20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:ふたつの心臓 作者:SO-AIR

第10回   10
.19 令二


「おはようさん」
「おはよう。土曜はお疲れ様」
 ちらっとこちらを見遣り、またすぐにPC画面に視線を戻す。カチカチをキーを押す指が忙しなく動く。
 志保ちゃん、また長袖の白衣を着ている。それに、内側から覗く長袖シャツの袖口。
 暑くないんだろうか。居室が冷えるんだろうか。
「冷房、キツかったら温度上げようか?」
 操作盤がある出口付近へと足を進めると、志保ちゃんは顔を上げて振り向いた。
「いいからいいから。寒くないから。着こんでるし」
 いや、着こんでるしって――長袖着て会社に来たんだろうか。

 隣のデスクに腰掛けて、鞄を引出しに仕舞う。PCを立ち上げている間にコーヒーを淹れる。ドリッパーから立ち上る湯気を見ていた。
 俺もこのクソ暑い中、ホットコーヒー飲んでるんだもんな。そういう人間も中にはいるんだよな。ドリップされたコーヒーを零さないように慎重にデスクに運ぶ。

 週末に出た生データをPCに打ち込んでいく。隣では同じような作業を行っている志保ちゃんの手元から、カチカチとキーを叩く音がして、時折中断し、またカチカチと音がする。
 中断が定期的だな、と思い、横目でチラっと志保ちゃんを見た。中断した瞬間に、白衣の中の袖口を、ぐっと引き上げていた。
 気付かれないように横目で見ていると、またキーを叩く手を止めて、袖口を引っ張る。何か、見られたくないアクセサリーでもつけてるんだろうか。あの彼から貰ったアクセサリーとか?

「おはよー」
「あ、おはようございまーす」
 鈴木さんが眠たげな目をして居室に入ってきた。「土曜はお疲れ様でした」と言うと「おう、買い出しありがとうな」と通り様に俺の肩を叩いた。
「今日のミーティング、俺会議入っちゃったから、個別に進捗訊くから。」
 俺の尊敬する鈴木さんは、仕事面では勿論、社員の声を集約する場、労働組合でも人々に尊敬される立場にある。あんな風に人望のある人物になりたい。俺はそう思っている。
「志保ちゃん、今大丈夫?」
 脚にキャスターがついている丸椅子を俺と志保ちゃんの間に転がしてきて、鈴木さんが座った。
「はい、あの今データ打ちこんでる途中なんで、生データになっちゃうんですけど――」

 2人がミーティングを始めた。俺は自分のデータ入力を続けていた。今回はなかなかイケそうな雰囲気だ。
 このデータなら、鈴木さんから「いいんじゃないの?」って言ってもらえそうだ。あとはこの辺をグラフ化して――。
「あれ、どうしたの、その手首?」
 鈴木さんが抑え目な声だけど驚きを隠せない様子で言った。志保ちゃんの他には俺にしか聴こえない位だったと思う。
「あぁ、これ、怪我です」
 鈴木さんの身体のせいで様子は見えなかったが、聞こえた声には同様の色が伺えた。
 きっと長袖の袖口でまた隠したのだろう。
「志保ちゃんの綺麗なお肌に痕がついちゃったら大問題だよ。気を付けてね」
「あ、はい。ありがとうございます」

 アクセサリーなんかじゃなかったのか。傷を隠していたのか。
 前にもあった。口元の傷。二の腕に付けられた痕。
「彼氏と喧嘩」って言ってたっけ。彼女に傷を負わす程の暴力を振るう彼氏って、どうなんだろう。
 いや、今日の手首の傷(まだ見ていないが)が彼氏によるものなのかどうかはまだ分からないが。
 一瞬、あの張り付いたような宮川という男の笑顔を思い出す。

