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作品名:『トゥルー・キス』完全版 作者:胡桃

最終回   1

     『True Kiss』       松野胡桃


 ゴトッ!だったか、バサッ!だったか、音がしたと思った。目覚めたのはきっとそのせいだ。直後にソファから床に転げ落ちたからではない。私は本格的に眠りこけていたのだ。29度の風が汗を拭き、ぬるま湯につかっていたように心地よかった。
 起き上がって伸びをすると、ワンピースがはだけていて、思わず、あたりを見回した。そういう仕草をしただけでも、暑い。眠る分にはいいが、体を動かすどころか、勉強するだけでも汗を感じる。
 夏休みはすでに後半に入っているが、これと言って予定が無い。特にお盆は部活も休み。いい子でお利口さんで通っている私は、コーラス部で大声を出してストレスを発散している。この機会に宿題を完璧に終わらせると、後半の部活はリラックスできる。この数日はストレスを殺して宿題だけに専念するべき苦悩の期間だ。
 小テーブルには開かれた問題集と、麦茶の入ってないグラスがあった。参考書は……それはずり落ちて床に伏せていた。テーブルに足を乗せてあげくに蹴り落とした?我ながら絵になる寝姿ではないと思った。ともかく、寝相の悪さはセクシーさでカバーできれば問題ないか。問題なのは行き詰って気力が萎えて、襲い掛かる睡魔に身を任せてしまう弱さだ。すでにそのとき、自分の強さに関しては脆さを、もやもやと自覚していたのだ。睡魔が悪魔なら渡ってはいけない川向うまで連れて行かれそうなくらい無防備で抵抗力が無い。お盆の間に問題集をやりきるというのは時間と自分の強さと課題量を定義域において計算すれば『無理』が容易に導き出される。『なぜ?できないと思うの?』
 そのときの睡魔は醒めた後が悪魔だった。
「千小枝、まだやってるの?」と、母が応接を覗きに来た。
 私は身づくろいと参考書拾い上げなどを一秒で行い、宿題を続けている風にした。
「買い物行ってくるからね。今晩で尚紀君帰るわよ、一品くらい作ってよ」
「い、いいけど、キノコのホイル焼きでもいい?」
「お手軽ね、結構ですよそれで」
 母は父の妹、由美子姉さんと晩御飯の買出しに行くのだ。
 お盆か正月のどちらかに由美子姉さんは帰省してくる。最近は旦那様抜きのことが多い。今年も好きな釣りを仲間と楽しむため、旦那様は来なかった。代わりにここ二年ほど来てない息子の尚紀(なおき)君が来た。同じ歳の中学3年。彼は妹、友紀(ゆき)ちゃんと共に来た。これからお父さんの運転で皆んなで買い物に出かけるのだろう。一泊したことだし、夕食が済むと由美子姉さんたちは夜道を八王子まで帰るのだ。
 そして、夕食が始まる直前におにいちゃんは遊びから帰ってくるのだろう。まったく、小学生のときから変わらない。中3になってみると、お兄ちゃんくらいの歳の子がかわいく見えることがある。ましてや尚紀なんて子供だ。
 私はあくびを噛み殺しながら問題集に目を落とした。
「あー、全然進んでないし。もぅ……キスしたい……」
 ん?あれ?私はハッと正面を向くと、自分が口走ったことを反芻した。
「何言ってんの、千小枝、冗談にしても……」しかし、自分で解っている。これは自覚してのことで夢うつつではない。「お腹すいた」のように自然に発したことだ。「ばか、暑さでどうかしたの?」
 問題集に目を落とす。真剣さ、集中力は人並み以上にあるはず…と、自負していた。問題を読んではいるが、意識がそこに向いていない。だから、再度読む必要がある。それでも、答案を考えるにあたって、私のしたことはシャープペンを持つ手を顔に近付けると、人差し指の甲で下唇を撫でることだった。
 はぁーっ、と溜息、「バカ」と、つぶやく。が、頭は答案を模索しようとはしていなかった。シャープペンを転がして、両手を頭の後ろで組んだ。
「したい……」
 そう、正直な気持ちをつぶやくと、そうなる。なんで今更……。今更って変よね。今だから?って、こういうことになるの?誰でも成長の過程でそういうことになるの?聞いたことない。
 テーブルのグラスを手に取ると、ゆっくり口をつけてみた。腰の辺りにほのかに感じる不快感……。ちがう、こんなんじゃない。と、目を閉じて、口を少し開けてグラスに接吻。ちがう、これはグラスで、グラスにキスしていることがはっきりと解る。こんなんじゃない、何かわからない、もっとほんわかとして、気がついたらキスだったというような、もっと柔らかいもの。
 グラスにキスしている自分が絵的に奇妙で、急いでテーブルに戻す。
「バカ」
 さっさとそこいらを片付けて自分のデスクに戻ると、薄いボレロを羽織って二階に上がる。
 誰も居ない。一人だけだ。コーラス部の練習を今からでもしたいと思った。学校に居れば、しかも部活中ならどんな邪念も入らない集中力が発揮できる。後輩の礼儀指導でさえ冷血の血小枝と恐れられている。こら、チが違う。集中力はストレスの裏返しだ。邪念が心を支配しようとすればするほど打ち込めるというものだ。これは好きだからだ。宿題に打ち込むことはストレス増大以外の何物でもない。
