結局、それから15分と経たずして仕事は終わった。 高橋君は指摘しなかったが、私がわざと仕事をノンビリやっていた事は、恐らく丸わかりだったろう。
「ありがと、手伝ってくれて」 ぼそっと言うと、「あぁ」とだけ答えた。身支度をして、壁にかけてある職場の鍵を手に取る。チャリン、という金属音が手の中に収まり鈍い音に変わる。 「煙草、吸ってくる」 そう言って彼はひと足先に部屋を出て、喫煙所へ向かった。 私は居室に鍵をかけ、そのまま社の出入り口にある守衛室まで持って行こうと思ったけれど、何と無く気が咎めて、喫煙所の前で彼が出てくるのを待った。
喫煙所から出た高橋君は、「行こう」とひと言いい、その言葉の意味も聞かないまま私はその後ろを歩いた。守衛室に鍵を返却し、外に出た。
外は小雨がぱらついていた。 「行こうってどこに――」 いきなり右腕を掴まれ、脇の下が吊れる痛みが走った。乱暴。 「いいから。ついて来い」 私は痴漢を犯して駅員に連れていかれるサラリーマンのように、高橋君の後を引き摺られるように歩いた。私が何したと――。
ひと言も話さず駅前に着いた。「じゃ、ここで」と言ったら、腕を握る力が一層強まり、今度こそ脇の下らか腕が千切れるんじゃないかと思い、仕方なくついて行った。
連れて行かれたのは駅の裏にある、ラブホテルの前だった。 へぇ?この人何考えてんの?私の話、聴いてたぁ?1から100まで説明しないと分かんないの?
「な、なんでこんなとこ」 「俺の事、好きなんだろ」 この目だ。この、ちょっと瞳孔開いちゃってるような目が、怖い。でも少し――そそる。 「好きだからってラブホ――」
その時だった。視線の先にいた人間に反応し、私は高橋君を引っ張る形で咄嗟にホテルのドアをくぐった。 視線の先に、中田さんが見えたから。街灯に照らされた彼女の巻き髪までくっきり見えた。彼女は私に気づいただろうか――。 見られて困る事はない。だけど何と無く、男と2人でラブホテルの前で、手を繋いでいる(本当は腕を引っ張られている)場面なんて、見られたくない、と思ってしまった。
動揺している間に、高橋君はフロントから部屋の鍵を受け取り、また私の腕をグイと引っ張ってエレベータに乗せた。フロントさん、通報してくれー!
待て、待て、話せば分かって貰える筈だ。先ずは部屋に入って、落ち着いて話をしようじゃないか。3階の1室に入った。
「先シャワー、どうぞ」 なんて言われたら張り倒してやろうと思ったけれど、高橋君は部屋の殆どを占めるベッドには乗らず、勿論シャワーも浴びず、ベッドの横に申し訳なさそうに置いてある堅そうなソファに座った。 私はどうしたら良いのか分からずその場に立ちつくしていた。 「話したいから、そこ座れよ」 高橋君が座る対面のベッドを指さして言った。 私は言われるがまま、高橋君と対面する形でベッドに腰掛けた。フカフカの布団が自重で沈んでいく。
「で、何故こんな所に?」 私は視線を合わせる事は出来ず、人差し指と親指の爪をカチカチと擦り合わせながら手元をじっと見ていた。高橋君は暫く黙っていたが、やっと重い口を開いた。 「話したかったんだ。ゆっくり2人きりで話せる時間が欲しかった」 彼の視線を、痛いほど感じた。なかなか顔が上げられない。 「はい、それでは張り切って参りましょー」 重い空気を押しのけようと、ふざけてみる物の、完全に滑っている。 「俺には彼女がいる。それは確かだ」 「うん、知ってる。だから私と付き合う事は浮気になる」 やっと、視線を高橋君に送る事が出来た。目が合ったのですぐに引き下がる。 「彼女、ちょっとおかしいんだ」 完全に顔をあげて高橋君を見ると、少し困ったような、苦しいような、何とも形容のし難い顔で手元を見ていた。 「おかしいって、どういう事?」 私は爪をカチカチするのをやめ、自分の後ろに体重を支える様に腕を置いた。 「別れようって何度も言ってる。だけど別れてくれねぇんだ。その言葉だけ聞こえてねぇみたいに、話を続けるんだ。合鍵も返してくれない。ライターのストラップを外すと烈火の如く怒る。結婚してくれないと死ぬ、とか言ったりな」 いいか?と煙草を吸う仕草をしたので頷くと、ワイシャツのポケットから煙草とライターを取り出した。ライターにはストラップはついていなかった。 「ストラップ、無いじゃん」 ジッと炎が立ち上がり、1本の煙草の先端が赤く染まる。大きく息を吸い込み、吐き出す。煙草の匂いがこちらへ届いた。 「普段は外してる。たまたま藤の木に行った日は、前日に彼女に会っててな。付けたまま忘れてた」 ストラップは彼女が勝手につけた。そう言っていた。それは本当だったのか。 「私は過去に、同じ人間に3度も浮気された事があるんだ。だから男を警戒してるの。何となくの火遊びなら、勘弁して。同じ会社だし、顔合わせづら――」 「本気だって言ったんだろうが!」 急に声を荒らげた彼の顔には、怒りの様な物が垣間見られた。 彼は本気だ。だけど相手の彼女だって本気だ。やっぱりきちんと別れてからしか、受け入れられない。 「高橋君には悪いけど、それでも君には彼女がいる。この状況は変わらない」 「俺はお前が好きだ。彼女にも、好きな人ができたって言った。それでも別れてくれねぇんだ。どうしょもねぇだろうが――」 そう言って彼は頭を抱えてしまった。サラサラの黒い髪が、その手に被さる。 灰皿に置かれた煙草は、煙をあげながら少しずつ、短くなっていく。
私だって、彼の事は好きだ。とても惹かれている。きちんとお付き合いをして、デートをしたり、お互いの家を行き来したり、セックスしたりしたい。 だけど、彼女からしてみれば、私は小汚い女狐でしかない。 自分の男を誑し込む女狐だ。そんな風に思われるのも嫌だし、そんな自分も嫌だ。 「高橋君の気持ちは分かった。私も君の事が好きだよ。だけど今は、深い関係にはなれない」 うん、と高橋君は先を促すように相槌をうつ。 「身体の関係は、彼女との清算が済んでからにしよう。一緒にお酒呑みに行ったり、どこか出かけたりっていうのは構わない。だけど一線を越える事は、お預けって事で、どう?」 灰皿に置かれた、だいぶ短くなってしまった煙草をひと口吸い込み、吐き出す。その事で頭がクリアになったかのように、彼の眉間から皺が消えた。 「分かった。そうしよう。俺は彼女と何とか別れられるようにするから、それまで待っててくれ」 「ラジャ」
急に右手を差し出されたので、驚いて彼の顔を見ると「握手ぐらい、いいだろうが」と言った。 誓いの握手。ごつごつしている彼の掌は、私よりも全然大きく、温かかった。
「ここ、宿泊で取ってあるから、お前泊まってけよ。俺は帰るから」 そう言って鞄とスーツを手に立ち上がった。 「え、私、帰るよ、高橋君が泊まってけばいいじゃん」 ドアに向かってスタスタ歩きながら「今日も彼女と格闘」と言った。 その背中に「ありがと」と小さな声で言い、彼はひらりと右手を上げてドアを出て行った。 キングサイズのベッドを独り占めできるなんて、そうそう無い事だ。 とりあえずお風呂にお湯を張り、旅行気分で過ごした。
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