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作品名:牧神の目覚め 作者:今野 綾子

最終回   1
 身体がだるい。
 加藤孝は、寝覚めの違和感に、このところ悩まされていた。
 たっぷりと寝たはずなのに、妙に寝不足のようなだるさがある。
 それは、忙しい平日だけでなく、休日でも同じだった。
 数ヶ月前までは、こんなことはなかった。そう、前のアパートを引きはらって、健太郎とともにこの部屋に来るまでは。
 ミニチュアダックスフントがキュルンと鳴いて、心配そうに孝を見つめる。
「ああ、ケンタ、大丈夫だって」
 孝は、ミニチュアダックスフントの健太郎をひざに抱えた。
 健太郎は、気遣うように孝の頬をペロリと舐めた。


「生まれ変わるんなら俺、ペットがいいよー」
 秀明は、大きな身体を揺らして言った。
 半年ほど前、孝は田中秀明と居酒屋で飲んでいた。
 秀明は、大学時代の同じゼミの仲間だった。あの頃はよく飲みに行ったり遊びに行ったりしたものだった。
 飲むのは卒業以来だった。あの頃は毎日のように会えていたし、秀明と特に親しくしていた自覚もなかったので、卒業してからの連絡先も交換しないでそのままになっていたのだ。
 その日、孝は通勤ルートにあったチェーンのハンバーガー屋で秀明が働いていることを偶然知った。
「いま、俺の時間終わるところだから、ちょっと待っていて」
 めったにハンバーガーなど買わない孝だったが、ふと小腹が空いて、仕事の帰りがけに立ち寄ったのだった。だから、秀明がここで働いていたことは、入社してから3年このかた知らなかった。
 秀明は縞のシャツを着て、胸までくる濃緑のエプロンをかけ、白い紙の帽子をかぶっていた。孝が会計をしようと顔を上げたところに、秀明がいてお互いに気付いたのだった。
「店長〜、ちょっと」
 店の奥のほうから女の子の声が聞こえる。
「な、店の脇で待っててくれ」
 愛想の良い笑顔でそう言い残すと、秀明は店の奥に消えていった。
 数分後、私服に着替えた秀明が出てきた。大学の頃と変わらないチェックのシャツにジーンズ姿だった。
「孝はすっかりサラリーマンらしくなったなあ」
 スーツ姿の孝を見て、秀明はまぶしそうに目を細めた。
「秀明は変わってないよ」
 そんなことを言い合いながら、手近な居酒屋に入った。
「なんでまた、ペットなんかがいいんだよ。お姉さまの足とか舐めたいのか?」
「そんなんじゃないって。ペットはさ、好きなだけ寝て、あとは食べて、気が向いたら遊んでられるだろ?そんな暮らしがしたいなあって思ったんだよ」
「秀明らしいな。でもお前、そんなんやったら本当にブタになるぞ」
「ブタ?いいねえ。最近ブタもペットなんだろ?いいじゃん」
 悪びれずに秀明は受け流した。
「食われるって、食肉用と間違われて」
「大丈夫だよ」
 ふたりは笑いながらジョッキでカンパイした。


 秀明の訃報を知ったのは、三ヶ月前だった。
 居酒屋で飲んだのは半年前だから、その三ヵ月後になる。
 死因は心不全だった。
「あの子は……会社に殺されたんです!」
 お悔やみを述べた孝に、秀明の母親は張り詰めた声で答えた。
 まわりの弔問客が驚いて振り向くのにも、構わないようだった。
「過労死するまで……こき使って!」
 マスカラが涙に溶け、黒い筋が頬を伝う。隣の秀明の父親らしき初老の男性が、なだめるように肩に手を添えた。
 弔問の後、そのままアパートに直行する気にもなれなかった孝は、複合ビルの中をぶらぶらと歩いた。お菓子の店やレディスファッションショップ、コスメティックの店など、孝にはおよそ用のない店が多かったが、そんな中に一軒のペットショップがあった。
 動物を見たら癒されるような気がして、孝はペットショップに足を踏み入れた。今はアパート住まいで動物は飼っていないが、実家では犬や猫を飼っていたから抵抗はない。
 猫、ウサギ、オウムなど、さまざまな動物のケージが店内を埋めつくしている。
 ふと気が付くと、一匹のミニチュアダックスフントが、孝を見つめていた。
 通常、ペットショップの動物たちは、見られることに慣れているからなのか、特定の客と視線を合わせないものが多い。
 しかしその犬は違った。孝だけを凝視して、視線をそらさない。
 その眼に孝はなぜかただならぬものを感じた。理由は分からないが、離れてはいけないような気がしたのだ。
「すみません、あの犬、予約できないでしょうか」
 ペットショップの店員は快諾した。
 それから孝が、ペットOKのアパートを探し、引っ越すまで一週間かかった。家賃は安くなかったが、それよりあの犬を連れて帰り、一緒に暮らすことのほうが重要なことのように、孝には思えたのだった。
 家財が新しいアパートに入った知らせを受けた孝は、まっさきに犬を予約していたペットショップに行き、ミニチュアダックスフントを受け取った。
 まだ段ボールだらけの部屋で、孝は犬を移動用のかごから出した。
「さあ、ここがお前の新しいうちだ」
 健太郎と名づけられたミニチュアダックスフントは、眼を輝かせて段ボール箱の間を走り回った。
 孝の体調の異変は、この引越しの後から始まっている。


