遥花が死んで、一か月が過ぎた。 つけたばかりのクーラーが、薄暗い部屋に充満する湿った空気を急速に呑み込んでゆく。 汗を吸い込んだワイシャツが冷たくなっていくのを肌で感じながら、淡いオレンジの電球の下で一人、俺は安い酎ハイが入ったグラスを傾ける。 遥花が死んだのはもう一か月も前のことなのだが、今だに俺は、病院の霊安室のベットに横たわった遥花の青白い顔を鮮明に思い出すことができる。 「悔しい」 母親は、自分の娘の死体を目の前にしてそう叫んだ。 自分の娘の死体にしがみついて泣きじゃくる母親の背中を目の当たりにして、俺は録画してよく見ていた昼ドラのワンシーンを思い出した。 自分より先に子供に逝かれる親の気持ちは、今の俺にはまだわからない。悲しいことは確かなのだろうが、この親の真の悲しみは、現実に自分の子供の命を奪われてみなければわからない。 或いは、遥花の腹の中で芽生えていた命が無事に生まれていたなら、俺も少しは分かってやれたのかもしれない。 「二か月目だって!」 遥花が急に気分が悪いと言い出して、連れて行った先の産婦人科で遥花が妊娠していることを知った。遥花は大喜びだったが、子供のようにはしゃぐその様子を見ていて、俺は遥花が母親になる姿を想像することができなかった。 だから、俺は自分が父親になる姿も想像することができなかったし、遥花と一緒に灰になった子供を悔やむこともなかった。 遥花はどう思っていたのだろうか。 身ごもった子供の命とともにマンションの屋上からアスファルトの地面を見下ろしたとき、遥花はどんなことを思ったのだろう。どんなに想像してみても、男である俺にその気持ちはわからない。 或いは、何も考えていなかったかもしれない。 自分の身に迫りくる恐怖から、ただ逃げたいとひたすら願って、遥花は身を投げたのかもしれない。 その恐怖とはどれ程のものだったのだろうか。 「襲われたの」 破れた服をまとって身を縮める遥花は、まるで追いつめられた小鹿のように震えていた。 俺が会社に行っている間に襲われたらしく、部屋に帰った俺は、とりあえず遥花に服を着替えさせ、そのあとで警察を呼んだ。やってきた警察官の事情聴取を受けるうちに、遥花は俺と結婚する以前からストーカーに悩まされていたことを明かした。今までどうして俺に言わなかったのかと問い詰めたが、その時の遥花は震えるばかりで俺と目も合わせてはくれなかった。そんな遥花に当時の俺は苛立ちを感じていたが、今思えば遥花が俺に何も言わなかったのは、二人の新婚生活を自分の悩みのせいでぶち壊してしまうことを恐れていたからだったのだろうと思う。 俺が仕事から帰ると、遥花は玄関まで来て俺を迎えた。 「ご飯にする?お風呂にする?それとも」 無視して俺が横を通り過ぎようとすると、後ろで「言ってみたかったんだ」と言って遥花は一人ではしゃいでいた。馬鹿な女だと思いながらも、思わず顔が赤くなってしまうのを感じた。俺は幸せだった。その頃は何もかもがうまくいっているとさえ感じた。その裏で一人、遥花は恐怖と戦っていた。 腕時計のアラームが一日の終わりと始まりを告げる。 俺はグラスに入った酒を飲み干し、腕に顔を押し付けて目を閉じる。 まぶたの裏のスクリーンには、男が遥花を蹂躙する様子が鮮明に映し出される。 逃げ惑う遥花の身体を捕えた男は、餌にありついたハイエナのようによだれを滴らせ、遥花の白くて細い体をひたすら冒涜する。捕われた遥花は必死に歯を食いしばりながら、恐怖が過ぎ去るのをじっと待っている。 欲望を満たした男は、遥花を置いて部屋を後にする。欲情に駆られる度に男は遥花を蹂躙し、そして遥花が死んだ後にその姿を消した。 遥花の自殺の原因として男は捜査対象に挙げられたが、不幸なことに目撃情報もなく、以前の事情聴取の際に遥花がストーカーの男について証言しなかったため、男の正体を知る人物は既に灰になってしまった遥花一人となってしまい、遥花の自殺から一週間程で捜査は打ち切られた。 結局、遥花は男の欲望を叶えるための犠牲になっただけだった。それどころか、俺は家族という幸福を失い、遥花の両親は自分の子に先立たれるという苦痛を味合わされた。 あまりに不条理だ。 俺の両親も職場の社員も、世間はまるで俺を瀕死の小鳥でも見るような目で眺めた。涙を流すものもいた。若くして妻を亡くした男を見ればそう思うのも仕方がない。しかしそれらがかえって俺を立ち止まらせ、前へ進めなくしてしまった。もうどうしようもなくなった時、奇跡は起きた。 ある日、隣の部屋に男が引っ越してきた。遥花を蹂躙した男だった。 俺は無宗派だが、このことがあって少しは神様というものを信じてみようかとさえ思った。 その男は妻を持ち、一人の子供もいる。家族という幸福を得ている。人として許されない罪を犯した男が、人として生きる上での幸福を獲得している。 最初、俺は警察へ通報しようと思い、受話器を取った。 男は遥花を蹂躙し、自殺へ追い込んだ上に、逃亡した。これだけの理由があれば、男を死刑にすることができるだろうか。 このような言い方をすれば、多くの人が俺をおぞましい人間だと思うだろう。確かに、法律で持って人を殺そうというのだから、そう思うのも仕方がない。或いは、犯罪者に更正の可能性を見出すべきであるとして高らかに死刑制度の撤廃を掲げる者もいる。 しかし、死刑囚とは死刑になるだけの罪を犯している訳であり、ましてその者が更正したところで被害者やその遺族が救われる訳ではない。死刑制度の撤廃論などは所詮、傍観者たちが夢見る机上の空論でしかない。実際に被害者やその遺族自身になってみない限り、人は死刑制度を理解することはできないだろう。 それに、俺は遥花を蹂躙した男を法律で裁くには限界があるように思えた。 懲役何年だとか慰謝料がいくらだとか、そんな数字をいくら並べたところで、犯罪者を裁く正確な物差しにはなり得ないように思える。 だとすれば、俺が望むのはただ一つ。男をこの手で裁きたい。男を殺したい。 被害者の遺族がこのように思うのは自然な感情であるように思えるが、世間ではどんな理由があろうと人を殺してはいけない。 しかし、たとえ男を法律で裁いたとしても、男に与えられた苦痛と遥花や俺が味わった苦痛がイコールになり得るとは到底思えない。もしもそれらをイコールにできるのなら、やはり被害者である俺自身が男を裁くしかない。 俺が男を殺したいと思えば、男は殺されるしかない。そうでなければ、俺や遥花や遥花の両親が報われないではないか。それなのに、世間はそれを許さない。被害者である俺や遥花の両親の感情を犠牲にしてでも、世間は人の命の尊厳を守ろうとする。 なぜ、どんなものよりも人の命は尊いのか。 遥花を蹂躙し、死に追いやった男の命が、なぜ尊重されるのだろうか。 たとえ男の命の尊厳を守ったところで、もう死んでしまった遥花に尊厳を与えることはできない。むしろ、復讐が許されることで犠牲になった遥花の、被害者の命に尊厳を与えることができるのではないだろうか。 それなのに、なぜ。 なぜ、人を殺してはいけないのか。
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