺って、良さそうな時に見せる事にしよう。洗面所の棚の端に、検査薬をそっと置いた。
あぁ、お腹に赤ちゃんが。明良と私の血を継いだ赤ちゃんがいるんだ。家族のいない私達に、家族が出来るんだ。 男の子だったら明良に似るといい。きっとカッコイイ男の子になる。 女の子でも明良に似ればいい。目鼻立ちのくっきりした綺麗な女の子になる。
生まれたら施設に報告に行こう。先生たちはきっと喜ぶに違いない。 小さい頃から行動を共にしてきた施設育ちの私達から、赤ちゃんが生まれるなんて、先生ならきっとお赤飯を炊くな。 それにしても、いつ妊娠したんだろう。最近のセックスは、暴力を振るわれる事が殆どで、きちんとしたセックスをした事なんて数えるほどだ。 セックスの時は避妊をしているのだから、やはり暴力を振るわれて犯されて出来た子供という事か。そう思うと、複雑な気分になる。
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