この街と隣市を結んでいる橋の、ちょうど中間あたり、 緊急用の退避スペースに車を止めると、市営グラウンドが見下ろせる。 駐車場の東側に君の家の青い屋根が見える。
夏休みに、河川敷で開催される隣市の花火大会の夜には、 赤く塗られた欄干にもたれて、 遠くに見える花火を眺めていた。 花火が上がるたびに、小さな歓声をあげる無邪気な君の横顔が たまらなく愛しかった。
あの頃の二人には....怖いものなんて、何もなかった。 ましてや、君を失うことなど、考えたこともなかった。 ただ二人、一緒にいることが、すべてだった。
綿毛の風に誘われて、久しぶりに車をひき出した。 しばらく適当に走らせていたが、結局この橋に来てしまうのが、可笑しい。 今日は、市営グラウンドで、少年野球の大会があるようだ。 監督の訓示に熱心に聞き入る少年たちが頭を垂れている。 吹きっさらしのグラウンドに、小さなつむじ風が埃を巻き上げる、 観客席は、ちょっとした騒ぎだ。
グラウンドの裏手の土手には、誰かが植えたのか、菜の花の黄色が盛っている。 穏やかな春の日は、むせかえるような生命の息吹であふれていた。
昔のこのあたりは、たんぼや畑ばかりだったのだが、 バブル景気の頃に分譲された、建て売り住宅やアパート などが建ち並び、スーパーや、コンビニなども出来て 、今は、ちょっと街らしくなっている。
急ごしらえの、どこかつくりものめいた風景の中で、 ぽつんと取り残されたような、青い屋根は、あの頃のままだった。
君を送った夜に、別れが切なくて、時を過ごした街路灯の下... バックミラーには、いつまでも手を振る君が映っていた。
近所の人に見られると恥ずかしいからと、いつもここで、 君を下ろしたね...
陸橋をくぐるトンネルを通り、橋に続く坂道から、 手を振る君が見える。
街路灯の薄暗い明りの下で、小柄な君が一層小さく見えた。
今、君には、二人の子供と商社に勤める旦那様がいるらしい。
この街には、もう何年も帰っていないことは、三年前の同窓会で聞いた。
あれから20年.....君が私の前から去ってから.....
二人は、市の東西にある、別々の中学校に通っていたが、 中三の秋、修学旅行の日程が偶然、同じ日だった。 京都奈良への定番旅行で、新幹線の中を悪友とウロウロしているときだった、 前から歩いてきた君とすれ違う。 新幹線の狭い通路を譲り合いながら、通り過ぎる君の背を見送る。 かるく顎を引いてやや、伏し目がちに私の前をすり抜けていった君は、 かんきつ系のコロンが淡く香り、二つに縛った長めの髪がリズミカルにゆれていた。
呆けたように見惚れている私を、友人が横から突っついている。
「おい柴田、おまえ大丈夫か?あれ東中の柏さんだろう?かわいいよな.. 旅館も一緒かな?」
「おい、どこへ行くんだよ柴田、俺達の車両は、こっちだぞ!」
うちの学校は、部活動が盛んで、皆何かのスポーツや文化活動に打ち込んでいた。 私は、特別陸上競技が好きというわけでは、なかったが、 サッカーや野球などの団体競技は苦手だったし、 面倒な道具類も必要がない陸上は、億劫がりの自分には、適当な部活動でもあった。
放課後の練習時間中、自分で決めたメニューを一人で淡々とこなしていた。 顧問の教師や周りの仲間たちに期待を持たれることもなかったので、 ほとんど部室に顔を出すことも、なくなっていた。
秋の大会で隣市の運動競技場に出かけた日、彼女の姿をスタンドにみつけた。 誰かの応援に来たのだろうが、友達とのおしゃべりに夢中で、 グラウンドの方は、ろくに見ていないようだった。 私の出場する走り幅跳びのフィールドは、ちょうど彼女の座る スタンドの真正面だった。 一瞬、彼女がこちらを振り向いて、私と目があう。 新幹線のときと同じ、軽く顎を引いて、かすかに会釈してくれる。
私は、明らかに、気持ちが舞いあがっていたが、試合に集中しようと、 深呼吸をする。
かかとを持ちあげて、息を止め、助走路を走り始める。
踏切板を勢いよく踏み込んだ瞬間、18mmのスパイクが板に食い込み、 私は、つんのめるようにして、態勢を崩した。 そして、激しく脚をひねり骨折してしまった。 後で聞いた話では、ちょっとした木が折れるような音がしたそうだ。 目の前が、真っ白になり、冷たい汗が噴き出してくる、 観客席のどよめきと、悲鳴だけが、やけに鮮明に聞こえていた。
どれくらい時間が立ったのだろう、目がさめると、病院のベッドの上だった。 脛の骨が折れて、飛び出るほどの怪我だったらしく、 救急車で搬送されたと聞かされた。 これくらいの怪我だと、ショックで死ぬこともあるらしい。
気がつくと、右手には、しっとりと汗をかいた、母親の手が握られていて、 ひどく照れくさかった。 私は、それまで大きな病気をしたり、怪我をしたりといったことがなかったので、母親は、ひどく動揺したようだ。 母の後ろには、3歳下の妹が心細げに立っていた。
翌日になると、陸上部の仲間や、クラスの友達が見舞いにやってきてくれた。 母親と妹は、昨夜は、病室に泊まり込んだらしいが、 今朝早く一旦家に帰ったらしい。
午後になると、訪れる人もなく、私は所在なく、ぼんやりと文庫本をめくっていた。
病室のドアが静かに開くと、君は、猫のようにそろそろと入ってきた。
私が、あっけにとられていると、君は、ちょっと息をのむような顔をして、話しだす。
「あの、怪我の具合は、どうですか?私びっくりしちゃって.. だってすごい音がして....救急車が来て、大騒ぎになって......」
「うん、今は、それほど痛みもないけど..でもどうして君が?来てくれたの?」
「どうしてって...なんでかな?だってあの日、あなたの試合を見にいったのよ」
「僕の試合を?僕のこと知ってたの?」
「東中の、柴田君。陸上部の幅跳びの選手、趣味は、ギター、読書、えーとそれと.....」
「でも、ビックリしたな。君がきてくれるなんて、僕は、てっきり、 君の学校の選手を応援に来ていたのかと思っていたんだ。 でもスタンドの君と目が合って、すごくドキドキして.....」
「私、あなたの事は、ずっと前から知っていたのよ。もうやめちゃったけど、 テニス部だったのね、それで交流試合で西中に行ったことがあるの、 それに友達もいたしね、そのときグラウンドの隅っこで走っていたあなたを見かけたの、不機嫌な顔で、いやでいやでしかたがないって、態度で走ってたの、 それがなんだか、おかしくて、友達にあの人誰?って聞いたの、それで 情報を仕入れたの、でもテニス部やめちゃったから、 西中に行く機会が無くなっちゃって....でも修学旅行が同じ日だって聞いて、 すごく嬉しかった。新幹線の中ですれ違ったの、 もうドキドキしちゃった。柴田君覚えてないでしょ?」
それから毎日彼女は、見舞いに来てくれた。そして色々なことを話した。 将来の夢、好きな音楽のこと、おもしろい友達の話し....
そして、客の少ないコンサート会場の薄暗い席で、震える唇に触れた夜....
出会いから10数年、二人は、共に27歳の大人になっていた。 私は、住宅メーカーの営業社員、彼女は、デパートの渉外担当として、毎日いそがしく 暮らしていた。 月に1〜2度会えばいい方で、最近では、夜電話で少し話すくらいの距離になっていた。
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