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作品名:疑問 作者:musasabi

第4回   何気ない一日の始まり
「遥花、バスタオル」
風呂場から誰もいないリビングにそう叫んで、はっとする。習慣とは怖いものだ。無論、誰も来ることはない。
仕方なく風呂から上がろうとして、思いとどまる。
俺は小さい頃からのぼせやすいたちで、湯船に入っても五分と経たずに出てしまうのが常だった。
しかし、今はまだ、湯船につかっていたいような気がする。
「おーい」
また呼んでみる。狭い風呂場に低い声が反響する。
「おーい」
何度か繰り返してみた。やはり、誰も来る気配はない。
湯船から上がる湯気を見つめていると、頭がぼーっとしてきた。
何で俺は今日、風呂を沸かしたんだろう?
一人しか入らないのなら、風呂を沸かさずにシャワーにすれば水道代が浮く。俺にだってそれくらいの知識はある。なのに、どうして。
「お風呂に入らないと、体の疲れが取れないよ。」
そういえば、遥花がよくそう言って、夏の暑い日にも毎日欠かさずに風呂を沸かしていた。俺が暑いからシャワーでいいって言っても遥花は聞かなくて、喧嘩になった。今思えば、我ながらくだらない喧嘩をしたなと思う。
「ははっ」
わざと声を上げて笑ってみる。声は狭い風呂場の壁を反響したが、すぐにまた沈黙が訪れる。風呂場のふちに両手を付き、体をゆすって波を作ってみる。湯船の波は徐々にふり幅を増し、浴槽の端のほうからお湯が溢れ、波に体を預けてみると、体は振り子のように前後に揺られ、俺は小さい頃によく行った波のプールを思い出した。
風呂から上がると、部屋着に着替え、ドアの内側についたポストから入ったばかりの今日の朝刊を取り出してリビングに持っていく。
部屋の時計は、午前4時を指している。
俺は煙草とライターをポケットに突っ込んでベランダに出る。まだ涼しい外の空気が、湯船で温まった体を急速に冷やしてゆく。既に空は明るくなりかけていて、目の前の道を、赤いテールライトを光らせた原付が通り過ぎていく。
煙草に火をつけ、深く吸い込んだ煙を、朝の静まり返った団地の景色に向けてゆっくりと吐き出す。足首のあたりにプランターの角が当たっている。見てみると、真っ黒い土からやせ細った茶色い茎がひょろひょろと伸びていて、そのまわりにからからに乾ききった同じ色の葉っぱを何枚かつけている。一体、どんな花をつけていたのだろうか。狭いベランダを埋め尽くすプランターは、「彩(いろどり)に」と言って遥花が育てていた物だ。よく覚えてはいないが、遥花がまめに面倒を見ていたおかげで、以前はどれもきれいに花を咲かせていたような気がする。今となっては、哀れに茶色く枯れてしまっているが。
「今日は日曜日だ。」
俺は明るい声のトーンでつぶやいてみる。
高校時代は平日や休日に関係なく、ほぼ毎日部活動に追われていた。日曜日は学校がない分、部活動が一日練習になるので、俺にとって日曜日はむしろ億劫な日だった。乾ききらない柔道着を黒帯で結んで背負い、疲れが残る体に鞭を打って学校に登校していた頃を思い出すと、今では本当によくやっていたなぁと思う。社会人になった今でも、部活動に代わって仕事に追われるようになったが、あの頃に比べれば、会社は最低でも日曜日は休みになるし、ヤクザのようなおっかない監督にひっぱたかれるようなこともないので、今は精神的にも肉体的にも楽に感じる。久しぶりに地元の道場に顔を出してみようかとも思うけれど、あの頃に比べてたるみ切ってしまった今の俺の身体では、若い生徒たちの相手をすることはもうできないだろう。
俺は煙草の煙と一緒に、深いため息を吐き出す。
「起きてたの?」
そう言って目をこすりながら、寝巻き姿の遥花が部屋から出てくるような気がする。子供のように無邪気に笑う遥花を見ていると、何にも辛いことなんてないんだろうなって思う。そんな姿に、時には苛立ちを覚えることさえあった。しかし、今さら思い出すと、何だか妙にほっとしてしまう。
ベランダの床に煙草の灰を落としてサンダルの裏で揉み消す。部屋に入ってテレビをつけ、冷蔵庫から冷たいブラックコーヒーを出して飲み、朝刊の一面に目を通す。
何気ない日曜日の朝。
何気ない一日が始まる。


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