 俺は近頃、自分では見て見ぬ振りをしている感情がある。
 どうやら俺は、志保ちゃんに惚れているらしい。

 彼氏がいる事は分かっている。だから表には出さないが、惚れている。
 俺は小学校の頃から女の子に人気があった。自分から言い寄らなくても、気に入った女の子は自分に寄ってくる。
 そのうち、俺の性格は捻じ曲がり、俺に好意を向けてくる女の子を片っ端から好きになるようになった。
 何が言いたいかと言うと、俺から惚れた事が1度も無いのだ。今付き合っている彼女3人だってそうだ。
「付き合って」と言われ、容姿だって中身だって悪くなかったからオーケーしたまでた。惚れた訳ではない。
 断って相手を傷つけるより、受け入れて相手を幸せな気分にさせてあげたい。それが今までの俺のやりかただった。
 そんな俺が今、志保ちゃんに惚れている。
 だからこそ気になるんだ。彼女に付けられる幾つかの傷跡。
 身体に付く傷跡はいずれ消えるかも知れない。
 だけど、身体に付くと同時に心にも傷を負っているのではないか。それは癒えるのだろうか。


「令二、今いいか?」
「は、あ、はい」
 考え事をしていた俺は焦ってコーヒーを倒しそうになった。「おい大丈夫か」と鈴木さんの心配そうな声にヘラヘラと「平気ッス」と答える。
 
「うーん、この感じ、いいんじゃない?」
「マジすか?」
「うん、これさぁ、細かくタイムライン追ってみたいな。お前今日、通し勤務できる?」
「ハイ、できますっ」
 通し勤務とは、要は夜通し働くという事だ。最近の俺は鳴かず飛ばずなデータしか得られていなかったので、通し勤務はかなりご無沙汰だが、今回は鈴木さんの推しもあって、ノリにノッてきた。
 今なら切腹も出来そうなテンション。いや、しないけど。
「じゃ、気を付けてやれよ。俺、終業後すぐ組合行って直帰だから」
「はい、わかりました」
 鈴木さんが丸椅子から立ち上がると志保ちゃんが見えた。また袖口を引っ張っている。
 じろじろ見るのも失礼かと思い、横目でちらりと見ていた(勿論仕事もしている)。傷跡は見えない。

「通しなんて、久々なんじゃない?」
 居室には俺と志保ちゃんの2人が残っていた。
「うん、最近不調だったからね、やっと良さそうなデータが出せそうだよ」
 志保ちゃんがパタンとノートPCを閉じた。
「夏の通し勤務は、ゴキブリが出るから困るよね。私、この前3匹を見ちゃって、殺すに殺せなくて、あれは地獄だった」
 白衣の腕を擦って、「あぁ気持ちわるっ」と身震いした。
「出鼻をくじかないでくれ、俺も虫、苦手なんだよぉ」
「まぁせいぜい頑張って、良いデータ出してください。そいじゃ今日は遅いのでさっさと帰ります。お疲れ」
 右手をひらひらと振って居室を出て行った。俺1人になった。両手を組んで頭の後ろに回す。

 志保ちゃんは彼に、宮川さんに惚れている。宮川さんだってそうだ。
 どうして惚れている同士で喧嘩、いや、喧嘩ぐらいはするだろう。でも暴力は――。
 傷跡の話をする時の志保ちゃんは、一瞬でも冷静さを欠いた、瞳の揺れを見せる。『陰』の様な物をチラつかせる。
 何か、人に言えない悩みがあるなら、俺が話を聞いてあげたい。俺が何とかしてあげたい。
 結果的に志保ちゃんと宮川さんの幸せに貢献する事になっても構わないと思う。志保ちゃんが楽しく幸せに生活できるのなら、俺は身を引く。
 惚れていて、惚れていて、本当は俺の物になって欲しいという我欲に満ちた感情がある。
 だけど惚れたヒトに幸せになって欲しいと願う。矛盾しているが、
 俺の中では相反する感情が渦を巻いて、混沌としている。俺に出来る事は――。

