悪人入門 松野胡桃
「西川さん、どうぞ」 受付の女に声を掛けられた俺は立ち上がって、診察室へ入った。 「お久しぶりですね」と、中の医師はいやみな挨拶をする。 「しばらく来てませんからね」俺は丸い椅子に座ると、神妙にした。どうせビタミン注射に決まっているのに、いちいち問診をするのは時間の無駄だと思った。 医師は通り一遍の問診の後、「血液検査しときましょうか」と言う。 「また来ますから、そのときという事で」 「しかし、二ヶ月も来られてませんからね。相当、疲れやすいでしょう。危険かどうか……安心のためにも」 「ほんとに、今日は結構です」 結局、ビタミン注射にビタミン剤の処方。 実は、俺は次回来院する気すらなかった。もう、有り金も少ない。保険証がなければとてつもない検査費になる。疲れやすい体をバスで運んで街の神社なんかで似顔絵を描いて生計を立てていたが、そういうこともかなり困難になった。だからと言って悪くなってしまった肝臓を本気で治療する金もない。この体ではアルバイトも体力がなくて出来ない。もちろん、頭脳労働だって肝臓を患っては難しいものだと今更、わかった。 三九歳で結婚もしていなかった。女とか子供とかの責任につぶされないで生きてこれたのだ。今となっては後悔でなくて幸運だと思うべきだった。 薬局に向かい、一週間分となっている薬を三日分買った。もう食費がないのだ。 せっかく有名な神社の近くの病院を選んだのだから、なにもしないで帰るわけにはゆかない。陰でハサミで髭を切ると、いかにも怪しい芸術家の風貌になる。小型の椅子を出して、鞄に近所の娘の似顔絵を立てかけて見本とする。これを無断で三年も使っている。それから、脇にベニヤ板をたてかける。『写真を見ながら描きます。参拝が終わったら出来上がってます』と書いてある。武器は鉛筆数本とそれを削るナイフと古い型式の高級なデジタルカメラだった。 年々、似顔絵を描いて欲しいと言われることは減った。五百円まで値は下がった。腕はいいはずだが、技術と芸術と金儲けは違う才能だと納得している。 「かわいいね」と、大学生風の男が絵を見ている。「娘さんとか?」 「あ、いや、親父にしちゃ若いだろ」と、俺は十分にくたびれているのだろうなと思いながら言った。 「知ってる子?」 しつこいやつだと思いながら「近所の子だ」と言う。 「ブサイクな人は綺麗に描くの?」 「その子は実際に可愛いんだ」と、言って、質問の意味を勘違いしたことに気付いた。「あ、いや、当然だ。お客様だからな」 彼はしばらく見とれて結局、去っていった。そうだ、見とれる人はいる。モデルがいいし、画家がいいから当然だ。それは、近所の高校1年当時のタバコ屋の娘だ。そうだとも、お客をメイクアップして描く礼儀もわきまえている。化粧の上から真実を見ぬいて満点の写実が出来たところで、似てないと泣かれて、連れの柄の悪い男に殴られてからの教訓だ。俺はバカだ。さっきの少年のほうがよっぽど早く大人になってる。 その少女、真由ちゃんに見とれて足を止める人が十人ほどを数えると、一人くらいは客になってくれるものだが、結局、収入0で畳むことになった。 全財産、七千円。もうほんとうに最後だと思った。お金がなくなればその日からバスにも乗れなければ、何一つ買って食えないのだ。持ち金0になることの恐怖は俺を盲目にした。畑に入って野菜を盗むなどするのが人を襲うよりマシだ。だが、そういうことをするにも何より基本的な体力が必要だ。乞食をするには五体満足で若すぎる。借家の家賃も数ヶ月払っていない。払わずして食費に変わっていった。病院代…それから、車のガソリン代、他にも買うものが決まっていた。もはやそれを買いに行くしか道はない。 十五年前に割と高級な車を親に買ってもらったのだが、それを売って安物の中古を買っていた。ガソリン代がなく、乗ることもなくなっていた。街では駐車場代がかかるし、数キロの範囲は自転車で移動する。これが体力を奪う。似顔絵の場所へはバスだ。 そう、十六、七年前は金持ちの家に育った、絵ばかり描いていた社会人浪人のバカ息子だった。まさか雑草のような生活が待っているとは思いも因らなかった。金のあるうちは女も寄ってきた。父親の事業失敗、借金苦からの逃避、一家離散。母の病死と、急転直下で今の生活になった。フリーターでも人は何とか生きられるものだと思ったが、体を患い、体力と同時に気力もなくなった今を想定できなかった。 怪しい雑貨屋にはガラクタとか中古のおもちゃの銃とか売っていたが、そこには甲賀のマキビシなるものが売っていた。 「八百円は高いな」 「兄ちゃん、偽もんじゃないんだよ」 「偽物でもいいんだ。安いのが欲しい。十個買うから、五千円にしてくれよ」 俺が五枚の千円札を出すと、店の親父は渋々首を縦に振った。 一度、街で置き引きをしでかしたことがある。あのスリルと緊張感と疲労は大変なものだ。