 孝は久しぶりに、パソコンを起動した。
「ん?」
 作業をしようとマイドキュメントを開いたら、見慣れないファイルがあった。
「何々?『向こうずねに聞いてみろ?』」
 ワードのファイルだった。
 開いてみると、それは小説のようだった。孝の興味あるジャンルではなかったが、なかなかよく書けている。
 しかし、孝はそんな小説を書いた覚えはない。そもそも小説など書けなかったし、書こうと思ったこともない。ネットで見つけた小説を気に入って、テキストをコピーしたりした記憶もない。もともとネット上の小説を読む趣味など、孝にはなかった。
「ん〜、ど忘れかな?」
 とりあえずそのテキストファイルはそのままにして、孝は作業に入った。
 もともと孝は、ネットであれこれするほうではなく、パソコンを起動するのも必要に迫られた時くらいだった。
 作業を終えた孝は、パソコンをシャットダウンした。それきりそのテキストファイルのことも忘れていた。
 しかし翌日どうにも気になり、孝は再びパソコンを起動させた。
 ひょっとしたらもう一回見たら何か思い出すかもしれない。
 だが、マイドキュメントからそのファイルは消えていた。
 孝は、消えたファイルを復元させる方法もあると聞いたことはあったが、そういった知識にはうとく、掘り下げる興味もなかった。
 しかし、消えたファイルが気にはなる。
 何か手がかりがあるかもしれない、そう思い、孝はネットでタイトルを検索してみた。
 すると、『向こうずねに聞いてみろ』でヒットしたのは、オンライン小説のダウンロードサイトだった。
「え……!」
 孝は自分の目を疑った。著者名に見覚えがあった。
「Panって……秀明じゃないか!」
「ギャン!!」
 孝の大声に驚いたのか、犬の健太郎が飛び上がった。
 振り向くと、固まっておびえたように孝を見ている。
「ごめん、びっくりさせちゃったか。ようしよし」
 孝が頭を軽く撫でると落ち着いたのか、気持ち良さそうに目を閉じ、うずくまった。
 Panは、ギリシャ神話の牧神Panから取った、秀明のペンネームらしい。前に彼が言ったのを、孝は覚えていた。
 偶然の一致なんだろうけども、それにしても。
 半年前は秀明とは居酒屋で別れたので、前の孝のアパートに秀明が訪れたことはない。
 アパートは孝が就職してから引っ越した場所だし、パソコンも仕事の関連で必要に迫られて就職後に買ったものだから、秀明がこのパソコンと接触した可能性はない。
 更に、不可思議なことがあった。
 孝がときたま見ているSNSやツィッターなどのアカウント名が「Pan」になっているものや、ログインIDを選ばせる画面でID枠をワンクリックすると、自分の使っているIDのほかに「Pan」というIDが候補リストに載っていたりした。
 そういったものはたいてい、翌日には消えていた。
 ある日、孝は「Pan」とID選択枠に残っているSNSで、自分のIDではなくわざと「Pan」を選んでみた。
「これ……秀明……じゃないか……」
 Panのプロフィールは、秀明そのものだった。好きな食べ物や映画、興味のあることまで、全く秀明そっくりだった。
 そして、驚くべきことに、日記の更新がある。
 秀明は3ヶ月前に死んだのに、だ。
 このSNSも翌日にはPanのクッキーが消え、Pan名義でログインはできなくなっていた。


 Panは、秀明なんだろうか?
 でも、だとしたら秀明は生きていることになる。
 生きているなら別に、葬式なんてしないはずだ。
 孝は、柩の中に横たわる秀明を見た。取り乱す母親も見た。すべてが演技だとは思えない。秀明の母親は訴訟でも起こしそうな勢いだった。
 じゃあ、秀明の幽霊がやっていることなのか?
 孝は、いくつか回ったPanが登録しているSNSのうち、ひんぱんに日記更新などをしているサイトに、メッセージを送った。
「はじめまして、Panさん。少しお聞きしたいことがありますので、明後日23時頃にチャットでお話できないでしょうか」
 チャットならログを残せるし、万一Panが赤の他人だとしても、いきなり電話番号を教えろと言うより抵抗は少ないだろう。それに、メッセージやメールだと相手に考える時間を与えてしまう分、何かごまかされてしまう可能性もあるが、チャットだと話すのに近いから、へんにごまかす隙をあたえずに、本当のことが聞けるかもしれない。
 孝はメッセンジャーとスカイプのアドレスを教えた。
 翌日、メッセージに返信があった。メッセンジャーで、ということだった。


