「勝の失恋話は?」 亜季が促す。 「勝、お人よしだからねえ…かわいそうな失恋話っていっぱいありそう」 玲美が、同情の涙を誘うマネをして笑わせる。 「一番、インパクトが強い失恋は…小2の時だな…」 「ずいぶん幼い時に失恋体験したのね」 亜季がくすくすと笑いながら、焼酎のウーロン割を作っている。 「うーん…初恋だったんだと思う。同じクラスの確かお父さんがフランス人だったからハーフだったんだな…うん…茶色の柔らかな巻き毛が可愛い子で、名前はリラ。ライラックの花があるだろう?ライラックってフランス語でリラっていうんだってさ。リラって名前は、お花の名前からつけてもらったんだって言ってたのを聞いたことあるんだ。一年、二年と俺とリラは同じクラスで家の方向も一緒だったから、よく一緒に登下校して仲良しだった。きっと、ずっと好きだったんだと思う。でも、ある日些細なことからちょっとケンカしちゃって、その日俺はリラと一緒に帰らなかったんだ。リラが教室を出る前に、ふり返って泣きそうな顔をして俺を見たんだけど…俺は意地を張ってわざとそっぽ向いたんだ。そのままリラはうつむきながら帰って行った…翌日、やっぱり仲直りしようと思って、ごめんなさいってかいた手紙も持って教室に来たら、リラは来なかった。休んだのかなと思って気にしていたら、担任の先生がー今日は悲しいお知らせがあります、昨日リラちゃんが交通事故に巻き込まれて…亡くなりましたーって泣くんだ。亡くなるって言葉の意味は最初飲み込めなかったけど死んでしまったんだってことはわかった…随分自分の心の狭さを後悔したよ…なんで、あの時リラがふり返ったのに、ごめん、やっぱり一緒に帰ろうって言えなかったんだろうって…あのうつむいて帰る赤いランドセル姿のリラが、いまも鮮明によみがえってくるんだ…」 「だから、勝は困ってる人とか放っておけないんだね…せつないけど…でも、事故は勝のせいじゃないんだし…」 「ああ、でも少なくても俺が一緒に帰っていたら事故は防げた筈なんだ…リラは横断歩道渡ってるとき青が点滅になっていることに気がつかないまま、ぼんやりと渡っていたらしい…そこに左折しようとした車がスピードあげて入ってきた…リラは泣いていたのかもしれない…そう考えると、やっぱり自分が許せないんだよな…まあ、ガキの頃の話で失恋話といっていいのかどうかだけどさ…。俺すっと幽霊でも良いからリラに出てきて欲しかったんだ…そしたら絶対ごめんって謝れるのにって。ホラー研究なんかに興味をもったのもそんな事がきかっけだったような気がする…何遍も事故現場に行って何百枚も写真撮ったのに、リラは写ってもくれないしな」 寂しげに笑う勝の話を聞きながら、いつのまにか亜季が鼻水をすすり、しゃくり上げながら泣いていた。 「泣くなよ亜季。ほんっとに亜季は昔から泣き虫なんだよな。そのクセ怖い物好きでさー」 亮介がそばに置いてあったティッシュの箱を亜季の膝の上に乗せた。 「ハイ、じゃあシメとして常に冷静沈着なちひろ女史の究極の失恋話を拝聴しましょう〜ハクシュ〜」 勝が少し湿った場の空気を変えるように、おどけた。 「べつに冷静沈着なんかじゃないよ。私だって感情的になることもあるわ。現につい最近失恋して…」 「マジ?ちひろってば彼氏いるなんて、一言も言わなかったじゃない!失恋話よりもびっくりよ〜。水くさいなあ。相手は誰?病院関係の人?」 玲美がバネ仕掛けの人形のように、突然跳ね起きて暗がりの中でちひろの顔をのぞき込み、異常なまでに興奮している。 「彼とは…一年くらい前からつきあっていたの。黙っていてごめんね…まだなんか危うい感じだったから、もっと確実なものを感じてからみんなにもちゃんと紹介しようと思っていたのよ…」 「なんで別れちゃったんだよ」 勝が氷をカラカラさせながら、グラスを悪戯に揺らしている。 