内職でもして稼いだほうが良いと思った。手提げを抱えて車に乗り、何キロも走ってくたびれ果てた。俺が手提げから得たものは古本とどこかの店のエプロンとペットボトルのミルクティー、定期入れだった。悩んだ挙句、私鉄の駅に「拾った」と、定期券とエプロンを届けた。 悪いことをして金儲けしてる連中みたいになれないと自覚したが、もう背に腹は変えられない状況になっていた。明日の晩、今度こそ悪事を働くのだ。 村と街を結ぶ道は夜になると全く車が通らない。それでもその道で仕掛けるしかないと思っていた。マキビシを仕掛けて車を止めて若い頃に手に入れていたインテリア用の短剣をかざして金品を奪うのだ。昼間は自転車やバイクが通って、どんなにうまく行っても儲けは難しい。夜には車が期待できる。じっくり待てば深夜から朝にかけて一台くらいは通るだろう。 村に入るとバス停のそばにタバコ屋がある。と言っても、缶詰もノートも売っている。時々看板娘が居ることがある。お澄ましの美人でもない大人しい少女だと思っていたが、高校を卒業しても村から出ずに店に居るからこそ好感が持てた。 「看板娘から買うと絵が売れなくても癒されるよ」と言ったことがある。それに答えるように。タバコを買うときに彼女が居たら「いらっしゃいませ」くらいは言ってくれるようになった。 「売れましたか?」と、彼女はその日、声を掛けた。 「まあまあかな。例のソーセージ、二本」 「まだ悪いんですか」 「成人病は治らないのさ」と、魚肉ソーセージを二本受け取る。 「タバコ買わなくなったのに……お大事に」 確かに街の看護師に言われるより癒される思いがした。すぐに癒される値打ちのない最低の人間になるのだと思うと、もはやあわせる顔がないのだと寂しさを感じた。 タバコを買わないのはお金がないからだ。そしてソーセージは晩餐だ。 部屋には彼女の似顔絵を立てかけるスペースが決まっていた。癒されるためではある。オリジナルではなく、実在の人物だから現実との繋がりが実感できる。美人画より、タレントより、タバコ屋の子がいいのだ。でも、すでに絵の彼女は本物より三年も若くなった。悪人になるにはこの絵を見てはいけない。俺は絵を外すと、透明なビニールシートに挟んで鞄に入れた。 犯罪決行日、眠れないのを我慢して夕方まで部屋で眠ったり覚めたりしていた。重要な夜勤日なのだ。一本道の曲がり角、いくつもある曲がり角の一つに森に入る道との分岐点がある。そこに車を入れて待つことが出来る。そう、ひたすら乗用車が通るのを待つのだ。マキビシはタイヤをパンクさせ、車は止まるしかない。運転手は暗い外に出てタイヤを確かめるだろう。そのとき、飛び出して持ち金を奪う。車に戻れと指示して自分の車へ走って乗り込んで逃げる。森への道は険しいが、山の麓へ出られる。その筋書きは小学生レベルなのか完璧なのか誰も評価してくれない。ただ、はっきりと心で障害になっていることがある。母の言葉だ。 「人に迷惑をかけて生きるくらいなら死ね」 母は俺が二十五歳のとき病気で死んだのだが、すでに母子家庭になっていたそのときのことを考えると、今更、思うところがある。薬を飲まなかったり、注射器を持っていたり…誰も教えてくれないが、母は自ら死んだのではないか…本当に、今更、そんなことを考える。 暗くなった。タバコ屋が閉まる頃だ。 「いらっしゃい」と、俺より少し年上の姉さんが店番をしていた。 「あの子に渡しといてください」と、俺はビニールシートを渡した。 「あらあら、これ、うちの子、こんなに可愛かったかしら」と、言うと、「真由」と、奥に声を掛ける。 「いえ、渡しといてください。ここに2008/10/12ってあるでしょう、三年も若くなったけど」 「そういえば、すこし子供っぽい」 「今は女っぽくて描ききれません」 俺は車に戻ると、黒いシャツを着て、マキビシが積んであるのをしつこく確認して街へ続く一本道を進んだ。 長い時間だ。夜が更けるのを何もせずに待つことがこれほど辛いのかと思うほど一分一分が長い。 雑草の如く生きるという言葉がある。雑草になるには体力が必要だ。生活のためには健康第一なんて当たり前のことを如何に軽んじていたか、反省は手遅れだった。子供時代を雑草として育った人こそ生活力があるってものなんだろう。 深夜一時、予定の道に逸れて車を駐めると、車が全く通らなくなる村への一本道に予定通り、マキビシを並べる。七センチ間隔で十個、七十センチのマキビシ帯を乗用車が除けて通ることは考えられない。心配はそっちではなく、夜明けまで一台も通らないことだ。一大決心で食費をマキビシに使ったからにはこれで結果的に食べられなければならない。夜が明けると、顔も見られるし、村に帰りにくくなる。つまり、中止せざるおえない。 しかし、緊張感を持続し続けることはとてつもなくつらかった。十五分、休憩。