 当日。
――こんにちは。はじめまして。パンです。
「ワン!」
「おい、ケンタ。チャットがおもしろいのか?」
「ワワン、ワン!」
 健太郎は、画面に向かって吠えている。初めて見るから面白いのかもしれない。
――こんにちは、Panさん。私の本名は加藤孝といいます。
 孝はあえて、本名を名乗った。本当にPanが秀明なら、孝の名前に食いついてもいい筈だからだ。
――そうですか。いきなり本名を名乗るのも珍しいですね。個人情報ですから、大事にしたほうがいいと思いますよ。
「ワンワンワンワン!」
 健太郎は画面に向かって必死に吠え、それからキューンと困ったような声を出し、丸まった。
 本名をフルネームで伝えたが、大した反応がない。秀明だったら「孝!?孝なのか?いやあネットの世界も狭いなあ。で、何の用?」とか切り出すに違いないのだが。やはり他人のそら似だろうか。
――あ、ああ!えっと……おさななじみの孝さ……、いや、孝だったよね。久しぶり、元気だった?
 おかしい。
 明らかに何か、ごまかそうとしている。
――なぜ私が、あなたの幼なじみだと思うのですか?
――それは……ええと……そう、思い出したから!
――じゃあ、どこの学校で一緒でしたか?
――意地悪だなあ。えーと……ど忘れ!
 嘘だ。普通、大学時代の同級生を「幼なじみ」とは言わない。このPanは明らかに、こちらに話を合わせようとしている。しかもかなりあいまいな知識で。
 チャットの相手が本当に赤の他人なら、「知らない」の一言で済むはずだ。しかし、孝の名を出しても冷静な反応で、数秒後にPanと孝の関係性を「思い出し」たかのように、とってつけたような馴れ馴れしさを演じはじめた。まるで、台本をよく読まずに、設定がうろ覚えな役者のように。
――私がPanさんのことを知っているとしたら、大学の同期ということになります。
――そ、そう、大学!いやあ久しぶりだなあ。
 違う。これは秀明じゃない。
 しかし、秀明を演じようとしてる。何故?
――Panさん、あなた本当は、何者ですか?
――…………
――私は、SNSでPanさんを見つけました。Panさんは、私の旧友にそっくりのプロフィールでした。それで、私の知っているPanなのか、赤の他人なのかを確かめたくて、チャットしているんです。
 相手からは、相槌の気配もない。メッセンジャーは相手が何か入力していたら、Enterキーを押さなくても「何か書いています」とメッセージが表示されるのだが、その表示もされていない。
――……何のために?
 しばらくして、メッセージがそれだけぽつんと返ってきた。
――私の知っているPanは、3ヵ月半前に死んだからです。
――!
――あなたは、何者なんですか?なぜ、わたしの友人のふりをするんですか?日記の更新までして。
――日記?知らない。俺は頼まれただけだ。
――頼まれた?
――……隠し通せないようだから話すよ。俺はPanに今夜Pan本人の代わりに幼なじみの加藤孝ってやつとチャットしてくれって頼まれたんだ。
――何故、Pan本人が出ないんですか?
――あいつ、深夜にしかログインできないらしい。
――どうして?
――さあ、そこまでは。
――深夜でないとログインできないなら、私も時間を合わせたのに。
――だろ?俺もそう思うからきいてみた。そしたら、「孝は普通の会社員だから、負担をかけたくない」だってさ。じゃあ、孝さんの休前日の深夜にすりゃいいじゃん、っても言ってみたんだけど、きかなくってさ。
――あなたはPanの友人ですか?
――そうだよ、多分。
――会社の同僚?
――いいや、Panに会ったことはない。
――SNSで知り合ったんですか?
――いいや、違うね。
――では、どんなお知り合い?
 我ながらくどいほどに尋問してるとは思ったが、孝は聞かずにはいられなかった。彼は貴重な手がかりなのだ。
――オンラインゲームだよ。PanからはこのチャットのIDとパスを教えてもらった。
 相手の返事は、孝には意外だった。
 孝はオンラインゲームをしたことがない。そういうものに興味がわかないのだった。だから、ゲーム友達が他人のなりすましを頼めるほど強固な絆を築けるとは、思ってもみなかったのだ。
――オンラインゲームの友達っていうのは、こんな面倒なことを引き受けるほど仲良くなれるものなんですか?それともあなたが人一倍面倒見が良いんでしょうか?
――Panは、特別かな
 相手は更に言いつのった。
――あいつ、すごく面倒見がいいんだ。ギルド……同じチームみたいなもんだが、そこに新人が入ると、操作方法から何から懇切丁寧に教えているし、俺みたいに深夜しかプレイできない状況って点では、貴重な仲間だった。たいていのプレイヤーは夜12時頃で落ちてしまうからなあ。
――俺とPanは、2人でしょっちゅうクエスト……化け物狩りに行っていた。いろんなお互いの話もたくさんしたよ。
――Panの本名を、知っていますか?
――いや、知らない。オンラインゲームをしている間は、相手のハンドルネームと、そいつがどんな行動をするかだけが重要なことだから、リアルの個人情報の話をしたってなあ。野暮なだけだし。
――オンラインゲームをしない私には、相手の素性を知らないのに仲良くなれる、ということ自体あまり信じられないです。
――まあこれはやってみないと、わからないと思うよ。こういうテキストチャットだけなのと、画像がついてそれぞれがメイキングしたアバターを動かしながらっていうのは、全然感じが違うからな。
――まあそれは、話の重要部分ではないので、特に突っ込みません。とにかく、あなたとPanは、リアルの個人情報はお互い知らないままだけれど、ネット上で手伝えることなら手伝うくらいに仲良くなったってことですね?
――ああ。そういうことだ。Panには世話になったからな。
――わかりました。
 どうやら、秀明が何か事件に巻き込まれたとこいうのではなさそうだ。でもなぜ秀明は、そんなことをするのだろう。
――しっかし俺も、不思議だよ
――何がですか?
――あんた、確か「Panは3ヶ月半前に死んだ」って言っただろ?
――はい。
――俺、昨夜も一緒にゲームしたぜ?
――ええつ!!
 一体どうなってるんだ。それなら別に本人がチャットに出てきても良さそうなのに。
――それは、何時頃ですか?
――ん〜、ああ、午前2時〜5時頃かな。
 確かに、普通の人は眠っている時刻だ。
――俺、バイトが午後4時から11時半までなんで、その頃になんないと遊べねえんだよ。今日は休みだけど。あいつもそんな時刻からログインするから、ちょうどいいんだよ、一緒に遊ぶのに。
 結局その夜、この相手とはそれ以上の情報を得ることはできなかった。


