中村美奈子と彼女の婚約者であるクレーメンス・アイヒベルガーは、 親たちに見送られて市内の観光に出かけた。
「あの二人、案外うまく結婚生活を送れるかも…」
クレーメンスの母マチコが何気なくそう言うと、美奈子の両親も同じ 思いで、ホテルから遠ざかる二人を見つめた。何を話しているのか、 手つないで歩きながら笑っている。
「中村さんはお仕事の件もあってシンガポールへいらしたと伺いまし たが、やはり、中国がシンガポールに人民元決済銀行を出すことに目 をつけていらっしゃっるのですか?」
「はい、たしかにそれもあります。海外に派遣している社員からの情 報を受けて、会社の役員もシンガポールに本社を移転する案に傾いて います。噂では中国の大手国営銀行である中国銀行と中国工商銀行が 有力候補だそうですが、いずれにしても銀行はコストが下がりますし、 人民元で取引する場所としてシンガポールの魅力が高まるのは間違い ありません」
「中国にしても本土の景気が減速してますから、新しい市場を探し求 めるという点で、シンガポールはちょうどいい拠点になりますわね」
「ここはこれからアジア市場の大きなハブとして発展するでしょうね」
中村美智子は夫である喜一の顔が、いつの間にかビジネスマンの雰囲 気に変わりつつあるのを感じた。マチコは少し聞きづらいなという顔 で中村に尋ねた。
「でも、もっと大きな理由は日本の放射能の影響なんでしょう?」 「はい、そのとおりです。もう、いかんともしがたいレベルです」 「もう、日本はダメですか?」
「残念ですが、今後数年間で何千万人が犠牲になるのか分かりません。 日本の外務省が日本国民4000万人をロシアと中国へ移住させる計画を 打診したと、ロシア外務省のレポートにあって、クレムリンがその内 容に騒然となったそうです。たしか今年の4月中旬頃のニュースです」
「本当、残念。私、老後は日本で暮らしたかったのです」
「マチコさんのお生まれはどちらなんですか?」 「生まれは清水です。静岡県の…」 「ああ、そうですか。大親分の清水次郎長で有名なところですね」 「はい、そうです。覚えてくださっててありがとうございます。でも、 今の子供たちは“清水”と聞いたら、大抵『ちびマル子ちゃん』って 返事が返ってくるかも知れませんわよ」
中村とマチコは思わず笑った。だが、さすがに両親は日本人でもドイツ で生まれ育った美智子にはピントが合わない話だった。一方、マチコは 久しぶりにする日本語でのコミュニケーションが楽しかった。
「でも、高校を卒業して就職した先は横浜でした。そこで知ったので すが、清水次郎長は日本初の英語塾を開校したそうです」
「本当ですか? あの時代劇で、親分子分のちぎりがどうこう言う方が?」
「ええっ、意外でしょう。私も最初は信じられませんでしたの。でも、 彼はお茶を輸出するために清水と横浜の定期航路を開発して、その際、 これからは英語が重要だということで、私塾を開き、しかも講師は全員 ネイティブだったそうですわよ」
「へえ〜、清水次郎長って、意外に先進的だったんですね」
マチコは中村喜一にぴったり寄り添う美智子の姿を見ながら、 長旅で疲れていると思い、部屋でお休みなされてはと勧めた。
「でも、中村さん御夫妻は仲が良くてうらやましいですわ。何か秘訣でも?」 「私は常に家内の言いなりです」
中村の照れ笑いする姿に、美智子が反論する。
「主人は、たしかに恐妻家かも知れませんが、周りの人にそれを表現 するのが上手なんです。お蔭で私に会うまでは“鬼”のように思われ ることも多いんですのよ」
「うふふふ、でもどうやって御主人を手なづけていらっしゃるんです?」 「……、夫婦生活ですわ」
「夫婦生活?」 「ええっ、浮気する余裕もないくらいに精を吸い尽くしてあげてるんです」
中村は少し恥ずかしそうな顔で口を開く。
「ふつうの女性は『愛されたい』と思う人が多いと思うのですが、彼女 の場合は『愛したい』タイプなんだと思います。実に積極的で…それで 私もいつの間にか彼女の虜になってしまいまして…」
「今でも?」
「はい、今でも家で時間が許す限りはベッドで…。そういえば小さい頃、 私の父親が『50歳すぎたら女はスゴいよ』と近所のおじさんに言ってた のが、この事なのかと、この歳になって分かった気がします」
「もしかしたら、女の側に妊娠する心配がなくなるからかしらね。 ねえ、あなた、もう行きましょう。美奈子は美奈子で婚約者とちゃん とするに違いないわ」
そんな中村と美智子の姿に、ソファーに座るマチコは 小さく手をふって二人の健闘を祈った。
“私も前の主人から再婚を申し込まれたけど、やり直すなら美智子さ んのように毎晩でも精を吸い尽くしてあげようかしら。たしかに彼を コントロールするのには一番よい方法かも知れないわ”
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