 私は歌い始めた。「♪ぼくは君がみあげている君の空をみてみたい。君のまなざしの海にぼくの目を晴天の難破船のように−−」
 しかし、邪魔が入った。
「咲枝さんいる?」と、玄関からの声だ。あの声は近所に住んでいる母の幼馴染。最近、二人目を出産した。
 思ったとおり、赤ん坊を抱いている。いつも背負っているのを目にするが、今日は抱いている。
「背負うと暑くて。日傘だけでは赤ちゃんも暑いしね。咲枝さん居ないの。そこのバス停まで人を迎えに出るんだけど、ちょっと見ててもらおうと思って。−−千小枝さんには難しいかしら」
「あ、ちょっとだけなら。泣き出しても首絞めたりしませんから」お利口さんで通っている私だから言えるジョークと自負。
「逆に、帰りたくないって言わせないでよ。お願い、バスはあと4分で着くから」と、彼女は私に抱かせてサッと出て行く。
『な、泣かないでね』笑ってくれると安心だが、済ました顔で私と周辺を見回している。『歌ってたかった……あ、歌ってあげようか、って、君、練習中の恋歌、わからないわね』「♪どんぐりころころどんぶりこ」彼は凝視している。しかも真剣だ。『厳しい審査員だこと』「♪お池にはまってサァ大変、どじょうが出てきて助けだす。坊ちゃん無事でよかったね−−笑え」私は目を閉じて顔を寄せるとぱっと大きく開いて見せる。彼は凝視。『その、何やってんだこいつ顔、可愛くない。ここでニッコリするのが赤ん坊としてのタシナミでしょうに』私は同じことをして見せたつもりが、目の前には彼の目ではなく、口があった。
『あ、唇』と、思った。紛らそうとしていた見えない呪縛がよみがえる。「こやつ、わたくしのキスでご機嫌直らなかったら首絞める」
 私は純に『キスしたい』と思った。目の前にはグラスよりはるかにソフトな唇があって、しかも無防備。ここでその味をむさぼっても、誰も文句は言えまい。
 そうだ、人間を相手にキスをする絶好のチャンスだ。この機会をすぐに与えてもらった私は神に感謝。
「するよ」と、手軽に味見するつもりだった。が、彼は凝視している。私はしっかりと見つめる。彼に緊張感が走ったようだ。私も緊張する。「観念して。逃げられないんだからね。いただくよ」
 私は顔をゆっくり近づけて唇が10センチまで接近した。そこで泣くぞと脅しをかけるように睨み付ける彼に気圧される。「こやつ、生後8ヵ月の分際で私を緊張させるとは……」
 にらみ合っていると、声が掛かった。
「なにガンつけてんだ」
 突然の声にビクッとする。見ると、早々に兄が遊びから帰って来た。
「いい子いい子ってあやしてるでしょ」
「乳児虐待に見えた」と、兄は開け放たれていた戸を閉めると、さっさと靴を脱いで洗面所へ行った。
 とんだ邪魔が入った。緊張すること自体、私の心にやましいものがあるのだ。きみが可愛いから、つい、と、自然にサラッとすればいいのだ。4分後にバスという情報は、いつでも食べられる獲物をじっくり眺めて味わうような、気持ちを盛り上げるような時間を知らず知らず持ってしまった。兄が顔の汗を流すまでにと思えば、もう、しなきゃいけない。
「んーーん、可愛いよ君」と、私は目を見ないようにして唇目掛けて顔を寄せた。そして、触れた。『あ、ソフト』と、悪くない味にプチうっとり。一度してしまえば、垣根はすこぶる低くなる。本当に可愛いと思ってつい、キスしてしまうことが嘘でなくなった。まだ水音が聞こえている。再度、チュッ。吸い込み気味に……。次は開き気味に、チューッ。そして唇をつけたまま彼のを撫でるようにした。「アッ」と、声が出るほど感じるものがあった。これは発見。未経験者にはわからない味だ。つ、次はもっと小刻みに左右に顔を揺らすとどうだろう。と、あせる気持ちで顔を寄せると、バッと、扉が開いた。ハッと、顔を上げる。
「ごめんなさい、泣かなかった?」
「ええ、とっても大人しい、いい子」
 私は惜しみながらも彼を母親に返さなければならなかった。
 でも、私は何か満ち足りていなかった。その不足分、その違和感が少しずつ増幅されることも感じた。『ちがう。こんなんじゃない……もっと、しっとりと、もっとゆっくりと、だのにもっとさりげなく……』
 1歳未満にしてファーストキッスを奪った憎いやつは結局、笑わずしてクールに去っていった。まぁ、奪ったのは私だという説は聞くまい。あやうく、熱病のようになるところを救われたのならOKだったが、事の前と感覚があまり変わらない。納まりはつかなかった。

 みかんを千両で買う落語があったっけ。七月のさなか、ありもしないみかんのことを想って、恋しさに寝込んでしまう。発狂する寸前、千両で一つのみかんを買ってきてもらって、半分食べたら気が納まる。
 キスなんて買えないじゃん。季節物でもないし、保存しとけるものでもない。千両で『キスさせて』なんて言える身分でもない。
 私は本来、しなければならない宿題の消化が出来ていないにもかかわらず、別の義務を模索した。メールの返信でもいいと、携帯電話を確認したが、着信も受信もなかった。
 中学生が携帯電話を持っているのは珍しくない。問題は使用料を誰がいくらくらい払うのかと、使い方をきちんと指導されたとおりに出来ているかだ。そこに引っかかって由美子さんはお母さんに心配をぶつけた。尚紀が『僕もほしい』と、私に並びたがったからだ。お母さんは一言で一蹴した。