 孝は、情報を整理することにした。
 まず、孝がいない間に、このパソコンを操作している者がいる。
 パソコン内にファイルを残したり、IDやパスワードのクッキー(画面上に連動する記憶)を残しているということは、この部屋に来て操作をしたか、遠隔操作かのどちらかだ。
 遠隔操作の線は薄い。なぜなら、孝本人はそれほど裕福な訳でもなく、遠隔操作で有益な情報を引き出すことも、植えつけることもあまり相手にとってメリットが無さそうだからだ。
 オンラインショッピングもしないことはなかったが、孝は用心してクレジットカード払いはしないことにしていた。多少手数料がかかっても代引きか銀行振込、もしくはプリペイドカードでの支払いにしていた。この点でもクレジットカード詐欺の可能性もない。
 そうすると、やはり「この部屋」で、孝以外の誰かが操作を行ったことになる。誰かが鍵を複製したのだろうか?しかし何のため?
 それに、もう1つ気になる点がある。
 このパソコンを使っていると思われる人物、ハンドルネームPan――奇しくも亡くなった秀明のペンネームと同一だが――は、ほぼ深夜から早朝にかけてのみ、活動しているという点だ。
 Panは、ポータルサイトに、使用しているSNSやブログ、作品発表のためのホームページなどへのリンクを公開していた。
 クッキーなどの痕跡は、孝が気付いたものは丁寧に翌日消してあったが、ネット世界に発信している文章や書き込みについては、消すつもりはないようだった。
 つまり、このパソコンを使っていることは知られたくないが、自分の存在を世にアピールすることはやめたくないらしい。
 Panの書いたもののなかで、ツィッターなどアップロード時刻を確認できるものを見ると、どれもがほぼ深夜から早朝にかけてだった。あのなりすまし野郎の証言通りだ。
 たまに、孝の休日に、日中の書きこみがあったが、それは孝が家で昼寝をしている時だった。
 家で、昼寝?
 孝は、ある考えに思い至った。
(Panがパソコンを使っているのは、僕が「寝ている」時なんじゃないか)
 そう思い、もう一度Panの書きこみ時刻を確認してみる。
 Panがパソコンを使っていた時刻は、まぎれもなく孝が「在宅」で、しかも眠っている時間帯だけだった。仕事に出ている時は、外出している時に使った形跡は無かった。
(僕が寝ている間だけ?誰が?何のために?)
(「生まれ変わるんなら、俺、ペットがいいよ――」)
 突拍子も無く、居酒屋で飲んだときの秀明の言葉を思い出した。
 健太郎を見る。健太郎はなぜかびくり、と身体を強張らせたように孝には見えた。
(ありえない。そんな――でも)
 荒唐無稽な仮説に頭をぶんぶんと振り、孝は否定しようとした。健太郎はちぢこまり、うつむいている。
 孝はA4のコピー用紙を半分に切り、マジックで片方に「YES」、もう一方に「NO」と書いた。その紙を床に置き、横に並べた。
「まさかとは思うけどな……ケンタ、おいで」
 健太郎は不思議なくらい賢い犬だった。ペットショップの店員も、教えてなくても人が言った言葉はほぼ理解している、と言っていた。排便もトイレの犬用の場所に行って器用に済ませるし、孝は健太郎のしつけというものをほとんどしたことがない。しつけが不要なほど賢かったのだ。
 その健太郎が、動かない。
「どうしたんだよ。呼べばいつも来るだろ?ほら、おいで」
 再び促され、しぶしぶといった様子で健太郎は孝の前まで歩いた。上目遣いに孝を見る。まるで叱られた子供のようだと孝は思った。
 しかし、健太郎は犬である。どこまで普通の犬と違うのか、まずは状況の確認からだ。
 孝はYES、NOの札を、健太郎から見て上下があっているように置いた。
「これはYES・NOのカードだ。この言葉の意味がわかるなら、YESのカードに前足を置いてみてくれないか」
――YES
 健太郎は、YESのカードに片方の前足を置いた。
 ひょっとしたらこれである程度、健太郎と意思疎通できるかもしれない。我ながらバカな考えだとも孝は思ったが、今はこれくらいしか確かめるすべを思い当たらない。
「あなたの名前は、加藤健太郎ですか」
――YES
 健太郎は前足を一度軽く上げ、再びYESの札に下ろした。
「あなたの飼い主は、女ですか」
――NO
 孝はわざと、質問の内容を理解しているなら「NO」と答える筈の質問をしてみた。
 この答えにより、健太郎は偶然YESだけを押さえているのではなく、こちらの話を理解していると、孝は判断した。
「あなたは、僕のはパソコンを誰かが使ったのを知っていますか」
――YES
「それは、どろぼうが家に入ってきたのですか?」
――NO
「それは、悪い幽霊ですか?」
――NO
――YES
 健太郎は一度「NO」を指し、それから迷ったように「YES」に前足を置き換えた。
 何を考えているのだろうか。
「その幽霊を、あなたは見ましたか?」
――NO
「質問を変えます。あなたは、Panを知っていますか?」
――YES
 これは知っててもおかしくない。孝のそばに健太郎がいることは珍しくなかった。賢い犬なら、画面の中のこともある程度分かるかもしれない。そろそろ核心に触れてみようと、孝は思った。
「あなたは、田中秀明を知っていますか?」
――YES
「あなたは、田中秀明ですか?」
――YES
 健太郎と、目が合った
「秀明……なのか?」
 途端に、健太郎は猛然と走り出した。テーブルを抜けてベランダをよじのぼろうとジャンプを繰り返す。
「何する気……待て!」
 孝の部屋は8階だった。たとえ犬でもこの高さから落ちれば命にかかわる。
 孝はもがく健太郎を渾身の力で押さえ込み、窓を閉めて鍵をかけた。
「どうしたんだ、どうするつもりだったんだ……秀明!」
 秀明と呼ばれてびくん、と痙攣した健太郎は、さらにもがいて孝の手を離れ、ロフトへかけあがった。毛布をかぶってすみにうずくまり、動こうとしない。
「おい、秀明」
「キャウン」
 健太郎は、心細げな吠え声を返した。ロフトの階段を途中まで登って眺めると、毛布ごと震えているのがわかる。
 近寄って撫でてやりたくもなったが、ここまで健太郎を追い詰めているのは孝本人だ。
 今は多分、そっとしておいてやった方がいい。


