「それで、どうなったの?」 亜季が亮介の眼をのぞき込むようにして尋ねた。 「ん?ああ…それで彼女に遠距離は無理だから卒業式が終わったら別れようって俺から提案したんだ。彼女も、別に取り乱すこともなくすんなりと納得してくれたんだけど…。卒業して一週間くらいしてから、彼女から電話が来て話があるから少し会えないかって。それで会いに行ったらそこで子供が出来たって話し聞かされたってわけ」 そこにいた誰もが、思わず驚きの声を上げた。 「でも彼女は“安心して。別に責任をとってもらいたくてこんな話をするんじゃない。ただ、あなたに黙って生むわけにはいかないから、話しておきたかっただけなの”って。」 「それで?」 亜季が待ちきれない様子でたずねた。 「そのまま…。一年ぐらいしてから子供の写真とエアメールが送られて来たよ。女の子だって。結局彼女は、大学行くのを辞めて姉さん夫婦がいるアメリカのシアトルに行って、向こうで子供を産んだらしい。今も向こうにいるのかどうかわからないけど…」 「たしかに、えぐい別れ方よね…。子供に会いたいとか思ったことはないの亮介パ・パ」 玲美の問いかけに、亮介は玲美の頭をこづく真似をした。 「この世のどこかで、自分の遺伝子を受け継いでる子が生きているのかと思うとちょっと不思議な気がするけど…俺の子っていわれても、ピンとはこないよなあ…」 「でも、本当に彼女は、亮介の子供生んだのかな…。実際に会ったわけでもないし、認知もしていないんだろう?」 勝が、妙なことを言い始めた。 「そうだけど…彼女が俺にそんな嘘をついて何の徳があるっていうんだよ」 亮介が、不思議そうに勝に聞く。 「私も勝の意見に賛成。第一別れ話して一週間もしてから妊娠を明かすのっておかしいでしょ?そういう大事なことならもっと早く話しておくべきだし、少なくとも亮介が別れ話した時点で言い出す筈よ…妊娠も出産も嘘だったとしたら…彼女のねらいはひとつ…」 ちひろの意味深な発言に皆がしんと息を飲んだ。 「記憶よ…」 「記憶?」 亮介がオウム返しに訪ねる。 「彼女は、亮介の記憶にずっと残っていたかったのよ…」 「はあ?意味わかんねえ…」 亮介が頭を抱え込みながら、大袈裟なリアクションをしてみせた。 「あっ!あたし、なんとなくわかる気がするかも…」 亜季がはっと何かを思いついたように顔をあげたあとで、つぶやくようにうなずき、ちひろに同意した。 「自分の子供を産んだ女を忘れる男ってまずいないでしょう?彼女は本当は別れたくなかった…でも、亮介は別れ話を切り出したから、従うしかなかった…それならせめて、どこへ行って誰かと新しい恋愛しても、結婚しても自分のことは忘れないで欲しい…だから、亮介の人生の中で記憶に残る女でいたかった…」 亜季の言葉に今度はちひろがうなずいた。 「じゃあ、赤ん坊の写真は?」 「バカね…そんなの近所の子かもしれないし、おねえさんの子かもしれないじゃない。もちろん本当に亮介の子かもしれないけど…そんなの彼女しかわからないことよ。でもさ、そこまで手の込んだ嘘ついて、記憶にとどまっていなくっても、私ならさっさと次の恋に行く準備しちゃうな。まだ若いんだもの、もっといい男みつけて亮介なんか見返してやる〜ってね」 負けず嫌いの玲美は、恋愛においてもその性格は同じらしい。 「うん…玲美みたいに気持ちの切り替えがうまく出来る人と出来ない人がいるじゃない?あとはどのくらい好きだったかによっても、切り替えってむずかしいかもしれない…」 亜季はどちらかというと恋愛至上主義者だ。 「恋人を忘れるには、つきあった期間の半分をようするっていうじゃない? すごく愛している人を、一生自分のものにしたかったら…、彼の思い出の中に入り込んで生き続けるか…彼を殺すか…」