「最初はね…順調だったの。まあ、恋愛なんてみんな最初はいいのよね。でも半年過ぎた頃から、彼に好きな人が出来て…よくある話なんだけど…人の心が変わったからって驚くことでもないんだけど…彼が好きになった相手って言うのが…私の友達だったのよ」 「うわ…よく聞くけど、最悪なパターンじゃないか。その友達って言うのは、ちひろと彼がつきあっていることを知っていたのか?」 「いいえ、知らないわ…知っていたのは彼だけ。私も、私の友達も同じ男を好きになっていたなんて夢にも思っていなかったんだもの…」 心なしか、ちひろの声がくぐもる。 「それが、どうやってわかったわけ?」 亮介はタバコに火を付けると正面に向かってゆっくりと煙を吐き出した後で、ベランダの窓をわずかに開けると冷ややかな外気が入り込みタバコの煙は空中で線を描くように窓の外へと吸い込まれていた。 「一ヶ月前にね…彼が私の友達とホテルには行って行くところをみちゃったのよ。その日は、たまたま職場の先輩の結婚式がそのホテルであって…。なんであの人が、彼女といるのか…一瞬状況が飲み込めなかったわ…でも、すぐにああ、そういうことかって…」 「つらいわね…知らなかったのは、女同士だけってことか」 乾物のおつまみをプツンと引っ張りながら、泣きおさまった亜季が壁にもたれかかって宙を仰いだ。 「結局三人は顔見知りで…男はちひろの友達とわかりつつ手を出したってことか…最悪じゃないか…」 正義感の強い勝には、そういう行動は理解できないらしかった。 「そうね…でも、恋なんて不可抗力的なところがあるでしょ?駄目だってわかっていても、どうしようもなく惹かれ合う事ってあるじゃない?そう思ったら彼を憎むには間違っているかもしれないって思ったんだけど…でもそんなきれい事の理屈とはうらはらに、彼への憎悪は増していくばかりだった…どうして私とつきあっていながら、彼女ともつきあっているの?ううん、仮に彼女から告白されたにしても、どうして今は私という恋人がいるからって、その人に断ってくれないの?どうして、知らない誰かじゃなくて彼女だったの…って」 涙声になっていくちひろの話に同情し、それぞれが言葉を無くし、しんと静まりかえって黙りこくっていた。 「この一ヶ月、毎日毎日、泣いて憎んでいるのに、それでも彼に会いたい、彼を愛おしいと思う…体中に毒が詰まっているみたいに苦しかったわ。でも、このままじゃどうにかなりそうだったから、彼とちゃんと話し合いをしようと思ったの。二日前の事よ。みんなは、もし自分の恋人が心変わりをしたら恋人を憎む?それともその相手を憎む?玲美はどう?」 ちひろに問われて、玲美ははっと我に返ったように頭をあげた。 「うーん…どうだろう…この状況なら…やっぱり心変わりをした恋人を憎むかも…」 「亮介は?」 「その場になってみないとわかんねえけど…やっぱり故意に二股かけた恋人だろ」 亮介は短くなったタバコを灰皿に入れて、意を決したようにもみ消しながら、薄く明けていた窓をついと閉じた。 「亜季なら?」 「そうね、状況によるだろうけど…私は二人とも憎むと思う。相手の人は知らないわけだから罪はないんだろうけど…それでもきっと、恨みたくなると思うわ」 「心変わりしちゃった奴を、追いかけたり憎んだりしても、なんの意味もないよ。恋人と友達二人に裏切られるのって、それだけで耐えられないよ。だから俺なら、多少辛くても精一杯平気な顔してああ、そうですか、じゃサイナラみたいな感じで強がって無関心を装うかもなあ…当然、痛いだろうけどさ」 重苦しい空気を一掃するかのように亮介が手を振る真似をした。 「そうそう、男って最後までミエというか意地を張り通すとこあるんだよな」 勝は亮介の気持ちがわかるといわんばかりの様子で、うなずきながら焼酎のおかわりを亮介に作っている。 