「じゃーん」
 居室の出入り口からいきなり志保ちゃんが顔を出した。
「うわっ、びびったっ」
 俺は椅子から転げ落ちそうになった。
 志保ちゃんの手には紙パックの野菜ジュースが握られている。白衣は脱いで、エスニック調のロングスカートに長袖のシャツを着ている。長袖が季節外れで目につく。
「通し勤務の差し入れに参りました」
 そう言って野菜ジュースを差し出す志保ちゃんの腕を反射的に掴んでしまった。
「なにっっ?」
 腕を引っ込めようとする志保ちゃんの腕を少し強引に引き寄せ、長袖の袖口を引き上げた。
 赤い、線を引いたような痕が幾重にもついている。痛々しい。
 それを見られて観念したのか、もう片方の腕はだらりと落ちた。その腕を掴み、同じように痕を見つけた。
「けん、か?」
 目の前に立つ志保ちゃんの顔を覗き込むようにして言った。そこには、あの翳りが見えた。
「喧嘩、みたいな物」
「随分変わった喧嘩するんだねぇ」
「鈴宮君に関係ある?」
 とても冷たい言い方だった。そこには俺が入り込む余地はないという事か。
 腕を握ったまま、傷口を見つめる。赤紫の、蚯蚓が張り付いた様な痕。

「あの、上手く言えねぇんだけど、その、俺は志保ちゃんの事――」
 あぁこういう時、どうしたら良いんだろう。俺は経験が少なすぎる。
「志保ちゃんの事、心配なんだ。喧嘩だろうが何だろうが、女の子に傷つけるなんてどうかしてると思うんだ。何か、話だけでも聞くから、何かあったら俺に話してよ。」
 暫く沈黙が流れた。外から虫が鳴く声が響いた。そして志保ちゃんは静かに言った。
「ありがとう。でも鈴宮君は1度に3人もの女の事付き合って、彼女たちを傷つけてると思わないの?見える傷と見えない傷、その違いは?どっちが問題?」
「――」
 返す言葉が見つからなかった。本当だ。今はうまくやっている3股も、勘付かれたら彼女達を傷つける事となる。いや、今この瞬間も、彼女たちを傷つけているんだ。
「そんな訳で、私帰るね。通し頑張れー」



.20 志保


 ここ数日、体調が優れない。食欲が無い。
 特に食べたい物も無く、仕方がないので飲み物と、ゼリーを食べてお腹を満たす。
 今日も昼休みに「食堂にはいかない?」と先輩に誘われたが断った。
 少し外の空気が吸いたくなって、外に出てみた。植樹だとしても緑は緑。木の下にいると少し気分がいい。

 自分を心配してくれている鈴宮君に、とても酷い事を言ってしまったと後悔している。
 実際は誰かに相談すべき事態だと認識している。
 だが、明良と私の特殊な結びつきを理解してくれる人は殆どいないであろうと諦めているし、私は今のいびつな関係であっても明良と一緒にいる事を望んでいる。
 あの翌日、通し勤務を終えた鈴宮君は、午前中には帰って行ったが、いつもと同じように接してくれた。その後も、だ。
 優しいな、と思った。
 
 今まで明良以外の男の人と関わった事が無い訳ではないが、鈴宮君は私の中に入り込もうとしている事が何となく分かる。
 今までは大抵、「志保ちゃんには宮川君がいるから」と1歩ならず2歩引いて接してくる男性が多かった。
 中学の頃だったか、私には明良と言う彼氏がいる事を知っていて2度も告白をしてくれた男性がいた。
 明良に知られてボコボコにされた。それ以来彼が私に近づく事はなかった。
 それ以外で、私と明良の関係に、私の心の中に入り込もうとするのは鈴宮君だけだ。
 それを今、悪く思わない自分がいる。気に留めてくれている事を嬉しく思う自分がいる。

「志保ちゃーん」
 中庭でバレーボールをやる一団の向こうから、鈴宮君がビニール袋を提げて手を振っている。手を振りかえすと、こちらへ走ってきた。
「はぁ、この前の、通しの時のお礼ね」
 息を切らせながらそう言うと、紙パックのいちご牛乳をビニールから取り出し、私に手渡した。
「ありがとう」
 まだ自動販売機で買って間もないのであろう、心地良く冷えていた。
「志保ちゃんはいつもカフェで甘い物飲んでるから、それを選んでみた」
「いちご牛乳、好きだよ」
「それは何よりで」
 鈴宮君は芝生に座る私の隣に「失礼」とひと言投げてから腰かけ、紙パックのコーヒーにストローを挿して飲み始めたので、私もいちご牛乳にストローを挿して飲んだ。
 甘ったるい苺の匂いが口の中に広がる。