「千小枝は私の注意したことをきちんと守る子だから、心配してない」
 由美子さんは俄然、競争心を駆り立てられ、「言いつけを守るのね?」と、尚紀に怒鳴るように言った。こんなことがきっかけで彼は携帯電話を買ってもらうことになった。
 私は手持ち無沙汰になると脳が勝手にあらぬ欲求を掻き立てるので、夕食の手伝いが待ち遠しかった。
 私は夕食の一品、ホイル焼きを七人分作った。キノコとホタテと塩コショウとバターで焼いて待つだけだが、火加減も味付けも初心者にはわからないと豪語して、その分、失敗を恐れていた。
「ビール冷やしとくね」と、由美子姉さんは勝手知ったる物置から持ち出して来る。
「いいのよ、お客様はゆっくりしてて。−−友紀ちゃん、お風呂入って帰らない?」と、母はしゃぶしゃぶに添える野菜を洗っている。「由美子さんは呑んじゃだめよ」
「わかってますよぉ、お二人のために冷やします」何となくキッチンに三人も居ると邪魔だと感じたのか、居間に退く姉さん。「いいわね、千小枝さんが使えて。うちの友紀は小学生だから、まだ危なっかしくて」
「何にもしないのよ、千小枝は外面がいいから」
「いやいや」と、私。「いろいろ手伝ってますから。未来のだんな様のための修行。と言うか、私の味に縛られたら逃げ出せないんだから」と、時々出る名調子で言った。『私の味から離れたら、恋しくて寝込むんだから。千両の値打ちがあるんだから』と、自分に追伸。
「私の味ってちょっと変よ」お母さんのいつものこだわり気味突っ込み。
「ワタシノじゃなくて、私のリョウリノでしょ」
 そのつまんない突っ込みにフッと顔が赤らむような恥ずかしさを覚えた。 しからば、わたくしの味とは何?私の味、あやつ、そう、あの1歳未満のナイスガイが私のキスの味を知ってる。どんなだった?と聞きたいところだ。無口な彼は「ばぶぅ」も言わないのか。
「私、お風呂はいいです。いい匂い、おいしそう」と、言ったのは友紀。明らかにホイル焼きから漏れ漂うそれに反応して、好感の持てる美少女は私の顔を見た。
 機嫌よくなった私は「宿題持って来てたら手伝うよ」と、言ってあげた。
「ほんと?お兄ちゃんあてにならないから」
「食べたら、不味いなんてて言わないでね」
「大丈夫、思っても言わないです」
「あは」『微妙……』
「俺がさっき看てやるって言ったら、いいって断ったんだろ」と、居間から覗く尚紀。
「充てにならないからじゃないの?」と、私は優等生面。実は自分の宿題の行方が非常に心配。
「だって、気持ち悪いもん、ずっと宿題看るなんて言った事ないのに」と、友紀。「私、帰ってからお風呂入るから、おにいちゃんお風呂はいって帰って」
「なんで」
「少しでも長く宿題手伝ってもらうの、おねえちゃまに」と、私に向くと小声になって「お兄ちゃんから聞いた。一緒にお風呂入った事あるの?」と言う。
「あるわけないでしょ」と、私は心当たりがある。
「ある」と、尚紀。「あれは風呂じゃなくて空気入れるプール」
『こら、ここは思っても言わないとこ』
「おねえちゃんこんな小さくて素っ裸で可愛かったって」
『んもう、バカ尚紀』「憶えてない」と、私はやっと言って尚紀を見ると、尚紀も恥ずかしげに壁際でもたれる。『墓穴掘るの見えてなかったのか、男子は読みが浅い』
「友紀ちゃんは尚紀と入ったでしょ」
「え……憶えてない」
『さすがだ』
「でも、可愛いって言わなかった……」
『って、素っ裸でってこと?ちらっとライバル見るような目は嫌だ』
「千小枝姉ちゃんもおにいさまと入ったでしょ」
『反撃も忘れない、お利口さんだぁ』「そうねぇ、私、可愛かったみたいだから、一緒に入いろって言われてたかな」『どや』
「言われるわけないじゃないの」と、母。「つきまとって意地悪ばかりして、そりゃぁもう嫌われてたのに」
『そう、実の母が落としてしまう。事実の暴露は強い』
 兄が二階から降りてくると、「風呂、お父さんあがったよね。俺、入る」と言うが、母、私、友紀の三人に見られてる。
「何?だめ?」
「お兄さま、一緒には入りませんよ」と、私。
「なんでそうなる」と、着替えを取りに行く。
『ここで、残念だ、くらい返せ』「五分で出ないとしゃぶしゃぶ始まるからね」
 果たしてホイル焼きはまあまあ食べられる状態だった。由美子姉さんも友紀もお父さんもお母さんも「美味しい」と言った。私も言った。なのに、若い男は気も遣えないのか、兄と尚紀は黙ってる。
「どう?ナオキ君、千小枝の手作り」と、母がちょっと微妙に気を遣う。
「うん、と、とってもいいです」
『ほとんど無理やりって感じが微妙だ。だいたい尚紀は何しに来たんだ?兄と話すでもなく、お父さんと話すでもない。私にも話しかけない』
 応接間はめったに使われない。今日のようなお客さんでも使われない。そこには応接セットと本箱しかない。私は夏休みの宿題を看るために友紀とそこに来た。長椅子に並んで座ると、友紀はテーブルに懐かしい薄手の問題集と筆入れを置く。
 友紀は赤ん坊よりずっと野生味あって、まだ幼さの残る懐かしいにおいがした。『キスしたい……』もう、誰彼構わず何を欲してる。まったく、そんな発想なしに宿題を看ようと思ったのに。私は失敗だと思った。そもそも、頭を使うことにストレスを感じて自分の宿題が手に付かないのではなかったか。