 ロフトから降りた孝は、これまでのことを整理して考えた。
 ひとつ、犬の健太郎は田中秀明である。
 ひとつ、秀明は孝が寝ている間、孝のパソコンを使っていた。
 しかし、犬の秀明はキーボード操作ができない。
 ひとつ、ここに引っ越してきてから、よく寝ても身体が疲れる日が増えた。
 そうなると、導きだされるのは……。
 ありえないような話だが、健太郎が秀明である以上、出てくる結論はひとつだった。
 犬の秀明は、孝が寝ている間に孝の身体を借りて、人として行動している。
「そんなバカな」
 口に出して言ってみる。しかしそれでしか説明がつかない。
(「――俺、夢があるんだ。将来は――」)
 そう言えば、そんな事も言ってたよな秀明。そうか、お前はそれを……。
 居酒屋で語り合ったあの夜。いろんな話をしたあの時。
 孝は、秀明の語った夢を思い出しながら、いつの間にか寝入っていた。


 テーブルの前でいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 目覚めると机上には数枚の書置きがあった。
 手元に手繰り寄せる。見慣れた懐かしい筆跡。
 あいつだ。間違いない。
 大学時代に何度もノートを写させてもらった。丸っこくて、読みづらい字。
 はじめは意味を掴むまで何度も読み返した。クセがありすぎて、忘れようがない。


