中村美奈子と彼女の婚約者であるクレーメンス・アイヒベルガーは、 真っ赤な車体のシドニー・エクスプローラという観光巡回バスに乗っ ていた。
シドニーは公共交通機関が発達しているので、シドニーを訪れた観光 客にはこの手の観光手段はうってつけだ。シドニー・エクスプローラ は一日乗り放題のチケットのみで、バス停にバスが着たら運転手から 直接買うのが一番簡単。
ふたりはオぺラ・ハウスやキングス・クロスなどを回るシドニー・エ クスプローラと、市内中心部からダブル・ベイやボンダイ・ビーチな どを回るボンダイ・エクスプローラのセットで購入した。
「チケットはちょっと高かったけど、エアコンもきいてる車内もキレイ♪」 「美奈子さんに喜んでもらえてよかった」
「クレーメンスこそ、シドニーでいい買い付けができてよかったじゃない」 「ありがとう。まだ画像を送っただけだけど、ママも喜んでたよ」 「衣料やアクセサリーを見立てる才能は、母親ゆずりなんじゃない」 「僕もそう思う。パパは自分の着る服にさえ関心がなかった人だから」
ふたりは少し遠くに見えるオペラ・ハウスを見ながら笑った。 クレーメンスはバックからミネラル・ウォーターのペットボトルを出 そうとして、中に入っていた新聞を落とした。美奈子がそれを拾った。
「オーストラリアでも新聞の見出しはオリンピックね」
「審判の判定が一気に変わったり、4位のチームが銀メダルに昇格し たり、女子の競泳選手が男子の記録を破ったり、ワザと負けて失格に なったり、何かとても奇妙な大会って感じがしますね」
「そういえば、クレーメンスはホテルでもオリンピックの中継は ほとんど見ないわね、スポーツにはあまり関心がないの」
「いいえ、そんな事はないです。特にフットボールは見るのもするの も大好きです。ただ、前回の冬季のオリンピック(カナダ・バンクー バー)の女子フィギュアスケートで、すごいショックを受けました。 あれからオリンピックそのものに不信感を抱いてしまいました」
「たしか韓国のキム・ヨナ選手が世界最高得点で優勝した?」
「そうです。たしかにキム・ヨナ選手の演技自体悪くなかったと思い ます。でも、日本の浅田真央も素晴らしかった。だから僅差の判定だ と思ったのです。ですが結果は総合で20ポイントも離れて…。僕は 150点という点が出たとき、思わず笑ってしまいましたよ」
「たしかに、あれは信じられない結果だったわね」
「彼女が4回転ジャンプを成功させてもいないのに、男子よりも高い 得点を出したのです。フィギュアスケートを愛する者にとっては、 審判に不正がなかったと思う方がおかしい試合でした」
「裏で審判が買収されてる、なんて事が分かったら、もう、オリンピ ックなんか見る気もしなくなるわよね。それでかしらね、ロンドン・ オリンピックの観客席が空席だらけなのは…」
「まあ、ヨーロッパの金融危機も影響してて、皆さん、お金もありま せんから、行きたくても行けない人も多いと思いますよ」
二人は微笑みながらミネラル・ウォーターのペットボトルで乾杯した。
美奈子はすぐ間近になったオペラ・ハウスの外観に興奮しながら、カ メラのシャッターを切った。彼女は父から、ミセス・マックォリーズ 岬から写す光景がベストだと教えられたのを思い出した。
「お父さんは午前中に、向かい側の岬から写真を 撮ったらいいって言ってたのを、今思い出したわ」
クレーメンスは夢中になって写真を写す美奈子を、微笑みながら見守 った。機械で流れる車内のアナウンスは、白い帆船をイメージしたデ ザインをもつ巨大なオペラ・ハウスが1959年から14年間かけて完成し たものであると説明していた。
「館内のガイドツワーに参加しませんか? 美奈子さん」 「いいわね。私たち、まるで新婚旅行に来てるみたい」
「さっきのメールでは美奈子さんのお母さんは、 シドニーで妊娠したと書いてたそうですね?」
「そうらしいわ。今度は私が妊娠する番よ、あなたとの子を…」 「本当ですか、それは嬉しいです」
そのとき、満面の笑みを浮かべたクレーメンスは、ベッドの上で超 精力的に愛の行為に没頭する美奈子の姿を想像だにしていなかった。
のちに『精も根も尽き果てる』という日本語を実感として理解したと 彼は彼女の父である中村喜一に話したが、それも母親ゆずりなので諦 めてほしいと引導を渡した。
当の中村自身が、いまだにそのような人生を送っていた。
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