最初はほの暗かった部屋の中も、次第に目が暗闇に慣れてくると、窓からはいり込む蒼い光がそこにいる皆の顔や表情を写すのに十分な明るさを注いでくれた。 「うへえ…女っておっかねーな」 重い空気を打開するかのように、勝が素っ頓狂な声を上げた。 ここで一旦、話は中断され暗闇の中、ちひろが用意してあった特性の生姜味噌をスープに加えると湯気と共に一気に香りが部屋中に広がり、空腹感も上昇した。 「味噌の香りがたまんないね…。それに生姜とあと何が入ってるんだ?」 亮介が鼻をひくひくさせてうっとりとしたように湯気を嗅いでいる。 「この生姜味噌はね、うちの田舎でよく使うのよ。我が家で代々受け継いできた特性の味噌ダレなの。いまは多少現代風にアレンジしてるけどね。お味噌と、生姜と、ネギ、ニンニクと、地酒と、みりん、お砂糖なんかをすり鉢ですってとろみが出るまで混ぜ合わせるの。おでんなんかにもつけて食べるとおいしいのよ」 ちひろは、自慢げにたれを入れた後にゆっくりと鍋の具材をかき混ぜた。 「今夜の鍋はまともそうだな…前回、玲美のとこで食べたチョコレート鍋には恐れ入ったけどな」 と亮介。 「俺、二日間ぐらい胸焼けおこしてたぜ」 勝がいうと 「ひどいわね。私はたまには変わった鍋もいいなってチョコレートフォンデユのつもりで、鍋だってそれようのものをわざわざ用意していたんだから。それを、淳や亮介たちがネギだの大根だのって持ってきたんじゃないの」 心外だとでもいうようなそぶりで、玲美が口をとがらせる。 「ねえ知ってる?チョコレートって興奮作用があって、一時的に惚れ薬みたいな効能があるらしいわよ。なんかの雑誌で読んだけど…」 亜季がいたずらっ子のような口ぶりで皆をくるりと見渡す。 「だから、バレンタインデーって好きな人や振り向いて欲しい人にチョコレートを渡すのね」
ちひろも納得したように小さく頷きながら、つまみに用意したおしんこをコリコリとほおばる。 「さては、玲美は誰か惚れさせたい奴がいたんだな…おれか?勝?淳?ひょっとして一馬か?」 「ちょ…ちょっとーやめてよ!誰があんた達なんか…あたしはもっと理想が高いんだからっ」 勝と亮介にからかわれて玲美がムキになる。 ―本当だろうか。でもチョコレートは昔は媚薬として使われていたのは確からしいが、チョコレートを食べてうっとりする気持ちが恋の媚薬になるのだろうか― ちひろは一緒に笑いながら、薄暗い闇の中ではしゃぐ玲美の表情を垣間見ていた。 「私たちの闇鍋は家主がメインスープとメイン具材の一品を用意するルール。あとは誰が何を持ち寄っても、見てはいけない、鍋に入れた物は全員が必ず食べる…だから惚れ薬が入っていても精力剤が入っていても食べなきゃいけない!スリル満点よね」 亜季が楽しげに体を揺すったあとで 「でもさ、考えてみればいつから、この闇鍋ってものはあったんだろうね?」 と首をかしげた。 「いつ、どんなきっかけで闇鍋が始まったのかは、はっきりわからないけど俳人で小説家の高浜虚子の俳句の中でー闇汁の杓子を逃げしものや何―っていうのがあるくらいだから、明治時代には確実にあったことは確かよね」 ちひろは日本文学を専攻していただけあって、ことさら明治の文人や俳人、そしてそれらの作品には詳しい。 「タカハマ…キョ…キョシ?」 亮介がさっぱりわからないとでも言いたげに、首をすくめた。 「正岡子規に師事を受けた作家よ。ほら、俳句雑誌のホトトギスって聞いたことあるでしょ?俳句の革新運動の拠点となった…その主宰者となった人物よ」 ちひろの博学ぶりに、皆が感心してあいづちをうつ。 「モノの本によると、昔は食えないもんまで入っていたらしいぜ。たわしとか…木の枝とか…要はひとつの肝試しだよ。玲美のチョコレートフォンデユに、ネギ…と対して変わらない恐怖だよな!」 「そうそう…それに、あのチョコレート鍋じゃ惚れるどころか逆効果でどん引きされるぞ玲美」 勝が言ったところで、再び爆笑が起きた。 「それにしても一馬のやつ、来ない気かな…」 亮介がもう一度携帯をとって、一馬の携帯を呼び出す。 ―…電源を切っておられるか電波がとどかない為…― 無表情なアナウンスが、流れると亮介は舌打ちして携帯を閉じた。
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