Chapter.1 邂逅
じりじりと照りつける白い太陽が、がたごとと走るジープの荷台を灼いている。 西の大砂漠の日射しは強烈だ。空気中の水分はことごとく砂と太陽に持っていかれてしまい、後には喉の痛くなるような乾燥した風が吹くばかり。ジェイはモスグリーンの幌の中に寝そべって延々と延びるタイヤ痕を眺めていた。
この幾何学的な二本の線は、今の自分にそっくりだ
ジェイはいつになく厭世的な気分で、自己嫌悪と苛立ちの無限ループに陥っている。
順調と見えたレールが、じつは砂でできた脆いわだちにすぎないと、いったい誰が考えつくだろう。俺の過去も今も未来もこんなふうに捩れて流砂に呑まれ、消えていくのか。
ふだんならこんなにネガティブな考え方などしない彼だが、こと今日においては違っていた。 異動命令。 あるいは左遷。 そんな慈悲もない命令が下されたのはつい三日前だ。 理由は至極簡単なこと。脚を負傷した、たったそれだけだ。 しかし前線で戦う兵士にとってはその『たったそれだけ』が十分すぎるほどに命取りになる。 特に彼にとっては。
今からおよそ三十余年あまり前の話だ。ニンゲンはその飽くなき探求心と純粋なる知的好奇心でもって、ヒトの遺伝情報の暗号を読み解き、そして再び組み上げるという魔術にも似た技術を開発していた。 最初はただの研究にすぎなかったその力が、南北に分かれたこの国の、長い長い小競り合いに投入されるまでにさして時間はかからなかった。 幸福のために生み出された技が、反対に幸福を奪う使い方をされるのは今に始まったことではない。車両、飛行機械、ダイナマイトエトセトラ。 遺伝子を操作して、全く新しい生物を生み出すというその技もまた然りだった。 人々は、『ヒト』よりも強靭で忍耐強く、そして従順な兵士を造り上げることに躍起になった。すべてはこの戦争を勝ち取るがために。
そうして生まれたミュータントの、何代目かがジェイだった。ジェイとその兄弟たちは常に最前線で戦うことを義務づけられていた。そしてそれを誇りだと思っていた。
だからこそ。
今回の異動はあまりに残酷で、屈辱的なものだったのだ。走り続けなければ死ぬしかないサラブレッドのように、ジェイもまた戦う以外のことを知らなかった。けれど。
捨てないでくれ
そう泣きつくのはひどく惨めだったし、言ったところで役立たずになにができる?と返されるのが関の山だったから、暗に「おまえはもういらない」とほのめかす命令を、甘んじて受ける以外に道はなかったのだった。
がくん。車が跳ねた。ジープの揺れが大きくなる。気づけば辺りは砂の海から荒涼とした荒れ地に変わっていた。わだちはもう見えない。褐色の地面は大勢の何者かに踏み固められたかのように硬く、岩のようで、跡のつく余地などないようだった。 「着きましたよ」 しばらく揺られていると車は速度を落とし、運転席の覗き窓からまだ若い兵士が顔を覗かせた。 「この揺れのなかで、よく寝られますね」 「…吐きそうだ」 比喩でも何でもなく、事実最悪な気分だった。惨めさも通り越して涙も出ない。そんなジェイを憐れむように見て、兵士はシフトをチェンジする。きいい、と錆びたブレーキ音を響かせて停まったのは、このジープと同じく古ぼけ、引退も間近といった感じのプレハブ小屋だった。 幌の隙間からそれを見てとり、ジェイはいささかげんなりした面持ちで立ち上がり、ボストンバッグを手に取る。 「勤務地はここです。小屋は好きに使ってください。日用品やら生活雑貨なんかは毎週火曜に定期連絡が入るはずですから、そのときリストにまとめて請求してください。」 神妙な顔で話を聴き終わると、荷台から飛び降りる。そしてわずか一秒後にそれを後悔した。 傷ついた右脚が鈍く痛んだ。忘れていたのだ。自分がもう以前のようには動けないことを。 「大丈夫ですか」 「触るな」 知らず言葉が鋭く尖った。若い兵士ははっと身を引くと、怯えるようにジェイを見た。 「いいんだ。…構わないでくれ」 「…はい」 ひどく弱々しい声だと思った。兵士も、自分も。一瞬訪れる沈黙。ただ荒野を渡る風だけが鳴いていた。こんな八つ当たりみたいなことをして、どうしようというのだ。自分は。 「では…僕はもう行きます。次は来週の火曜に」 目を合わさないように兵士はそそくさとジープに乗り込んだ。 それを見送ってしまえばただ一人。取り残される自分がいる。 