音がし始めたのは、丁度九時頃のことだった。 日曜日ののんびりとした調子のニュースをぼんやり眺めていると、隣の部屋から何やら地響きのような低い音がし始めた。俺はテレビを消し、その音がする部屋側の壁に耳を当ててみる。その音は何かが地を這っているような、そんな想像をかきたてるような音だった。 ピンポン。 急に違う音が、やけにはっきりと聞こえてきた。何かと思い、さらに強く耳を押し付けてみる。もう一度鳴る。俺の部屋のインターホンだった。 俺は玄関に向かう途中、平手で軽く頭を撫でつけて寝癖を直す。最近髪が伸びてきたので、朝起きるといつも髪型がひどいことになっている。 玄関のドアを開ける前に、一応のぞき窓から相手を確認する。若い女が一人立っている。二十代前半くらいだろうか。俺はドアを開ける。 「おはようございます」 女は慌てたように挨拶をする。白い頬が少しだけ赤くなっている。 「あ、あの、朝からご迷惑をおかけします。」 女の横で、大きな段ボール箱を持ったがたいのいい男たちが、隣の部屋に入っては出ていく。男たちが部屋に入ると、地響きのような音がした。 まだこの手の挨拶には不慣れなのだろう。女は何やら後ろに回した手をもじもじと動かしている。 「今日から隣に引っ越します。山村と申します。」 山村?まさか。 「パパ!」 甲高い声が聞こえたかと思うと、俺の足に勢いよく何かがぶつかってきた。不意を突かれ、思わずよろける。 「翔太!」 ほぼ同時に女が叫ぶ。子供は俺の足にしがみついたまま、きょとんとした目で俺を見上げている。 「す、すみません」 慌てて女が俺の足から子供を引き離す。何と言って良いかわからず、俺は呆然とする。 「佳澄」 聞き覚えのある声。その声に子供を抱いたまま女は振り返る。 「ねぇ、純。ちょっとこの子を見ておいてくれない?」 女にそう言われ、笑いながら山村は子供を自分の懐に抱き寄せる。 「やぁ、田村。何年ぶりかな?」 俺のほうを向いて、山村は白い歯を見せて笑う。さっきは偶然かと思ったが、こいつは確かに山村だ。 「びっくりしたかい?」 「ああ」 俺はひどくあやふやな返事をする。愛想よく笑いかけてくる山村に、次の言葉が出てこない。横から「お知り合いなの?」と尋ねる佳澄に、山村は俺を「大学時代の友達」と言って紹介した。 友達。俺は山村に対してそのような意識を持ったことはなかったが、愛想よく笑っているこの男は、俺が大学時代に知り合った、無口で、顔色が悪く、いつも一人でいた、あの山村だ。今は自分と同年齢くらいの妻を持ち、腕には子供を抱えている。この子供の親であり、この女の夫である山村。この家族の大黒柱になる男。 「田村?」 山村に呼ばれ、我に返る。一瞬、自分がどこか遠くへ行ってしまっていたような気がする。目の前の家族と俺との間に少しの間沈黙が続き、俺は何とかしゃべろうと思うが、どうにも言葉が浮かんでこない。どうしようもなく視線を巡らせているうちに、俺は山村の右腕にぶら下げられたビニール袋を見つける。 「それ、何?」 俺はようやく言葉を見つけることができ、安堵して出てきそうになったため息を無理やり喉の奥に押し込める。 「覚えてないのかい?」 そう言った山村は、子供を片手に、ぶら下げていたビニール袋を俺に渡す。受け取って中を見ると、缶チューハイが何本か入っていた。 「今度飲もうって言ったじゃないか。」 山村は人懐っこい笑顔を浮かべて言った。隣から佳澄が「朝から飲むの?」と口をはさむので、山村は「夜にだよ」と言って弁解した。 「うちは引っ越し作業が終わるまでは冷蔵庫とか使えないから、代わりに君の部屋で冷やしておいてくれないかい。」 言われるがままに俺はうなずく。 山村の腕に抱かれた子供が急にぐずり始めた。山村が腕をゆすってあやすが機嫌は直らず、ついには大声で泣き始めてしまい、また慌てたように佳澄が頭を下げると、山村は早口で「また夜に」と言って、家族三人どこかへ行ってしまった。 その様子を確認して、俺は静かにドアを閉める。何だか意識がぼんやりとしていて、まるで夢でも見ているような気分だった。 俺は山村に言われた通り、ビニール袋に入った缶チューハイを冷蔵庫にしまい、リビングに戻って読みかけの新聞のページを開いた。スポーツ欄に掲載された記事によると、昨日のプロ野球ではまた巨人が勝ったという。
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