ススムはフリッツ・ミューラーからのチャットに応じた。
「やあ、久しぶりだね。フリッツ、今はどこなの?」 「こちらこそ、久しぶり。今は生まれ故郷のフランクフルトだよ」
「どうしたんだい、こわい顔して…」 「ニュースで知ってるだろう。ギリシャには本当頭にくるぜ」
フリッツが何に怒っているのか、ススムには想像がついた。 ギリシャ新政権がEUに提示した財政見直し案の中身だ。
財政緊縮目標達成期限を2年先送りすること。公務員15万人の削減計 画も見送りすること。付加価値税を一部引き下げること。失業者への 手当給付期間を1年間から2年間に延長すること…
フリッツがさらに噛み付く
「ギリシャのヤツら、次に何考えてるか分かるか?」 「当然、借金の返済を猶予してくれ!っていうんだろうね」 「それだけじゃない。年金カットも拒否するに決まってる」 「もらえるだけもらって、EUさん、はい、サヨナラだろうね」
憤懣やるかたないフリッツの顔が、ススムのパソコンの片隅にあるの だが、一転、顔が少し明るくなって話かけてくる。
「そういえば、おまえの彼女はどうしてる。アイルランド系の」 「今、彼女は両親の看病のために故郷に帰ってる」
「なんだ、おまえ、フラれたんじゃないのか…。あれはいい女だ」 「ああっ、彼女は最高だよ」 「あの娘の預言は当たるよな、彼女がまた何か言ったら教えてくれ」 「できれば僕と結婚した方がいいってお告げがあるといいけど」
ふたりは互いに笑ってチャットを終えた。
☆
岡島敬一郎と青野素子はそれぞれ大浴場の男湯と女湯に向かった。 ちょっとしたジャングル風呂のような感じで、男湯に入っている人は それほど多くなかった。
露天風呂に出ると少し雨が降り出してきた。その冷たさが却って心地 良く感じる。こうして温泉を満喫するのは久しぶりだと岡島は思う。
その頃、素子も岡島と同じように雨の落ちる露天風呂にいた。
日頃のストレスが一気に解放されるような気持ちよさにワッーと叫んだ。 女風呂には何人かのお年寄りが孫を連れて入っていたが、彼女の叫び声 など誰も気にしなかった。
唯一、その声に驚いたのは男風呂に入っていた岡島だった。彼が垣根越 しに素子に呼びかけると、素子もそんな近くに彼がいたのかと驚く。
大きな温泉もいいけれど、お互いすぐに会いたい気持ちが募る。 次は家族風呂に一緒に入りませんか、という素子の提案に岡島は 胸が高鳴った。
ゆったりと温泉を楽しんだ二人は市内の通りを散歩しながら見つけた うどん屋で夕食を取ることにした。風情のある老舗の前でカップルや 友だち同士と思われるグループが記念写真を撮っている。
岡島と素子もその中の一人にお願いして写真を撮ってもらった後、 大きな海老の天ぷらが入ったうどんを堪能した。
「四国の食材はまだ放射能とか大丈夫なんじゃない?」 「そうだねよ、こちらに避難してきてる人たちも多いみたいだし…」 「東北でも関東でもマスクとかあまりしない人多いって平気なのかな?」
彼らの隣のテーブルに座った女性グループが、 注文をお願いした後、そんな会話をしている。
岡島と素子も産地偽装で放射能に汚染された野菜や肉、魚が全国 に流通している話はよく聞くが、ふと今食べた海老は大丈夫なの だろうかと思ってしまう。
二人がお互いの顔を見合わせ、困ったものだと席を立とうとしたとき、 岡島は斜め後ろの席の人が開く「週刊金曜日ニュース」が目に入った。
「山下氏の指示を黙認する政府に怒号 異常数値が出る子どもを放置」の ページの見出しが彼の目にとまった。素子は急に立ち止まった岡島にどう したのかと思ったが、すぐに彼が振り向き笑顔になったのでホッとした。
その店を出た瞬間、岡島の携帯電話が鳴った。
ファーストサーバーというソフトバンクの子会社が震源地となって、 5000社もの企業データが全て消失したという。金曜まではサーバー障 害で誤魔化していたものの、月曜日に人々が出社するまでに復旧する 見込みはないらしい。
サーバ内に存在するウェブやメールなどのデータがすべて消失。原因 はメンテナンス作業における管理プログラムにバグがあったことによ るものだと連絡が入った。
いずれにしても何千社という企業の大事なデータ…、人事管理、 稟議関係、顧客データ、機密情報が消失したことになる。
「月曜日はちょっと早めに出社してほしいそうです。毎日、いろんな ことが起こりますね」…岡島は自分を見つめる素子を安心させるように、 意識して明るく振舞った。
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