高知道のいくつか目のトンネルに入ったとき、邦彦の携帯電話が鳴った。 彼の長男アキラからの電話だった。今まで続いた会話は中断され、 邦彦の声だけが車内に大きく響いた。
ただ、少し薄暗くなった車内の後部席ではススムとセルティがこっそり キスを交わし、それを運転する沙知子はルームミラーでチラッと見て 微笑んだ。
“夫婦仲も遺伝する”…
彼女は大学生の頃、遺伝子研究に携わった友達からそんな話を聞いた ことがあるが、それを思い出していた。ある家系図を販売する会社の 人から聞いた話らしいが、少なくともこの家系ではその説は正しい。
彼女の義理の息子であるアキラは、インドネシアの首都ジャカルタに いる。東南アジアで事業展開しようとする企業をサポートしている。 彼自身の本業ではないが、いろいろな人に頼まれて一肌脱いでいるのだ。
彼の妻、尚美は小柄だが、どこにそんなエネルギーがあるのかと思う ほど元気で笑顔が絶えない。現地でも「ナオミが来ると商売がうまく 行く」と“福の神”扱いされているらしい。
「ナオミさんは元気がいいなあ。途中でアキラと電話を替わってくれ たんだけど、あの声を聞くだけで、こっちまでハツラツとしてくるよ」
電話を終えた邦彦がうれしそうに言った。
「中国海軍がフィリピンの領海を侵犯したお蔭で、あの近辺の国々も 中国の覇権主義をかなり警戒しているらしい。インドネシアだけでなく、 フィリピンからも日本企業に来てほしいとのオファーがあるそうだよ」
「そういえば兄さんは前から言ってたよ。フィリピンのタガログ語や インドネシア語、マレー語、マレーシア語のできる人材をまとめて紹 介してくれないかって…。たくさんの日本企業がそんな人材を欲しが っているらしいよ」
「それに、中国はいずれノウハウを手に入れたら、現地の日本人を追い 出して工場から何から全部を奪うから、中国に進出している企業は早め に他の国に移った方がいいって。たしか、その情報は海外に在住の 華僑の人から聞いたらしい」
「チャイナ・リスクってやつだな…。父さんも、知り合いにその話を したんだけどな。結局、商工会の仲間とつるんで中国に行っちゃった んだよ。日本経済新聞が、これからは中国だ!…なんて、あれだけ煽 ったら、真に受ける企業だって少なからず出てくるよ」
邦彦の言葉にハンドルを握っていた沙知子が反応した。
「私の友達も中国に会社移しちゃったわ。美容院でそんな話をしたの。 たしか、あの女性は『クローズアップ現代』の国谷裕子さんって司会 者の話を聞いて、自分も行ってみようかなって思ったらしいのよ」
「やっぱり、マスコミの影響って大きいんだね」
「きっと、これからはマスコミの誰が何をどう言ったのかが、一つ一 つ検証される時代だろうね。電波を使って好き放題言ったら、インタ ーネットの動画で、皆なが確認するし、問題があれば、Twitterでそ れが拡散される」
「一番悪いのは、さも国民の味方のような顔をしながら、影に隠れて 国益を損ねるヤツなのかも知れない。つまり、マスコミだよ。今まで 政治家や官僚がどうだと言ってたけど、彼らの発言をチェックしないと…」
「おもしろそうね。たしか総務省のお役人さんだったかしら、官庁に 届くファックスの量で、国民の意思がどれだけあるのかを判断するっ て言ってたのは…」
「そういえば前にあったね。安部元首相を交えた討論で。あるインタビュア ーが『安倍さんは以前、〜と言いましたよね』と切り出したら、安倍さん、 キリッとした顔して『私はそんな事を言った覚えはありません』ってキッパリ! そしたらインタビュアーは口を濁して、急に話題を変えてね。面白かった」
その話に皆な笑った。
「へえ、マスコミって、そういうふうに政治家を誘導するんだね」
「たしかホテルに御宿泊になった、ある官僚の方もおっしゃてたわ。 マスコミに訴えるなら、その番組で話したアナウンサーやゲスト解説者 とか個人名を挙げて電話やファックス、電子メールを送るべきだって…」
「まあ、たしかにテレビ局に文句を言うだけでは責任の所在が曖昧に なくなるから、まずは発言した人自身の責任を追及する必要はあるよね」
「ところで、アキラの話じゃ、例のレアアース。もう中国が輸出制限 しても恐くないそうだ。今までの10分の1の量で済む技術を日本は開 発できてて、ほかの国からも調達できるって…。今度、中国がレア アースをまた脅しのカードに使ってきても、もう大丈夫だよって…」
「きっとマスコミは、そんなニュースも流さないでしょうね」
「世界のビジネスの前線で戦っているヤツは、もっと先の情報まで読 み取って勝利してるはずだよ。なっ、ススム! おまえ、もうとっく の昔に、そんな情報、知ってたんだろう」
「まっ、まあね…」
沙知子もセルティも、図星をつかれて焦るススムを笑った。
|
|