と、マキビシを拾い集めては肩の力を抜いて、深呼吸して、また並べるということをもう二度も繰り返した。 短刀は薄い月明かりに見事に銀に光り、車のルームライトから漏れる光でも十分に相手を怯ませるだろう。 心配とは逆に、まだ二時になったばかりだというのに車が来る音がした。スピードも乗ってそうだ。俺は車から出て、木の陰まで近付いた。 車はカーヴを曲がってきたかと思うと、大きなパンク音と共に急ブレーキをかけた。それはセダン型の車だった。ルームライトが点くと、三人の頭が見えた。『三人』と、若干の想定外にどうしようか戸惑った。筋書き通り、運転席から男が降りてきた。この時点で、ゆっくり近付いてタイヤを覗き込んでいるときには側に居なくてはならない。が、他の人が気になって体は予定通りに動かない。 「畜生!」と、男はタイヤを見てバンパーを叩く。 中は何やってるんだ……。ゆっくり近付くと、俺は苦しそうにドアに背を付けた女と、ピッタリと付き添う年配の女を見た。 「あ」と、男は俺に気付くと、驚きで瞬間、静止してしまう。 「ど、どうしました」と、俺は後ろ手の短刀を草むらに落とす。覗き込むと、年配の女は苦しそうな女の又間にあった手を引いてこちらを向く。手には真っ赤な血が付いている。俺は目を丸くするしかなかった。 「産まれるんだ!」と、男が呻く。 「うまれる?」俺はマキビシが側にないことを忙しく見回すと、自分の車に戻り、動かなくなった車の横まで付ける。 「これを使ってください」 「あの…すみません。手を貸してください」 俺と男は妊婦を隣の車に移す。 「ありがとう、電話番号を下さい」 「いえ、電話は持ってません。えーっと、そちらのを教えてください」 「ええ、僕の携帯番号は」と、男は忙しくポケットを探り、何かのレシートの裏にボールペンで書きなぐった。 「早く行って下さい。車は通りかかった人と脇に寄せときます」 車は速やかに先に進んで行った。救急車が迎えに来るように電話済とのことだった。十分程行けば麓だ、その頃には救急車に乗られるのだろう。 俺は暗くなったその場にしばらく呆然と立っていたが、ゆっくりとマキビシを見つけて拾っては元の袋に入れた。何処に放り投げても誰かが踏んだら大怪我になる。 三時半になってようやく、麓側から車が来た。俺は道の真ん中で両手を広げて制した。新聞配送の車だった。運転していた男と二人で放置されていた車を押して道を空けた。その人の厚意で俺は村の入り口まで乗せてもらった。 夜明け前、タバコ屋のシャッターはもちろん閉まったままだった。電話ボックスが側にあるのに、なかなか掛けられずに居た。怖かったのだ。金品を盗むという生活に困ってやる、よくある犯罪とは全然ちがう。産まれてくるはずの命を殺してしまったかもしれない。絶望的悪人になってしまった可能性が怖かった。子供の頃、近所で起こった子供殺し事件を思い出した。空き巣に入ったつもりが子供が居て顔を見られたから殺したというものだ。いくらかのお金のために馬鹿なやつだと思った。不自由なく育っていた子として、犯人の苦悩と後悔までは思いが回ってなかった。 無性にタバコが吸いたかった。落ち着くことが出来ないのだ。腹部の鈍い痛みに耐えながらイライラし続けた。 「母さん」と、つぶやいていた。「俺、生きる資格が…」 俺は思った。どんなにか驚かしてしまっただろう。突然のパンクの音、止まってしまった車への絶望感…。妊婦の心は臥せってしまっただろう。急ブレーキの揺れはもうだめだと思わせたに違いない。胎児にだってその気持ちは伝わっただろう。マキビシは殺人のための武器になってしまったのか。 もう夜が明ける。そわそわしていても仕方ない。現実を受け止めるときは過ぎている。 電話ボックスに入った。ポケットから取り出したレシートに殴り書きされた番号をなぞった。 『山口です』 「あの…西川…」 『車を貸してくださった方ですよね』 「あ、ええ」 『ありがとうございます。元気な男の子が生まれました。あそこに居てくださってよかった。本当に、何とお礼を言えば良いのか』 「あ、いえ」と言うと、こみ上げてくるものがあった。「ありがとう」と、俺も言った。「産まれてくれて」と、声にならなかった。電話ボックスを出ると、涙がとめどなく出てきた。ありがとうと、何度かつぶやいていた。誰にだろう、男の子の生命力、若い母親のがんばり、自分の母へか。何かに感謝したくて仕方がない。悪人にならずに済んだ……。久々に清清しい気持ちで痛む内臓も気にせず、森に入り、山に登った。ずっと涙は止まらなかった。気持ちの清清しさも納まらなかった。崖の上まで出てくると、もう絶対に悪人にならないと誓えた。 −−その日、村に男の子が誕生した。 −−そして、一人の男が、世を去った。
『悪人入門』
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