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作品名:疑問 作者:musasabi

第2回   別れ
一か月前。蝉が騒がしく鳴く日の朝だった。
俺が知らない間に、遥花の葬式の準備は進められていた。
若い俺にはまだわからないだろうと、遥花の両親が葬式の段取りを請け負ってくれた。
今日俺は喪服の黒いスーツと、来る途中で間に合わせで買ったフォーマルのネクタイを締めて出かけ、葬式場では他の来客者と同じように受付で署名をした。
葬式場の中に並べられたイスは既に半分くらい埋まっていた。入り口で葬式屋の人に、親族の方は奥へ行くようにと言われた。
中に入ると、小さめの音量で音楽が流れていた。なんだか悲しげな音楽だ。既にイスに座る人たちを見ると、ハンカチで口元を抑える女性や、神妙な目つきで腕時計を見つめる男性など、その表情は様々だった。
イスがいっぱいになり、来客が後ろのほうで立つようになった頃、受付をやっていた遥花の母親が中に入るのを確認して、葬式屋の人が両手で静かに扉を閉めた。
司会の女性が遥花の遺影の前に立ち、丁寧に頭を下げて挨拶をする。少しも噛まずにお悔やみの言葉を述べる。もう何度となく口にしてきた台詞なのだろう。しゃべっている間、黒目がまったく動かないのが印象的だった。
流れていた音楽が変わり、司会の女性が生前の遥花の思い出を語り始める。
「遥花さんは、平成二年八月十日に二宮家の長女としてこの世に生を受けました。」
遥花が小さかった頃の話から始まり、徐々に大きくなっていく様子が順序良く語られた。後ろのほうから鼻をすする音が聞こえた。
俺は小さい頃に行った親戚のおじさんの葬式のことを思い出した。
親戚のおじさんとは言っても、俺の母親のいとこの父親、つまり俺から見たはとこのおじいさんということになる。親戚の家に行ったときに二、三度会ったに過ぎないおじさんだったが、そのおじさんの葬式で、まだ小さかった頃の俺は号泣した。俺より一つ年上のはとこは、自分のおじいさんが横たわる棺桶の周りを大声で笑いながら走り回っていた。
その時の俺は、とにかく悲しい思いでいっぱいになっていた。それ程顔見知りでもないおじいさんの葬式で号泣するまだ小さかった頃の俺を、訪れていた親族や来客の人たちは不思議そうな目で見つめた。
今はもう覚えてはいないのだが、葬式が終わった後で俺の母親がどうして泣いたのかと聞くと、俺は「人が死ぬっていうことが分かった」と答えたそうだ。
とてもまだ小さい子供が言う言葉とは思えない。何でそんなことを言ったのかも、今の俺は覚えていない。ただ、それを聞いた母親が俺の目を見て「悟は優しい子」と言ったことを、俺は今でも覚えている。
司会の話が終わり、焼香の時間になる。
親族席の最前列に座る俺がまず、焼香台の前に立つ。
焼香台にゆっくりと向かう途中で、俺は焼香の手順を何度も頭の中で繰り返した。焼香台の前に立つと、背中に視線が集まってくるのが痛いくらいにわかった。
緊張で体が固まり、香をつかむ指がかすかに震えた。
「ばかだなぁ」
この場に不釣り合いなほどの明るい声に、俺は驚いて顔を上げた。
しかし、背後の人たちに変わった様子はないようだ。見上げると、遥花が遺影の中でいつものように笑っている。
確かに、馬鹿だよ俺は。
そう思うと、途端に香をつかむ指の震えが止まった。
俺は、何で緊張なんかしてんだ。
目の前の棺桶を見下ろすと、死に化粧で不自然に白くなった遥花の顔がのぞいていた。その表情は薄ら笑っているようだったが、遥花はこんな上品な笑い方をしない。
東北の田舎出の遥花は、色が白くて鼻筋もとおっていて、一見すると上品なお嬢様のようだが、その顔立ちに不釣り合いなほど大きな口を開けて大声で笑うのだ。
遥花はいつも笑っていた。
「ノート見せて」
大学の学期末テスト直前の授業日に、俺の隣の席に座った遥花は言った。聞くと、遥花は初めて大学の授業に出てきたという。俺は授業のノートを貸さなかった。代わりに、俺の隣にいた山村という友人が遥花にノートを貸した。その後、遥花は授業に出るたびに俺にノートを見せるようにねだってくるようになったが、俺がノートを貸さないので、いつも隣の山村が遥花にノートを見せてやっていた。最初、俺は遥花の人懐っこい性格が気に入らなかった。誰にでも笑顔で近づいてすぐになつくので、遥花は大学内でとたんに有名になった。さっき葬式の来客者を見回した時も、大学時代の遥花の友人が何人もいた。今思えば、当時の俺は、すぐに人と親しくなっていく遥花の愛想に、異性でありながら嫉妬していたのかもしれない。俺が持ち合わせていない才能を持った遥花が、とても恨めしかったのかもしれない。しかし、ある日を境に俺は、遥花を嫌わなくなった。
「悟は優しいね」
ある授業の日に突然、遥花は俺が小さい頃に母親が言ったのと同じことを俺に言った。
その日も俺は、遥花にノートを貸さなかった。しかし、どういうわけだか、その後俺たちは付き合い、そして結婚した。
男性は自分の母親に似た女性を結婚相手に選ぶ、という話を聞いたことがある。
俺のことを俺の母親と同じように「優しい」と言った遥花が、俺の母親と似て見えて、それが遥花を好きになったきっかけだったのだろうと、今では思うようになった。
「悟」
「遥花?」
肩を叩かれて俺は後ろを振り向いた。
俺の母親が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫」
俺はそう言って前に向き直り、香を三回つまんで、遥花の遺影に向かって手を合わせた。
棺桶からのぞく遥花の青白い顔が目に留まり、俺は不意に吹き出しそうになって、慌てて手を口に当てる。
背後の人たちは俺が泣き出したのだと思ったらしく、鼻をすする音がさらに大きくなった。
しかし、俺は笑っているのだ。
だって、あの遥花がこんな木の棺桶に入って死んでいる筈がない。
きっと遥花は俺を驚かそうしているんだ。俺が騙されて泣くのを見て、いつもみたいに笑うつもりなんだ。
遥花、早く起きろよ。俺は騙されないよ。
自分の焼香が終わり、他の人が焼香を行う間、俺はイスに座りながらこみ上げる笑いを懸命にこらえた。小刻みに震える俺の背中を見て、どの人も俺が泣いていると思っているのだろう。そう思うと、さらに笑いがこみあげてきた。全員が焼香を終えると、白い花が一人ずつに配られ、棺桶に入る遥花の身体の周りに丁寧に添えられ、たくさんの啜り泣きに見守られながら、棺桶が閉じられ、そして、遥花は灰になった。
「遥花」
台の上でばらばらになった骨を目の前にして、俺はぼんやりとつぶやいた。
いや、俺は決して目の前の骨に向かって呼んだのではない。
どこかにいる遥花に向かって、俺は呼んだのだ。
それは、一体何処なのだろうか。
それが、この世のどこかであって欲しい。
もし、そこがこの世でないとしたら?
いや、そんな筈はない。
じゃあ、遥花はどこへ行ったというのか?
言葉に詰まった。
何だか頭の中にもやがかかってしまったようで、もう何も答えられなくなった。
ただ、目が燃え盛る火のように熱くなって、熱を冷ますように、ひたすらたくさんの水が、目から頬を伝って流れていくだけだった。


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