 孝へ
 ごめん。本当にごめん。
 俺、お前が寝てる間、お前の身を乗っとって、使ってた。
 言い訳にしかならないけれど、はじめはそんな気無かった。本当だ。

 死んですぐ、自分が犬になったのは、気付いてた。
「ペットになりたい」なんて言ったからかな。
 通りがかったお前を見たとき、利用したいなんて考えてなかった。
 ただ、孝ともっと、ずっと一緒にいたいと思った。
 それだけをひたすら思って、念じながら見つめてた。
 お前が俺を飼うって決めた時は、嬉しかったよ。
 形こそ違うけど、また孝と一緒だなって。正直、犬に生まれてみたものの、一人ぼっちな気がして寂しかったし。

 お前の身体を使うことができるって気付いたのは、ここに来てからだった。
 はじめは、偶然だった。気付いたら俺、犬から人の身体に戻ってる……って思った。でも、それはお前の身体だったんだ。
 そのうち意識的に、お前の身体に乗り移れるようになった。
 ただ、俺がお前の身体を夜使うと、翌朝お前が疲れてしまうのが気にかかっていた。
 しかし正直、小説を書いたりSNSでやりとりしたり、オンラインゲームで遊んだりするのは楽しくてやめられなかった。
 犬の姿のときは、一切できないことだから。あのYES・NOカードに前足を乗せるのさえ、犬としては結構大変だし、疲れるんだぜ。
 犬になってみて分かった。確かに、好きなだけ寝ていられるのも、のんびり過ごせるにも、悪くない。
 でも、室内犬には自由がないし、お前がいない日中は、死ぬほど退屈だ。ぜいたく言うなと言われそうだが。
 考えて見れば、あの仕事にしがみつくこともなかったんだよな。一旦仕事をやめて、もっと時間に余裕のあるバイトにしてもよかったんだし、身体をしばらく休めて、その間に小説を書き溜めても良かったんだよな。
 お前にも迷惑かけちまって、反省している。

 俺は以前、とある賞を狙ってたんだ。でもその頃、バイト先のハンバーガー屋で「社員にならないか」って声かけられて。ファストフードの「正社員」って、結局店長職のことなんだよな。
 正社員って言葉の響きへのあこがれもあって、引き受けた。店長になって2か月くらいなった頃、慣れてきただろうからって、店を2つ持たされて。
 お前と会ったのは、3軒目の店を持たされる話が来てた頃だった。孝と飲んだのが最後だよ。まともに人と話しながら食事をしたのって。
 3軒目の店を持ってしまってからは、誰かと飲みに行く余裕なんて、完全に無くなった。3軒も店をかけもちしてると、どんなに働いてもシフトが埋まらないんだよ。朝から晩、いや、場合によっては翌朝まで働いても、気づくとシフトにどんどん人手の足りない時間帯が出てくる。店長は結局、その穴を埋めるために働かなきゃいけなくなる。
 管理職だから、どんなにオーバーワークしても残業手当は出ないしね。もちろん土日祝日もなし。毎日16時間くらい働きづめで、寝る時間も削られがちだった。それで心筋梗塞を起こして、死んでしまった。
 俺は、甘っちょろいようだけど、いつか人間に生まれ変わりたい。そうできたら今度は、寄り道なんかしないで、真っすぐ、やりたいことに向かって進んでいきたい。
 お前の子供になるのも、いいかもな。
 とにかく、迷惑をかけてしまって、本当に反省している。
 これ以上負担になりたくないから、俺を手放してほしい。売るのでも、保健所に預けるのでも、処分方法はまかせる
                      秀明

 その書置きを残して、秀明は消えた。
 健太郎は、そこにいた。だがもう、以前の健太郎ではなかった。
 YES・NOカードを足元に置いても、全く目もくれようとせず、踏みつけて走る。
 食べたり、吠えたり、顔をべろべろ舐めまわしたりするだけの、普通の犬になっていた。
 それからは、孝は寝疲れることがなくなった。
 寝不足状態の元凶である秀明がいなくなったので、健太郎を処分する理由はなくなった。同時に、健太郎を飼う強い動機もなくなったのだが、もともと動物は嫌いな訳ではなかったし、秀明がいなくなったからと処分するのもかわいそうな気がして、孝は健太郎をそのまま飼い続けることにした。


 2ヶ月後。
 チャイムの音に孝が玄関の扉を開けると、見知らぬ少年が立っていた。13〜14才くらいに見える。迷子だろうか。それとも新手の宗教勧誘?記憶にないくらい遠縁の甥っ子とかだろうか。いやしかし記憶にないくらいなら孝のアパートの住所なんて知らないだろうし。
 少年は、タブレット端末を取り出し、指で何やら入力しはじめた。孝に画面をつき出す。
『俺だよ、孝。秀明だ。』
 秀明!?
 少年のややほっそりしたたたずまいからは、あの巨体は想像できない。
『そんな、世界の終わりみたいなびっくりした顔するなって。入るぞ』
 とまどう孝の側をすりぬけ、あたり前のような動作で靴を脱ぐ。
『は〜、お前んちも、犬の視点じゃないと狭いなあ。前は広いと思ってたのに』
「お、お前、秀明、どうして」
『まあ、座れよ』
 そう呼びかける少年の姿の秀明は、すでにすとんと座り、あぐらを崩している。
「座れよって、ここ俺んち……!」
 言いながら孝は気付いた。ここは孝の家であると同時に、秀明の家でもあったのだ。犬としてだったが。