 でも、心は正直な方向に向かっている。
「ねぇ、尚紀にキスされたことあるの?もちろん、小さい頃よ」と、私は矛先を向ける。
「そんなことしない。何でもないようにする人とか居るけど」
 あのナイスガイではだめだ、もっと成長した子の感覚のはずと、思った。なぜなのか……素敵なキスの味を知っているわけでもないのに。
「なら、キスの味は、普通のお子様は知らないわね」
「う、うーん……お姉ちゃん知ってるの?」
『知らないと負けだと思ったのか、面白いなこの子は』「知ってるわよ」
「誰としたの?彼が居るんですか?」
「まぁ、ご想像に……」
「お姉ちゃん、真面目人間だと思ってた」
『この子の中では、お利口さんは恋愛しないのか』
「ああ!千小枝姉ちゃん、小さい頃、お兄ちゃんとしたんだわ。だから、私にもしたかなんて訊いてる」
「だから、想像に任せる…って、お兄ちゃんは、私の?あなたの?」
「あ、えと、どっちでもいい」
「まさか、しないわよ。実際、兄というものは男に見えないでしょ。同様に、妹は女に見えてない。まぁ、だから友達なんかは兄貴にベタベタできるのよ。それは甘え。私にも覚えがあるし、あなたにもね。甘えはお父さんにベタベタする段階の次はお兄さんね。勉強中に抱きついて邪魔して怒らせて、私より勉強が大事なんだと拗ねる。そういう自分が可愛いとか思ったりね」
「うっとおしいわ、兄ちゃんは」と、友紀はバッサリ。「それよりお姉さんが居る男の子、勉強してたら、首絞められたり、乗っかられたりしてうっとおしいって聞いた事ある」
「私はおしとやかだからいいけど、友紀ちゃんは尚紀と歳が逆だったらいじめ倒してそうね」
「や、やさしいお姉さんになってますよ、絶対に」
「とにかく、尚紀となんかしてませんから、安心して。お兄ちゃん取ったりしないから」
「……取ってもいいです。千小枝姉ちゃんが私の姉ちゃんになるんでしょ」
「そのストレートさがお子様。そんな事言う子には教えようと思ったけどやめる」
「え」と、友紀は宿題の問題集を広げる。
 私は友紀を抱き寄せて、「バカ、そっちじゃなくて、あっち」と、言う。
「え?」
 私は友紀を首を寝かせて覗き込む。「スルとき、男の子をスマートにリードして上げるところから、恋の主導権を握るのよ」
「するとき……え?」
 私はあのナイスガイでコツを掴んだ様にサッと実に自然にキスをしていた。一秒後に離れると、顔は元に直り、横並びになる。覗いたままなら友紀が反応に困るだろう。私が余韻を味わうところを見られたくないのだけど。『近い、あやつより近い、いい、いい感じ。これで私の、みかん恋しい治って!』
「も、お姉ちゃん……」
「ごめん、するって言うと意識するでしょ。自然に、最初はあんな感じで軽くでいいのよ」
「わからない、分からないけど、教えてもらわなくても、いつか、か、彼に教えてもらったらいい」
「ふうん、彼がいっぱい経験してるほうがいいのかな?あ、私にされるの、いやだったんだ、大切なことなのに、誰も教えてくれないと思ってせっかく……」
「い、いやとかじゃなくて」
「そう!」と、私は自分でも分からないほど素直に欲求を満たした。次は一秒半、友紀の頭を強く抱いて。『まだまだしたい、したい、したい……』
「わたし、知らなくてもいいし」と、怯えモードだ。
「こういう勉強が明るい中高生生活には必要よ」『うそだろ』「それとも、ブラコンのあなたはお兄ちゃんにしてもらう?」
「嫌」
 私は理性を発揮して、にわか変態化の素性を隠さなければと思った。
「わかった。ごめんね、貴女が知りたいときでいい」と、私は立って向かいに回って掛ける。「ここなら安心でしょ」と、私はむしろ私に言った。
 しかし、散々だ。私は六年生の理科の答案を百科事典から導出したりで、なかなか素に答えられない。算数は文章題を方程式なしで解くのに戸惑った。
 やがて「帰るわよ」の由美子姉さんの声に、二人して進まなかったことを残念に思っただろう。
「女のタシナミ、伝授できなかったかな……内緒よ」と、小声で言うと、「言えません」と、俯いた。私はどれほど奇妙な行動をしたのか計り知れないまま、ちょっとブルーに見える友紀に『ごめん』と思った。
 ところが、友紀は私の心配を嬉しさに変えて余りある発言をした。
「お母さん、わたしだけ、お姉ちゃんとこに泊まっていい?」
 嬉しくて、寄っていって抱きしめてしまった。
 友紀ちゃんは冷静に「いま、キスしちゃ駄目よ」と言う。
 私は離れると「うん」と、答えていた。すでに私の、にわか性癖を弱点と見抜いて、その上で泊まると言ったような気もした。それは……怖い話だ。一人で客間ではなく……当然、千小枝姉ちゃんと一緒にという運びは自然だ。
 想像するなと自分に言った。でも、想いは一気に膨らむ。
『小さいベッドだし、寄り添うってこと。目の前に友紀の唇があるのよ、まして、教えてなんて言われて、止める力は全然無くなって、私、止まらないかも、止まらないってなに?どうなるの?……あ、友紀ちゃんに弱みを握られるって事?それとも、私は友紀ちゃんの味が一番になって、友紀ちゃんから離れられなくなったり……こらこら、それってロリユリSMじゃん。考えるな千小枝!魔物が考えさせてるだけだ、負けるな』
