Jの女性秘書ヴァレリー・ビューレルは、午前中、スイスの ある銀行の広い応接室で3人の男たちと会っていた。
応接室とはいっても、飾られた絵画や彫刻などをみれば、美術館 か博物館の一角のように思える。そこで彼女は、ビジネススーツ に身を包み、紅茶を飲みながら紳士たちと歓談を愉しんでいる。
彼女はJの指示を伝えながら、彼らから重要な情報を引き出す。 それが彼女の務めだった。その場がお昼前にお開きとなったとき、 退室する3人のうちの一人が、独り言を言った。
「いよいよポールソンの太らせた豚も、屠殺場行きかな?」
ブッシュ政権後期に財務長官となったヘンリー・ポールソンは、 中国の所有する株式の一部を新規公開株として香港に上場させたり、 硬直化した国有銀行を緩和するなどの手立てを講じた。
ニューヨークやシティ、あるいは東京に比べ、規模も小さく脆弱 な上海市場が、国際金融市場として成り立ってきたのは、考えて みれば、ある意味で奇跡の連続ともいえる。
ポールソンの辣腕がそれを支えたといえるし、 なんども足を運んだキッシンジャーの功績かも知れない。
「さすがだね、ゴールドマンは、いつも打つ手が早い」
30代前半と思える長身のドイツ人の男性が、通路の奥の 方から現れ、ヴァレリーに近づきながら、話しかけてくる。
「あらっ、ベルホルト。さっき、あそこで話したばかりなのに、 もう話が通じてるの? ここなら盗聴されてないかと思ってたけど、 やっぱり、スイスだからかしら?」
「いえいえ、ヴァレリーさまの来られる要件は想定内ですので…」
「まあいいわ。そういえばバンカメだって準備してるって聞いたわよ。 たしかに、今はどこも同じことを考えて当然よね」
「景気のいい時には巨額の利益を上げてきた中国の銀行も、実際 には国に甘やかされてきただけですから、これから来る巨額の不良 債権の波に襲われたら溺れるしかないでしょうね。はい、これ! リサーチしたデータです。カリギュラさまからのプレゼントです」
ヴァレリーは最初の数ページに目を通した。
「中国工商銀行(ICBC)、中国建設銀行(CCB)、中国銀行(BOC) 中国農業銀行(ABC)…。どれも世界のトップ10入りを果たし ているのに、これから大変ね。それから…、ふ〜ん、第5位の交 通銀行の株式さえ、共産党幹部が過半数を握っているの? まあ、 今更、肥大化した国営産業への投資を削減すると言ってもねえ…」
「その後半のは、シャドーバンキングに関するデータです。あの 国で表に出てくる統計数字は、ほとんど信用できないとボスが 判断して、こちらで独自に調査したものです」
「ありがと…。えっ? アリババ・ドット・コムでの不正取引?」
「はい、2009年頃から取引詐欺が発覚しているそうですが、 今後、それがアリババの信用にダメージになるのではないかと…」
「そういえば、ロスチャイルドが天津に中国本部を開設したでしょう。 その反応はどうかしら? アヘン戦争の歴史を思い出して、何か騒ぎに なったりしていない?」
「特に聞いてませんが、私はアヘン戦争以来、中国共産党はずっと ロスチャイルドさまの支配下にあるのですから、まったく問題ない と思います」
「そう…、そうよね、植民地にされている国が、支配する者の 許可なしに国民党や共産党を作れるはずがないものね。ちょっと した杞憂だったかも知れないわね」
視線を書類から離した ヴァレリーの目に妖しい光が走る。
「ところで、ベルホルト、今晩晩ヒマ?」
「ええっ、まあ、ヴァレリーさんの御用でしたら、 どんな先約でもお断りしますが、何があるんですか?」
「新しい媚薬の治験で、私がその実験台になるんだけど、そのとき、 あなたに私の妊娠、協力してほしいの。ほかの男にお願いしてたん だけど、あなたの精子で妊娠したら、極上の赤ちゃんが食べれる と思うのよ」
「はあ?」
「アハハハ、そんな意味不明って顔しないで。大丈夫よ、あなた に結婚を迫るとか、父親になってほしいなんて話じゃないから。 それに今日は妊娠できる絶好のチャンスなんだけど、それにしたって 確実に妊娠できるかどうか分からないじゃないの」
「え…、でも、それにしたって僕の精子なんかでいいんですか? それこそ、カリギュラさまとか…」
「あれはダメ、絶対断るに決まってる。『ブルーブラッドの種を そんな下らないことのために使わせるものか!』って怒るわよ」
「…ですよね」
「まったく…、今まで生きてきて、私からの誘いを断った男が2人も いるのよ。カリギュラと、もう一人、東洋人のビジネスマン、たぶん、 日本人じゃないかしら? 今、思い出しただけでも無性に腹が立つわ!」
ヴァレリーは、何かを思い出したらしく、 バッグの中から携帯電話を取り出した。
「ああっ、エマ。お願いしてたセルティ・セジョスティアンの件 なんだけど、彼女が好きになった男の素性を、簡単にでも調べて おいてくれるかしら? ええっ、そんなに急がなくていいから」
ヴァレリーが携帯電話を切った後、ベルホルトが口を開く。
「エマ? 僕が以前つき合ってた女の子がオランダ人で、 エマって言ってたんだよ。あのエマだったらいいけどなあ」
「さあね…、でも、彼女はオランダ人よ。ただし、オランダでは 『エマ』って名前はありふれててイヤだって言ってたわよ」
「それにしても、さっきの電話は素っ気ない調査依頼でしたね」
「ええっ、私にはあまり興味のない案件だから、正直どうでもい いの。ただ、Jさまがちょっと気にしてるから、秘書として何も 知らないでいるのは許されないわ。それより、ワインの美味しい 店でランチしましょうよ」
二人はVIPしか利用できないエレベーターの中で激しくキスし合い、 さらにはシールドで覆われた車の広い後部席で、激しい愛撫を交し合い ながら、専用の運転手が運転する車で、山間のレストランに向かった。
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