ススムとセルティ・セジョスティアンを乗せた飛行機は比較的空いて いた。およそ10時間30分の飛行でソウル(仁川:インチョン)に到着 すると機内アナウンスは告げた。
高度が上昇してから、しばらくすると、オルリー空港の待合席で会っ た韓国と日本の大学生たちが現れ、ススムに隣の席に座らせてほしい と話しかけてきた。
離れたところで見守っているCAを見ながら、セルティが何の問題も ないわよと手を振った。それを見て、二人の大学生は嬉しそうに席に 座った。
韓国の大学生である朴昌煥は、韓国の歴代大統領たちが「日本は我が 国が大変なとき、一度も助けてくれたことがない」という薄情な国で あるという言葉が気になっていたらしく、日本から韓国への経済支援 の有無を調べたという。
それは意外と簡単に分かったらしく、それをススムたちに報告した。
1997年のアジア通貨危機で苦しむ韓国を、日本が救済したという事実 を彼は知って驚いた。その頃、日本にも危機が波及していたにもかか わらず…である。
当時、韓国はIMFから570億ドルの緊急支援を受けたが、うち100億 ドルは日本からのお金だった(のちに麻生内閣は、さらに10兆円もの 資金をIMFに融資した)
借金を抱えていたのは韓国の民間銀行で、主に日本と欧米の民間銀行 から借りていた。その「借金」は短期対外債務と言われるもので、た だちに返さなければならなかった。
しかし、当然のことながら韓国の通貨であるウォンは暴落した。
借金の支払いで窮する国に再生する余地などないため、投資家が 韓国から資金を引き上げるのは仕方のない話だ。
そのとき、日本銀行(日銀)が韓国の窮状に見かねて立ち上がった。 ウォンの暴落が止まらなければ韓国はもう破産するしかない
…そこまで韓国は追いつめられていたのだ。
日銀は、日本の民間銀行に借金返済を延期を説得。
さらに欧米の民間銀行と交渉し、韓国の借金を延期するよう合意を取 り付けた。通常、このような交渉がすんなり行くことは少ない。しか し、日銀は返済期限までのたった1ヶ月余りで交渉をまとめている。
当時、世界中の投資家たちは、日銀の姿勢に「日本は韓国を見捨てな い」という安心感を感じたといわれる。韓国の破産を防いだのはIM Fの援助だけではなかった。
ただ、この時の韓国の報道はIMF一辺倒で、日本の援助を報道しな かった。「日本の援助がなくても立ち直れた」と韓国政府は言ったき り、IMFへの返済も実質日本から借りて返済しなかった。
次は、2005年の日韓通貨スワップ協定締結。「通貨スワップ」とは、 通貨危機に陥った際に互いに通貨を融通しあう制度。
韓国はすでに自国通貨が信用をなくしつつあったため、為替安定のた めに信用のある国際通貨を持つ国とのスワップ協定を成立させて生き 残りをかけた。
事実上、韓国が危機に陥った場合を想定して、 日本が救済してあげるための協定である。
のちに、2008年にリーマンショックが起こり、韓国経済が危機に陥っ た際、当初は30億ドル(当時約3千億円相当)だった限度額は、一時 的に200億ドル(当時約2兆円相当)に引き上げられた。
当時は1997年のアジア通貨危機並に韓国ウォンが急落した。投資家た ちによれば、日韓スワップ協定が、市場を牽制し、ウォン急落に歯止 めをかけ、韓国経済を安定化させたのは明らかであるという。
2009年〜2010年になると、急速な円高で日本経済がダメージを受ける 中、韓国政府は執拗にウォン売り為替介入しウォン安政策をとる。 海外では日本製品がほとんど消え、ウォン安に後押しされた韓国製品 が圧巻した。
当然ながら、日本企業の経営がひどく圧迫されたことは想像に難くない。
その後、好調だった韓国は、2011年夏の欧州危機により信用収縮が起 きてウォンが急落。ピンチを迎えた韓国政府は、一転、米国や日本が ウォンを支える責任があると言い始めた。
2011年10月、日本政府は善意で通貨スワップ協定を700億ドル(約5兆 4千億円相当)に拡大することに合意。韓国メディアは「ケチな日本が、 予想を超える日韓通貨スワップ700億ドルを締結」と報道した。
ところで、海外の投資家たちの記事によれば、韓国企業の驚くべき放 漫経営も問題だが、銀行自体も融資に関しては信じがたいほどのいい 加減さであることが世界的に知られることとなる。
ヨーロッパの金融危機がそのキッカケをつくったのである。
韓国の大学生である朴青年は、従軍慰安婦問題や竹島(独島)に関し ても、韓国政府が国民についてきたウソや隠蔽してきた事実があるの ではないかと疑い始めた。
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