 そもそも泊まっても宿題の消化は皆無ってことになるのか。中根千小枝のプライドが崩壊する。
『みかんが食べたくて、みかんのようなものを食べても食べても満足しなくて、だからこそ、友紀の甘美な申し出は、私が泣きながら理性を振り絞ってお断りすべきだ。分かってる』
 果たして、由美子さんは正しかった。許可しなかった。一人分の交通費の出費は宿題をズルする事に遣えないと言った。また、一人旅の何らかの危険から娘を守った。図らずも私からも守った。さらに、私も守られたのだ。
 一度想った事は私の中から消えない。目くるめく想いは記憶に残ったままだ。もはや最初に「キスしたい」と口を突いて出てきたときより確実に成長して心に根付いている。拭わなきゃ自分の宿題が手につかないままだ。部活が始まる22日まで待っていられない。それまでに想像もできないほど人格が崩壊していそうだ。
 私はいつものように、宿題に没頭して、歌いたい思いや諸々の煩悩を払拭することができないと分かっていた。だから、後片付けや皿洗いを進んでこなした。お利口さんだからではない、がむしゃら感は、母に「どうしたの?」と言わせてしまった。「尚紀君が居なくて寂しい?」
 母は人を冷やかすのが体に染み付いた性癖だ。いつもは頭を回転させてナイスな返しをするのに、「バカ、ちがうよ!」と、言ってしまった。「あ、ごめん、ちょっとイライラ」
「お父さん程度の観察力なら、図星、って思うわよ」
「お母さんでよかった」
「話してくれないの?お母さんではだめなの?」
 私は微笑んでごまかした。相談……出来ない。と、思っているのに、私は真剣な顔を母に向けていた。
『助けて』と、心で言っていた。
 母は、にらみながら一歩近寄る私から、一歩引き気味に「なに?」と言った。
『ああ、それなら○×△しとけば治る』と、年の功のアドバイスがほしいが、お利口さん娘の変容に心配かけるだけに終わるだろう。「なんて事ないの」
「そ、なら、いい」と、母も見返している。
 私は洗剤の付いた皿を水で流しに掛かった。
『友紀としたからいいじゃない。でも、友紀、何年かして彼氏からファーストキスは?って訊かれたら、親戚のお姉ちゃんなんて言わないよね。その人とは一生顔を合わせたくない」あ、それまでには治ってるから、種明かしして友紀に「謝っておこう」
「誰に?」と、母。
「な、何か言った?」
 洗い物などすぐに終わる。私は手持ち無沙汰で居間に入った。お父さんは野球を見ていて、仕方なく、私も見る。7回で3対2、巨人はとりあえず勝っている。
「タイガースがスワローズを下ろしてくれてるみたいね。一点差はひっくり返る事が多いし」
「お前が見ててくれたら、このままいく」
『もう、私って勝利の女神化?娘デレデレ。−−あ、優しいお父さんなら、って、バカ!危ない危ない、最中をお母さんが見たら……想像したくない。もしかしたらお父さんからして発狂するかも』「ごめん、お風呂入る」
 しかし、そのまま巨人が勝った。
 暑さで脳が溶けるなら、湯船の熱さは病気を進行させる。この自己診断に基づいて、シャワーだけで済ませた。それにしても、理性が溶けて後ろに隠れていたものが出て来たとして、それがただ、『キスしたい』だけなのか?我ながら貧困だと思う。彼氏がほしいとか、男ほしいとか思わないか?まさか、品行方正病か?性別年齢問わず、キス欲鎮めろ!と、叫びたいなんて逆に女としての成長に問題があるのか?しかも、小6の宿題看てやると言って後で、それが苦悩を買って出たのだと分かるほど、私はバカ化している。
 自分の宿題ができないなんて、中根家の長女として、コーラス部の部長として外部に漏れたら恥になる。本当にこのまま勉強が手につかないと、学年20位以内という微妙な成績が、ガラガラと崩れ落ちてゆくだろう。受験勉強を始めないといけない焦燥感もイラつきを増す。
 風呂上りの私は応接間のエアコンをタイマーセットで入れて、隣の私の部屋に扇風機で送る。清里は深夜になればかなり涼しい。パジャマを着ると、恥を忍んで意を決して問題集を手に2階へ行った。外部に恥をさらす事はできない。この秀才の私が兄に宿題を看てもらうなど、一切無かった。いまいましいが、恥は身内からだ。
 兄はアンチエアコンで、窓も戸も開けて扇風機にあたっていた。ベッドに転がってヘッドホン付けてアニメ雑誌を見ているようだ。
『いまいましい……』「お兄ちゃん」
「ん?」と、見ない。
『もう、ヘッドホンくらい取れ』と、私はベッド脇まで行く。「私……」
「な」と、私の表情が普通でないと解ったか。ガサッと起き上がって、ヘッドホンを取る。
「もう……で……だから」と私は、はやる心と恥ずかしさと真剣さが混じって、ベッドに乗りあがっても、きちんと話せなかった。
「な……寄るな」と、兄はそのままベッド脇の壁にへばり付く。
「教えて……じゃ、看てもらわないと……」と、私は混乱し始めた。そこに更なる唇を見てしまったからだ。別の意味での葛藤に苛まれながら、別の恥やプライドが交錯して、何が言いたいのかが多数決され始めた。分かっていた。そういうときは、私の中の魔物が他の思いを制して優位に立ってしまう。その証拠に、私は『あれはどんなだろう』と、もっと接近して見たいと思った。私の身は素直に動かされた。膝立ちで接近すると、前に両手をついて倒れ、目前に兄の顔を見上げた。『これに、これにしたら……したら、もっと近いのかも』と考える別の私が、体を操っている。