『何から聞きたい?』
 出されたお茶を一口すすり、少年姿の秀明は端末にそう表示した。
 傍らには犬の健太郎が寄り添っている。秀明は健太郎の頭や背を撫でていた。耳のうしろを掻くと、健太郎はうれしそうに目を閉じた。
『健太郎は耳のうしろに垢がたまってかゆくなりやすいから、よく洗ってやってほしい』
「なんでお前がそんなこと分かる……あぁ」
 秀明は、健太郎の身体の中にいたのだ。健太郎の身体のコンディションのことは、体感しているだけに孝よりもよく分かるのだろう。
「お、お前どうしてその姿に」
 それになぜ口で話さない?なぜ突然いなくなった?何から聞けばいいのかすら混乱して分からなかった。
『その動揺ぶりだと、こちらから順を追って話したほうが良さそうだな』
『わけあって、今は口頭で話すことができない。それも後から説明する。手入力して見せながらだからもどかしいだろうが、がまんして待っていてくれ』
 孝は、やかんにたっぷり水を入れ、コンロにかけて火をつけた。秀明の話を聞き終えるまでに、何杯ものお茶が要るだろうと思ったのだ。


『あの日、お前に手紙を書いた後、気分を変えに外に出た。しばらく歩いていたら病院にいた。
 病院の中を歩いていたら、少年――この身体の持ち主がベッドに寝ているのが見えた。魂の色が薄くなっていて、もうすぐこの身体から出ようとしているのが分かった』
「ちょっと待ってくれ。魂の色ってなんだ?どうしてお前がそれを見ることができるんだ?お前、霊感なんてあったっけ?」
『いっぺん死んでから、そういうことが分かるようになったらしい。魂は日頃は人の身体をおおっていて、色がついている。それは、人間以外の動植物でも同じだ。その命が死に向かうときは、魂の色が薄くなって、透明になっていく』
 秀明は、孝に書き置きを残した後、外に出たとタブレットに表示した。そしてその後少年の身体に乗り移ったらしい。もし秀明が孝の身体を使って外に出ていたのなら、秀明が少年に乗り移った後、孝の身体は病院に倒れている筈だ。しかし実際には孝は朝、部屋の中にいたのだから、秀明の魂は書き置きを書いた直後に、孝の身体から離れていたのだろう。秀明本人もそうとは知らないうちに。
『病室では医師が、少年のそばの中年くらいの男女に、紙へのサインを促していた。(脳死判定による)とか(同意)とか書いてあるようだった。だから、切り刻まれる前にこの少年の身体に入り、使わせてもらうことにしたんだ』
 中年の男女はおそらく、少年の両親だろう。状況からすると、少年は脳死状態と判定されたところで、両親は脳死による臓器提供意思の代理表示を求められているのだろう。
「しかしお前、その子の身体をまた勝手に乗っ取ったのか?」
『勝手に、とは失礼だな』
 タブレットを示しながら、秀明はクスリと笑った。
「だって……考えてみたら、お前、寝ている俺の身体を勝手に使ってたじゃないか。ケンタの身体だって日中はそもそもケンタのものだった訳だろ?」
『お前には、悪かったと思っている。ただ、ケンタにははじめから話をしたぜ?ケンタが受け入れてくれなければ、俺がケンタの身体を間借りはできなかった』
「いつの間に話したんだよ。手紙には、死んですぐ犬になったのに気付いたって書いてあったじゃないか」
『魂って、一瞬で会話できちゃうんだよ。お前に状況を説明しているほうが、よっぽどまどろっこしい』
「悪かったな」
『ケンタは、生まれたときは4つ子だったが、あのペットショップには他に犬がいなくて、ちょっと寂しかったそうだ。だから、俺がいたのは、きょうだいと一緒だったときみたいで、身体に同居させる苦痛を憂うより、むしろ楽しかったらしい』
 ワン!と同意するかのようなタイミングで、健太郎が軽く吠えた。
『まあお前は霊的存在じゃないし、わかんなくって当たり前だよ。だから説明してるんだし。で、話を本題に戻そう。ケンタの時と同じく、俺はその少年の霊とも話をし、身体の使用について許諾を得ている』
「へぇ」
『少年がその身体から出ていく瞬間に会話した。俺が事情を話すと、(ならこの身体、あげるよ)って言ってくれた。かれは、この身体でやりたいと思っていた人生はやり終えたので、天に戻るところだったらしい。この身体の部分部分が臓器提供に使われるのだとしても、身体ごとそっくり、生まれ直したい人のために使われるのだとしても、とにかく誰かの役に立てるのなら嬉しいってさ』
「なるほど、そんな事もあるのか」
『身体を使うことをもとの持ち主が了承したとたんに、かれの今までの個人情報や、今まで生きてきた記憶がざあっと身体に流れ込んだような気がした。走馬灯の逆みたいなもんだな。それによるとこの少年は唖(おし)として生まれてきたらしい。聞くことはできるんだが、話すことができない』
「ふむ。それはそれで、不便じゃないのか?」
『会話が口頭でぽんぽんできない、ってのは意思疎通に時間がかかるので、その点では不便ではあるが、俺は別に歌手やアナウンサーになりたかった訳じゃないからな。むしろ、常に意識して文字でコミュニケーションを取らざるを得ないってのは、文章力を鍛えるのに好都合かもしれない。この少年の記憶の中には手話スキルもあったから、手話が伝わる相手となら手話でもいけるし』
「発想の転換か。ポジティブだな」
『あたり前だ。せっかくもらえた身体なんだ。こうやって毎日、日中堂々と誰のことも気にせず使えるだけでもありがたいよ』
「それも妙な表現だけど……。それにしてもなんかお前、生き生きしてるな、前より」
『こうなってみてしみじみ、やっぱ人間、やりたいことをまっすぐにやるのが一番いいよ、って実感してる。お金とか、見栄とか、世間体とか気にしてたら、そっちに時間や気力・体力を奪われて終わってしまうんだって、前々世で身に沁みた。だから、今度こそは今、この時を大切にしたい』
「もう、迷うなよ」
『ああ』


