プロローグ
ふたりはバスに揺られて都会を後にした。 空には青い三日月。アイスブルーの大地に群青の夜が降り注ぐ。遠く山並みは、ぎざぎざと剃刀の鋭さで月の光をはじき返している。わずかに開けたバスの窓から、冷たい夜と荒野の匂いがした。 「懐かしいな」 ふたりのうち、大柄な男がぽつりと言葉を落とした。バスにはふたり以外の乗客はいない。静かな声が、遠雷のようにエンジンの音に重なって、消えた。 「おまえの見たがっていた景色だ。…こんなもののどこがいいのか、俺にはさっぱり解らんが。」 もうひとり、小柄な人物はひっそりと寄り添うように男の肩に頭をあずけ、じっと目を閉じている。やがて来る終点にバスがさしかかっても、その細い躰は動かない。眠っているのか、死んでいるのか、解らないほどに。 「静かだな。先の戦争の火も、さすがにここまでは届かなかったみたいだ」 しかし男は話を続けた。まるで自分に言い聞かせるがごとく、確かめるがごとく。 「他の奴らが見たら酔狂だと言われるんだろうな。…こんな西のはずれまでわざわざ帰って来るなんて。」 男は料金箱に二人分の乗車賃を落としこんだ。自分の手のひらの熱で温もった金属が、箱の底に触れて澄んだ音をたてる。その硬貨もやがては自分の体温を忘れるだろう。まるで己が行く末のように。 運転手が制帽を上げて軽く会釈をした。それに応えてゆっくりと停まったバスのステップを降りる。腕に眠り続ける細い躰を抱いて。 さびれた通りを渡る風が、鋭いつむじ風となってふたりの着衣を揺らした。西の砂漠に面した寒村。ここには風を遮るものなど何もない。そう何も。 見渡す世界は砂、砂。砂の海。そこに敷かれた最後のアスファルト。月の光が柔らかなヴェールのように無骨な地面を包み込む。 「また一苦労だな」 男は空を振り仰いだ。ここから先は歩きだ。車は砂の海には入れない。軍の特殊車両でもなければたちまちのうちにタイヤは細かな砂を咬み、立ち往生してしまうことだろう。 びょう、と風が鳴いた。夜の風は冷たい。そして腕に眠る細い躰も、いっそ儚いほどに冷たかった。 コートの前みごろを掻き合わせ、男は砂の上へと一歩、足を踏み出す。融けて脆くなったアスファルトがブーツの下でぐずりと砕けた。足元から崩れゆく世界。すべてが夢か幻のようなこの世界で、落としてしまわぬよう、きつく抱きしめた腕のなか、確かな重さだけが、寄りべとなるような気がした。点々と砂に残る足跡も、じきに流砂が運び去るだろう。
それならば俺は何のために
男は自分に問いかける。
そんなもの
ふいに風のなか、笑う声を聴いた。
そんなもの、なくたって。ここにいるじゃないか。おまえはここに、私はここに。 それがすべて。すべての答え。意味なら後でつければいい。
男にしては高く女にしては低い、けれど耳に心地よい、懐かしい声。
ああ。そうだ。
男は迷いを振り切るように砂漠のさらに先を見つめた。このまま進み続ければ、見えてくるだろう、いずれ。西の荒野が、岩といばらしかない不毛の土地、けれどすべてが始まったあの場所が。 まっすぐに前を見て歩く。その背中にわずか、光が射した。夜明けを告げるドーンパープル。鮮やかな紫が、背に、髪に、未だ残る足跡に灼きついた。空の群青は薄れ、アイスブルーの大地も、やがては金色を思い出すだろう。
明けることのない夜が、今、明けようとしていた。
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