「落ち着け」兄は突然入ってきた私に真剣に睨まれているのだから、驚愕しているだろう。冷静な私は封じ込められているし。
「怒ってんのか?何かしたか?とりあえずは謝るから、落ち着け」と、諭すように優しく言う。私は無意味に兄に謝らせてしまった。「おまえ、要するに、許してやるから、宿題しとけってことか。秀才の妹様としては、宿題見てもらうのが恥ずかしくて言えないとか」
 私はハッとする思いだった。高2の兄を最近は子供のように見下していて、むしろ、少年ぽさがかわいいと言う段階に進展しつつあったが、この何も言えてない私の心をこんなにも察してくれるなんて、見直した。『かっこいい』と思った瞬間、魔物の背中を押してしまった。
「お願い」と、口走って、私はその数十センチを高速接近して口付けしてしまった。しかも、一秒半は長い。
『すごい!いい!本当のみかんかも』と、思いつつ、冷静な部分が「ご、ご褒美、前払いだからね!」と言わせた。『わけわかんない』と、思いつつも、居ても立っても居られない私はその場から消えたいと思った。
『も、もう一回、もう一回したらわかる』『黙れ変態』
 内なる葛藤に耐えかねて、私はとりあえず飛び離れた。
『あっちの方も教えてもらえ、ご経験あるかもよ』『兄ちゃんは精神年齢一緒、彼女居ない暦と年齢一緒!学ぶものなし!』
「や、やっといてね!」と、私は急いで自室に戻った。ハアハアと、息を整えながら、鈍い冷房に体の動きを止めた。
『なんて妹。いたずら盛りから変わって無いと思われる。無茶振りな……やっといてね、なんて、そんなつもりじゃなかった』
 私はベッドに転がったままパジャマのボタンを外した。気温関係なしに熱い。お利口さんとしては、前言撤回と謝罪が必要だ。でも、今、また二階に行って謝る気力は起こらない。むしろ、理性が邪魔する。今行ったら、兄が私のことを勘違いするほど濃厚にしてしまう可能性がある。それは怖い。
 友達の友達が潔癖症になった話を思い出した。ある日のこと、公園のベンチで手を置いたところ、そこにあった溶けかけの飴玉に触れてしまった。アッ、汚い、と思った。そのときから、その子は触るものに神経質になり、歩く足元に神経質になり、友達と握手も出来なくなった。病院通いが始まった。
 怖いと思ったが、それを今、思い出すと、震えるほど怖い。それほどのことになるのなら、私は潔癖症の方が救われると思った。潔癖症と言う言葉は理解をもって迎えられる。キスしたい病なんて説明できようもない。『私の場合は何だろう。ワンピース肌蹴て寝てた事が恥ずかしくて、別のことで誤魔化そうとしてるの?いろいろ思い当たる事を書き出してみるしかない。自己診断なんて……続くようなら病院かな……催眠術とかで知らないうちに変な事を口走るのは怖い』
 男性恐怖症や不眠症はほとんどが一時的らしい。そっちの方だと思いたかった。成長期が終わりに向かっている今、ちょっと精神不安定になっているだけだ。
 私は思ったとおり、その夜、熱病のように寝ては醒め、うなされるというより、うなりたい心境だった。前日に一回もしなかったキスを、何回もしたのだ。いい加減、みかん食べたから気が済んだってことになってほしい。
『キス…したい』これは本当は何をしたいのか。私がキスと呼んでいるものが何か知らないのに、『これはいいとか、これは近いとか』
 赤ん坊が指をしゃぶるように、私は左手の甲にキスした状態だと眠れる確率が高いと知った。本当に、今日、ここに友紀ちゃんが居なくてよかった。私は魔物そのものになって、友紀が逃げる気力がなくなっても、押さえつけて味わっていたに違いない。この想いがまた苦悩だ。だから良かったと思うだけならいいが、友紀が居なくてとても残念な想いが、私を苦しめる。体に走るむず痒さは、私の本当のキスで納まるのだろうか。火照ってしまうと、血の巡りが頭を少し冷静にして、そこに新たに欲望の想像が生まれる。何とかしてほしい。苦悩の夜がゆっくり明けて朝になって日が昇って……変化を実感しながら、八時頃から10時前まで記憶が飛んだ。その間だけは睡眠したようだ。
 さすがに起きてしまうと、理性が目覚めるようで、むず痒さもちゃんと抑えられている。ぬかるみのような足取りでキッチンへ向かうと、声が聞こえる。
「俺、心配だけど、女子のカウンセリングは無理だ。千小枝は人を見下す悪い癖がある。ってか、見下されてるの俺だけか。だから、俺には、何があったかは絶対話さないよ」と、兄の声。
「でも、締りがない顔、寝てないの分かる」と、母の声。
「3時間睡眠で頑張らせてもらったけど、さすがに全部ってのはね。4分の1だけで手一杯、もっとやれって言われたら、事情によっちゃ、やってやるけど」
 私は嬉しかった。口を開くと喧嘩になる去年あたりと違って、私が姉のように寛容になることで喧嘩が成立しなくなった兄。でも、私を心配しているなんて、年上らしくてカッコイイと思った。私の無茶に、とりあえず応えて、4分の1でも宿題をしてくれたんだと思うと、感激だ。私はそこに現れると、素直に「ありがとう、兄ちゃん」と言った。