 秀明は生まれ変わった少年としての氏名、住所、連絡先などのメモを孝に渡した。
『メールするよ』
「ああ。でも僕は筆不精だから、あんまり返事しないけどな。キカイ苦手だし」
『知ってる』
 秀明は笑った。
『近況報告するよ、一方的に。前の俺のこと知ってるの、お前だけだから、知っておいてほしいんだ』
 孝はふと、気になったことがあった。
「中学校、通ってるんだろ?順応できてるか?」
 秀明は首を振った。
『あんまり。この身体は少年だけど、中身はおじさんだからな。俺は生きてたら若手教師くらいの年なんだし、ギャップはあるよ。中学生ってのはまだまだ子供だ。エネルギーがあり余ってる。かれらのノリについていくのも大変だ。ただ、俺が生まれ変わった目的はそこじゃないから、適当にあわせてるよ』
 心が大人のままで、半分子供なローティーンの中にいるのだ。楽ではないだろう。しかし、それでもやりとげたいことがある。孝は秀明の強い意志を感じた。
 扉を開けると、夕方だった。
「小説、がんばれよ」
 少年の姿の秀明は、頷いた。
 孝には一瞬、あの大きな人懐こい笑顔の秀明が重なって見えたような気がした。
『お前の子供に生まれ変われなかったのは、ちょっと残念だった』
「子供も何も。僕、嫁さんどころか、彼女もいないし」
『早く作れよ』
「何、中学生がませたこと言ってんだよ」
『うちのクラスメイト、紹介しようか』
「犯罪だからやめろ」
 いつのまにか、ふたりは笑っていた。
 夕焼けの中、秀明が手を振る。孝はその小さな姿が見えなくなるまで見送った。


 秀明が、とある有名な小説の賞を史上最年少で受賞したと、ニュースで知ったのはその数年後だった。
 そして、受賞後まもなく、秀明は交通事故で逝ってしまった。


 それから更に2年後。
 孝は、会社で知り合った女性と結婚していた。
 今は、妻の出産付き添いで、待合室にいた。
 孝の肩をふと、懐かしい人がぽん、と叩いたような気がした。
 はっとして顔を上げるのと同時に、分娩室の扉が開き、看護師が声をかけた。
「おめでとうございます。玉のような赤ちゃんですよ。性別は――」
「男の子でしょう?」
 あっけに取られる看護師を戸口に残したまま、孝は分娩室に入り、妻をねぎらった。
 赤ん坊を見る。新生児だからまだ顔の特徴などは出ない。いや、顔や身体など、外面的なことは問題ではなかった。
(――おかえり)
 あの魂が還ってきたのだ。
 牧神の、魂が。
「ちょっと、抱かせてもらえませんか」
 生まれたての子を抱きあげる。傍目から見れば、孝はただの子煩悩な父親だった。その状況も利用して、孝はまじまじと赤ん坊を見つめた。
(――これからは一緒だ。ずっと)
 赤ん坊は笑い、孝に小さな手を伸ばした。孝は人差し指をつかませ、今生はじめての握手をする。
 長い旅を終えて、親友はやっと、孝のもとへ戻ってきたのだ。

(終)


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