「なんか男の方が、単純な分哀れさを誘うわねえ…」 亜季は二人の男を交互に見比べながら茶化すようにため息をついた。 「それで?ちひろは彼と話し合いついたわけ?」 長い髪を束ねる真似をしながら玲美が聞く。 「ええ、ひとつの結論を出すことで、自分を納得させることが出来たの」 なにかを吹っ切るように、ちひろは肩で大きく息を吐いた。 「やっぱり、ちひろは優等生ね。失恋したときだって、やっぱり冷静なんだもの。私なら、きっといつまでも引きずって泣いているわ…」 「そういうわけじゃないのよ亜季。あたしだってまだ十分引きずってるわ…。ゆるそうと思っても、許せない自分がいて…忘れようと思っても忘れられない自分がいて…私に隠れて、私の知らない場所で二人は愛し合って…想像しただけでとてつもなく自分が惨めになって行く…。本当に好きになったのだとしたら、誰にも彼を責める資格なんかないもの…ただ、何にもしらないで彼を信じていた私は騙されていたってことになるでしょ?ピエロでしょ?心変わりしたならしたって言って欲しかった…他に好きな人が出来たって話してくれたら、悲しくても辛くても、自分を納得させること出来たのに…。好きな人に騙されるのって、こんな惨めなことないでしょう」 ここにいる誰もが、ちひろに同情していた。 再びの長い沈黙が流れた。 「きっと、そいつは、ちひろのことも失いたくなかったんだよ…身勝手な理屈かもしれないけど…男って、どっちも失いたくないって時あるんだ…遊びで簡単な相手なら、簡単に別れたりすることもできるんだろうけど…どっちも同じくらい好きって言うときあるんだよ…たとえば、「月」と「太陽」どちらかを選べと言っても選べないみたいな…」 「変な理屈…。さては、亮介もそんな経験あるんでしょう」 亜季に突かれながら亮介は慌てて首を左右に振った。 「ないよ…ないけど…俺の友達見てるとそういう奴もいるから…。ちひろを失いたくないから必死で浮気を隠そうとしたんじゃないかって。嘘をついてまで…そんな気がするんだ」 「だとしたら、やっぱり男って勝手よね…二股かける方は自分のエネルギーの問題なんだろうけど、かけられる方はそんな身勝手な理屈で納得なんか出来ない。どうして同じくらいに好きな人がアチコチに出来るわけ?普通つきあっていたら好きな人は一人だし、その人としか向き合えないでしょ?そんな理屈なら、男って常にどっかでもう一人分の空席を用意してるとしか思えないわ」 と玲美は憤慨していた。 「仕方ない…しょうがない…男はこうだから…女はこうだから…つまり、男と女を同じ器に並べようとするからおかしくなるんだよな。元々男と女って体のつくりも脳の作りも別なんだから、同じ価値観持ってるはずはないんだよ…自分がそうなら相手もそう思うはず…それが基本的に間違ってるんだと思う」 勝は男と女の根本的価値観の違いを比較する。 「じゃあ、女はこの先、そんなこと繰り返されたとしても、仕方ないだとか、作りが違うとかで納得しなきゃいけないわけ?」 語気を強めた亜季が一歩も譲らないというようなそぶりで、勝の顔をのぞき込んで息巻いた。 「まあまあ、そう熱くなるなよ亜季。それが簡単にできないから、男と女に別れは無くならないし、何度恋愛したってやっぱり別れの苦さは経験してしまうだろ?まあ、言うのは簡単だけど…ちひろは辛いよな…でも、結論出したって事は、ちひろはそいつと、きっちり別れたんだろ?なら、オマエの友達に言ってやれよ。そいつはとんでもない男だって」 亮介は、タバコに手を伸ばしたが空だった。勝が、すかさず自分のタバコを差し出し、それを亮介がくわえるとライターのほのかな明かりが亮介の端正な顔を浮かび上がらせた。
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