「俺ね、彼女と別れようと思ってるんだ」
 鈴宮君の意外なひと言に、私は目をパチクリした。「そんな顔しなくても」と鈴宮君は苦笑いを見せた。
「前に志保ちゃんに言われた言葉、あれは効いた。俺は彼女達を傷つけてるって」
 あぁ、私は酷い事を言ったと後悔していたが、結果的には良い方向に進むんだろうか。先を促すように「ん」と頷いた。
「人を好きになるって、俺は今まで経験が無いんだ。好かれる事はあっても、自分が好きになる事って無かった。それが今、『好きだな』って思える人が出来て」
 目の前では白いバレーボールがポンポン跳ねている。地面に付くたびに複数の「あぁぁ」という落胆の声が聞こえる。
「良かったじゃん。大事な事に気づく事が出来て。人を好きになるって、結構な覚悟が必要だよね」
 9月の風が木を揺らし、木漏れ日が左右に揺れる。いちご牛乳をもうひと口、飲む。
「志保ちゃんみたいに、1人の人を『好きだっ』って思ってるのは凄いなと思うよ」
「好き、ねぇ」

 好き、という言葉に何か違和感を覚えた。
 私は明良の事が好きで一緒にいる筈だ。だけど明良の事が好きなのかと今一度、良く考えてみると、素直に「好き」と言えない自分がいる。
 一緒にいなければいけない「使命」がある、と自分を雁字搦めにしているのではないか。頭の片隅で、冷静な自分がそんな警鐘を鳴らす。
「明良とはね、中1の頃にはもう、セックスしたの」
 私のカミングアウトに鈴宮君は面食らった様子だった。
「明良も私も、親を知らないんじゃなくて、親に捨てられた、それに捨てられた記憶も残ってる。2人とも同じような境遇で育って、自分の足りない部分をお互いが補い合って生きてきたの。だから、好きとか何だとか、そういう言葉で表すのが難しい関係なんだ」
 重たい話をしてしまって少し後悔した。だけど鈴宮君は「うん、うん」と誠実なしっかりとした目で頷いて聴いてくれた。
「施設の人に迷惑を掛けないように、夜はすぐに寝たふりをして、誰もいなくなってから母を想って泣いてたの。毎晩。その度に明良が抱きしめて背中を擦ってくれてたの。小学生の時ね。そんな頃から、お互いに触れる事に慣れてたし、お互いの思う事が手に取る様に分かるようになってた」
「そこにいて当たり前の存在なんだね」
 鈴宮君の瞳が少し淋しげに揺れた。
「じゃぁ乱暴されるのも、相手の気持ちが分かるから、許しちゃうって事か」
「そうだね、その通り」
 私は潔く頷いた。
 暫く沈黙が流れた。バレーボールは明後日の方向へ飛んでいき、ゲラゲラと笑う声が中庭にこだまする。何がそんなに楽しいのか。

 鈴宮君は両手を頭の後ろにやって芝生に寝転んだ。
「俺にはわかんねーなー。いや、そう簡単に分かる訳もないんだけどさ。それでも大切な女の子に傷を負わせる程、暴力を振るうってのぁ、俺には理解できない」
 業務開始5分前のチャイムが鳴った。
「変な話聞いてくれてありがと。何か鈴宮君って優しいから、何でも話せちゃうな」
「俺は彼女と別れる、とここに誓う」
 よっこらしょ、っと立ち上がり、強くそう言う鈴宮君に、今までに無い強さを見た。
 微笑みながら私も立ち上がると、目の前が青くなり頭がグラリと揺れた。
「ちょ、大丈夫?」
 冷や汗が湧きあがってくるのが分かった。頭の奥がずきずきする。胃がせり上がって口へ近づく様な気持ちの悪さ。
 暫く鈴宮君に寄り掛かっていたが、そのうち目の前が色を取り戻した。
「ごめん、ちょっと最近体調が悪くて」
 鈴宮君に付き添われるような形で居室に戻った。体調が悪くなり始めて2週間は経つ。
 まさかとは思うけれど――。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2319