「うわっ」と、椅子を倒さんばかりに立ち上がって、私を見る目は腫れ物に触るようだ。「聞いたか?4分の1。ご褒美の返品は出来ないぞ」
『もう、いじらしいんだから……』
「千小枝、お目覚め遅いと思ったら」と、母。「貴女もすごい顔よ。眠ってないの?」
「なんでもないの。ちょっと変?分かってるから。心配しないで。お兄ちゃんも、びっくりさせて……」と、言いつつ、目はカッコイイ兄の唇を捕らえていた。一途に接近すると、予感が走ったのか、兄は「朝ごはん食べて寝ろ、だから、寄るな」
「い、いいじゃない、妹様からご褒美を……」
「おなかいっぱい」と、ドタドタと2階へ退散してしまった。
 私はまだ魔物が取り付いている事を実感しつつ、落胆した。そのガックリ感は母に伝わった。
「私、あなたの母なんだけど」
 その、あまりに当然な事を言われて、意味がわからなかった。
「え?うん、心配してるお母さんを、無視してるわけじゃないから」
 母は溜息をついた。
 しかし、トースト一枚の朝食が終わると、母は私に再度、ベッドに向かうように命じた。いつも微笑で接してくれる母が、真剣な顔で命じるときは従わなければならない。暗黙のルールに則って私はパジャマを脱がずにそのままベッドに崩れた。言いつけに従わせるという家族の管理能力は見習っておくべきだ。決して困らせる命令はない。『悩んでいる事をはっきり言いなさい』とは言わない。
 しかし、睡眠不足を補う事より、家事や買い物や手伝いをしていた方がずっと楽だと言う事は伝えようが無かった。真綿で首を絞められるような悶絶地獄のはりつけ台に戻ってきたようで、心が沈む。育ちのいいお利口さんの私は、朝寝や昼起きなんて出来ないし、一度目覚めれば、続いて寝るのは不可能だ。母の気遣いは図らずも拷問になった。さらに二時間近く、一人の部屋でキスしたい病に耐えた。『耐えれば回復するの?したいしたい、こんなにしたいのに。してもしても治らないし』
 携帯電話が鳴った。何もしない苦痛から救われるように、慌てて出る。
「おはようございます。い、石川です」それは一年生部員の声だ。
「おはよう、チコちゃん。今日は何?」この子の名は百合菜。入部当時、私の名前をチコエと読んで即、愛称が決まった。
「ちょっと近くまで来ましたから……ごめんなさい、そ、それだけで電話しちゃいました。部活が待ち遠しいです」
「個人レッスンの申し出かと期待したのに」と、落胆したのは一瞬で、すぐに別の私が電話機を奪った。
「来なさい」理性のない方の私が欲望に駆られて発した言葉だ。またできる!もうそのことだけにまっしぐらにワクワクしていた。
「い、行くんですか」
「ここに来て」カモ葱だ。この場合、葱は唇。飛んで火に入る夏の虫。生きて返さない。……って、もう、想いが止まらない。
 彼女は私がパジャマからワンピに変わった途端に訪問した。本当に近くに居たようだ。玄関で私を見るなり、「お疲れの様です。勉強しすぎは良くないですよ」と、バテ顔に反応した。
 部屋のカーテンを開けて、脱ぎ捨てられたパジャマを仕舞った。
「だらしなく寝てたのよ。三年生になってから朝寝とかしてなかったのに」
「私が起こしたんですか?」
「そう。と言うか、眠れてなかったの。病気みたい」と、ベッドに座る。「どうぞ」
「部長の隣……失礼します」と、座る。
 そう、私は伝統あるコーラス部の部長。その伝統を作ったのが、一回だけの関東大会二位まで引っ張った高畑咲枝、私の母だ。
「怖がらずにくっ付きなさい」すでに私の中では部長像を守る気力とキス魔が戦っていた。「お昼になると暑いわね」
「何の病気ですか?」
「ええ……」頭が理性的に回転しないため、言葉が出づらい。「未体験だから、戸惑ってるの。軽症なのか危ないのか」と、私は演技でなく、病人そのものの声。チコを見ないように、床に目を落としていた。
 無言の時が過ぎると、彼女は「やっぱり、寝てたところに、おじゃましたんですね」と、立ち上がった。
 私は咄嗟に膝に手をまわして「だめ」と言っていた。
「部長」
「来なさいって言ったの私よ、邪魔なわけないでしょ。座って」
「すみません……」
 私には毅然とした態度のためにも、キス魔のためにも、ここにチコが必要だと感じた。彼女は本当に心配気に見てくれる。可愛い。可愛いからこそ私は魔物からこの子を守らないといけないのに……。
「何かいつもと全然、違いますよ、大丈夫ですか?」と、手を握ってくれる。三年生を神様扱いする我がクラブの風潮に順応して幾分、萎縮した彼女はそれでも、心配して私の手を握ってくれる。本当に愛しい子だと思った。その感覚とはたぶん、全く関係ないはずの魔力が増大する。友紀のときと同じだと思った。私は手を回して抱き寄せ、慣れてしまったのか、考えも無く手順どおりに、鮮やかに、チコの唇を奪ってしまった。1秒半……『いい……最高かもしれない感触……』と、余韻にうっとり浸ろうとする自分にフォローが先!と鞭打った。
 チコちゃんは目を丸くして固まっていて、ヒクッと震える。
「力を抜いて、さぁ、息をして」
「はい」が返事だけなので、私は背中をトントンと叩いた。
「変な事、レッスンする気じゃないのよ、分けわかんないわもう…」
「だって……される……なんて、びくりした」
「言って、何てことするの!って」
「でも、私は」