ジープの起こす砂煙を眺めながらジェイは重いため息をついた。明日からはここが自分の終の住処となる。きっと。俺を思い出してくれる友人などいないし、家族などもっての他。ひとりさびしくここで死ぬのを待つだけの、単調な日々が始まるのだ。 気分と同じく重い足取りで小屋に向かい、ドアノブに手をかけた。その時だ。 「ヘイ」 ジェイは文字通り飛び上がった。こんな荒野で声をかける誰がいる?慌てて拳銃をホルスターから抜き取り、振り返りざま構える。 「丸腰の相手に銃を向けるのか、おまえは。それは感心できないな」 ジェイと同じく皮手袋に包まれた長い指が、バレルにかかるやいなやすばやく押し下げた。剛腕で鳴らしたジェイが、あらがえないほどの力だ。 「だっ、だだだだれだ!!」 「そんなに興奮するな。こういうときに取りみだすとロクな結果にならないぞ」 声から逃れようと後ずさる脚がガツンと小屋のドアに当たった。鈍い痛み。 「大丈夫か?」 思わず呻くジェイに呆れたような声をかけて、肩に手が乗る。 「触るな」 「おっと」 振り払う手をひらりと避けて声が遠ざかる。その方向を睨みつけて一瞬後、ようやく相手を観察する余裕のできたジェイはぽかんと口を開けた。 小柄な人物だった。190センチオーバーのジェイと比べれば、華奢にも見えるその体躯。やせぎすなその躰を包むのはくすんだ銀ねずの制服。 敵国の軍服だった。 「ききききさま!」 「なんだ」 我にかえり怒鳴るジェイに耳を両手で塞ぐジェスチャーをしながら、彼だか彼女だかは答えた。 「ここをどこだと思ってる?!領地侵犯だ!!」 「ふうん」 悪びれた様子も見せず、その人はうなじの辺りで無造作にまとめた長い髪を片手でさばいた。こんな荒野にいるにもかかわらず、黒髪はつやつやと太陽の光をはじいている。不敵な態度はこの乾ききった世界の空気に対しても同じようだった。 「ここには明確な国境なんてないんだよ。この地面のどこにそんな線が引いてある?ボーヤ。」 「ぼ…!!」 ジェイはカッと頭に血が上るのを感じた。 「俺は子供じゃない!!なにを偉そうに…」 「ああ。失礼。僕?」 今度はジェイは無言で殴りかかった。 ひねりの効いた右ストレート。戦うために生まれた彼だからできる、正確さとパワーを兼ね備えた一撃。けれど――― 「だからそうすぐ暴力に訴えるなってば」 再び呆れたような言葉。ジェイは愕然とした。かわされた?この俺が 躰をわずかに傾いだ格好で、見上げてくる目に呆然とした自分の姿が映る。どうしてどうしてどうして 「落ち込むなよ。おまえはけが人だ、仕方ないさ」 息がかかるほどの距離でかちあった、黒目がちの瞳の中に緑色の炎が燃えている。否。それは落雷の際のスパークのような、火花。 「少し冗談が過ぎたよ。悪かった」 先と同じく全く悪びれないその言葉が不思議だと思った。憐れみでも、蔑みでもなく、まるで子供をなだめる親のようなそれが、心地よく、そして悔しかった。 悔しい 今までそう思ったことなんてなかった。しかし自分は今、それを感じている。 「仲直りしよう」 そう差し出された細い腕を苦々しい素振りで振り払う。 「まだ怒ってるのか?」 「…」 ジェイは何も言わず、背中を向けた。 感情の赴くまま、行動することばかりだ。今日は。 この荒野に来て、自分の中の『何か』を決定的に変えられたような気がする。けれどそれが嫌ではないのが驚きだった。 …嫌じゃない?さっきまで俺は 「ジジだよ」 戸惑う背中に不意にかけられた言葉に振り返る。ざざざと風が鳴いた。 「ジジ。私の名前」 荒野の風に吹かれて、彼だか彼女――ジジは微笑んでいた。今までの人生のなかで一度も見たことのないくらい、穏やかで優しい顔だと思った。 「明日からよろしくな」 それまでの無駄口が嘘のように、それだけ告げるとジジは踵を返した。ジェイはまだなにか言いたいことが残っているような、座りの悪い気分でそれを見送る。そんな心境を解っているのか、野茨の繁みに躰が半分隠れるところでジジは片手を上げた。 すとん。と自分の中で何かが落ち着いた。解らなかったパズルのピースがはまるように。 「………明日…か」 呟いてプレハブ小屋の扉を開ける。傾いた西日がくすんだ窓から入って狭い部屋を金色に染め上げる。 最悪な気分はいつのまにかどこかに消えていた。
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