目覚まし時計のけたたましい音を眼の奥で感じながら、腐りかけた木製の扉を強引に閉めた。人気もまばらな早朝。青く透明な光の粒子が充満している。銀の鱗が直線上に進み、地面に溜まっていく。 やつれたビル達が道を囲んで、深刻な面持ちで真理について議論している。長年の汚れはより深くなり、ぽっかりと穴をあけて全てを飲み込んでしまいそうだ。続く黒いビル群。続く深い穴、穴、穴・・・俺は、無表情な文字で「C駅」と書かれた看板を掲げる穴へ、滑り込むように入っていった。足だけが意識を持ち、階段が俺に向かってするする流れるように穴の底へ降りていく。 白々しい蛍光灯の下、俺は電車を待った。いや、電車を待っているのではない。俺は毎日、ただこうして棒のように突っ立って、ベルトコンベアーに載せられるのを待っているだけだ。ほどなくして、電車がホームに到着した。扉が開き、何か重要な秘密でも隠しているかのように、静かに扉が閉じた。
柔らかい薄紅色のシートが、少しの安堵感を与える。右に大きく傾いたサラリーマン。俯いたOL風の女性。彼女の新緑色のスカートから覗く白い膝を気にしながら、俺は端の席を探した。月曜の朝はあまり生気が感じられない。誰だって、月曜の朝は死んだような気分だ。しかし、今日は生気がこれっぽっちも感じられない。全ての生気が、あのやつれたビル達に吸い込まれてしまったのだろうか・・・いや、そんな馬鹿げた話はない。物質が生命を吸収し、脅かす話など聞いたこともない。
俺はこわごわとOL風の女性の顔を覗いてみた。彼女の眼は透明で、優しい暗闇を持ち、奥の方で銀河が輝いていた。俺はその中の、何千億とある恒星の一つである太陽の、その周りを回る地球という星に住むたった一つの生命体なのだ。もちろん、そんなことはない。俺が女の眼球の中に存在するなんて、おかしな話だ。俺よりも小さな眼球の中に、どうやって存在するというのだ。大体、俺はこうして眼球の外に存在している。いや、しかし、必ずしも境界が眼球の外壁であるとは限らない。そもそも境界など、とある生命体の幻影に過ぎないのだ。彼女の美しい眼は、どんな物であっても、強い重力によって吸い込んでしまうのかもしれない。
「次は・・・駅、・・・駅。」 駅名だけ妙に聞き取れないアナウンスが流れる。扉が開き、真っ白なバレリーナ達が、踊るように乗車してきた。陶器製の長い手足を器用に動かして、くるくる回りながら隣の車両へ移っていく。
窓の外では蛍光灯の光が、ゴムのように伸びたり縮んだりしながら、電車と並んで走っている。海の底を走るような電車の音。ときおり、遠くでクジラの鳴き声が聞こえる。今日は何かが変だ。いつも一錠飲んでいる薬を二錠飲んだからかもしれない。昨日、いつもより1時間遅く就寝したからかもしれない。少し休もう。腕組みをして、目をつむったところで、誰かが俺の肩を叩いた。
「君も行くのか?」 目を開けると、やけに目のギラギラした白髪の男が正面に立っていた。この人からは強い生気を感じられる。先ほどの駅から乗車してきたのだろうか。
「どこにですか?」 「そりゃあ、決まっているじゃないか。君も気になって仕方がないんだろう。」 「いえ、俺には気になっているものなど何もありません。」 「まさか!君も気になっているはずさ。だって、ここにいるんだもの。」 「いえ、好きこのんで、この妙な電車に乗ったわけではありません。俺はただ、いつものように会社に行こうとしただけなんです。」 「だとすると、君の無意識がここへ足を運んだという訳だね。君は、どうやら分裂してしまっているらしい。あんまり、ぼんやりするのは良くないよ。ますます、無意識の野郎が力を持つからね。」 白髪の男は忌々しそうに、そう言った。
「脳は一定の範囲内でしか機能しない。我々には知の限界がある。これ以上先に進めないことを示すラインがはっきり引かれている。」 「いきなり、何の話ですか?」 「ぼくと君が気になっていることについての話だよ。何故、知に限界があるのか。先人達は記号を駆使して、限界の先を知ろうとした。しかし、無駄だったんだ。なぜなら、記号そのものにも限界があるからさ。限界のある脳が生み出せるものは、限界のあるものでしかない。ということは、ぼく達は一生、限界の先を知ることが出来ないのだろうか。おかしいと思ったよ。ぼく達は限界でもあり、限界はぼく達でもあるのだから。自分で自分のことがわからないなんて、妙な話じゃないか。誰かが何かを隠すために、限界をぼく達に設定しているのではないかと疑っているんだ。大体、憶測はついている。あいつは何食わぬ顔をして、たくさんの人間を出口のない長い一本道へと押し込んでいるんだ!あいつは優しい眼を持った悪魔だ!」
急に辺りは暗くなり、遠くで聞こえていたクジラの鳴き声が次第に大きくなる。 「お母さん・・・」 勝手に口が動いていた。無数の水泡が空間に浮かび、少し静止したと思ったら、すっと上へ消えていく。巨大なパラバサリアが、帯のような鞭毛をなびかせながら泳いでいる。一瞬にして空間が水泡に支配され、水泡がパチパチと弾け、白い鯨ヒゲが俺の頬を撫でた。
目の前に広がる、柔らかな薄紅色のシート。大きく右に傾いたサラリーマン。俯いたOL風の女性。窓の外を、蛍光灯の白々しい光が伸びたり縮んだり、たまに不思議そうに覗き込んでくる。 「次は・・・駅、・・・駅。」 相変わらず、駅名の聞き取れないアナウンスが流れる。乗車してから、一体どれくらいたったのだろうか。白々しい空間を包んだ鉄の塊が、轟々と音をたてながら、暗くて長い一本道を進んでいく。遠くでクジラの鳴き声が聞こえる。
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