「言って」
「な……何てことするんですか……なんて、言えません」
「言ってるし」と、私はチコちゃんを抱きしめた。部長像は崩壊か。こんないい子、無防備で、まだ心配で握った私の手を持ったまま……。ずっと、ここに置きたい。魔物が騒いで私が発作を起こしそうになっても、この鎮静剤を持っていれば安心かも。でも、チコちゃんという鎮静剤が麻薬になる危険もあるのか……。
「ごめんね」と、私は姿勢を直すと、純朴な目が合った。「これが……病気……困ったものね」と言うと、ハッとした。涙が一雫、伝い落ちた。どうしても理性が負ける悔しさと、チコへの謝罪だと思う。でも、自分を可哀想な人にしてとりなそうとしている様な、嘘泣き成分は無いのかと疑った。
「部長」と、チコちゃんは引かないで覗き込んでくれる。恥ずかしくて部長とは呼ばれたくない。でも、決別!の意気込みを込めて私はまたも口付けをしていた。2秒の感触、『これがみかんだと納得するのよ!千小枝』「ありがとう、来てくれて良かった。もうしないから」
「先輩……治ります」
「ん?」
「私のことはいいです。治るまでの手伝いが出来るなら、私……。きっと男子も魅力的な人が居ます。部長につりあうくらいの人がなかなか居ないだけです。嫌なところばかり見えてるだけです。部長には皆が羨む、ステキな人とお付き合いしてほしいです」
 一年生と言えば友紀ちゃんの一つ上だ。この子が神様部長の私を元気付けようとしている。病気の意味を勘違いして……。手伝う……これを聞いても魔物は騒がない。これは私の理性側に働きかける力なのだ。
「みかん……恋しいだけなの」と、私はつぶやいていた。
「……?」
「大丈夫かも。……チコエ、来年の秋には、後輩の面倒看のいい部長になってね。任せたわよ」
「私はまだまだ……。次の部長からチサエを襲名する事にしましょう」
「まさか」『それを言うならサキエだろう』

 チコちゃんパワーで少しは精神安定できた。『キスしたい』もそろそろ辛くて飽きてくる欲求だと感じたつもりだった。昼食を丁寧に断って、チコは帰って行った。極力、あの感触を思い出さないようにして、決別のキスが理想だったという事にして、魔物を無視する事に決めた。
 と言うことで、外の掃除を買って出た。暑さに耐えて箒を払うのは精神的に心地よかった。買い物も、夕食も手伝う事を申し出ていた。宿題が相変わらず手付かずなのが心配だったが。
 その機嫌は三時間ほどもったのだ。夕方に差し掛かると、涼しい清里でも昨晩に続いて、熱病のような、呻きたくなるような夜が訪れるのか……想像しただけでうんざりなのに、うんざりだから治る病気ではなかった。
『嫌、また、あの夜が来るのは……嫌』
 一人ベッド恐怖症に結びつく構図が見える。潔癖症の方が分かりやすくて相談しやすい。
 携帯電話が鳴った。私は例によって忙しく出た。
「友紀でーす」と、明るい声だ。「お兄ちゃんの携帯電話でーす」
「早っ。もう買ったんだ」私は友紀が私をどう思ったか気がかりではあった。
「お兄ちゃん、メール送るって言いながら二時間待っても書き終わってないんですよ。電話借りる約束だったから、先に使ってます。メール見るなって言われたから、見るって言ったら、消したみたい」
「あは、あなたの兄貴するのは大変そうね」
「私ね……ちょっと自信が付いた。あっち、教えてもらって」
「あ……あは、何も教えてないでしょ」
「でも、私、お姉ちゃんの方の気持ちになりたかった。お姉ちゃんの部屋で泊まりたかったなぁ」
「そ、そう言ってもらうと、安心かな」
「わたし、されっぱなしだもん。その……する方の、練習台になってもらうのも、いいかなぁとか、お姉ちゃんしか……相手できないし」
 きっと、『やられっぱなし。チサエって、ちょっと、いまいましいじゃん』と思われている気がする。
「ま、まぁ、ぎこちないのも、乙なものよ。私もお子様の相手はできるけど、女の相手は出来ないし……」『何を言ってんだか。でも、友紀ちゃんが泊まってたら、私が……されてる?』ここからは目くるめく想像に歯止めが利かなくなった。お互いにシタイと思ったキスは奪い合いのような……だめだめ!
「尚紀に電話番号、教えないって言ったの、聞いてたでしょ」
「番号はお母さんから聞いたです」
「由美子姉さんから番号聞いて、尚紀の携帯で掛けてるのよね」
「うん。教えないよ、お兄ちゃんには」
「そう……」ま、いいかと、溜息。まぁ、こっちにも尚紀の必要もない電話番号が分かったのだが。
 せっかくの鎮静剤は部屋に置いてないし、友紀ちゃんの火付けには参ってしまった。もう、夜が怖くてガタガタ震えそうだし、うんざりしてても、したくてたまらないキス……。3日眠れなければ、精神科に行く事!と、決め込んだ。二次災害が怖い。通りすがりの罪もない子供をさらって、欲望を満たす変態になるくらいなら中根家の長女の奇妙な噂の発生を恐れず、私のプライドなんてかなぐり捨てて、病院で正直に『キスしないと死にそうです』と吐き出すべきだ。
 まだ、災害は起きてない。友紀ちゃんも秘密めいた事だと理解しているし、お兄ちゃんもキスそのものは妹様のご褒美と言うジョークを理解しているし、チコちゃんは出来すぎだし。
 夕食の支度を始める頃に、携帯が鳴った。見ると、尚紀からのメールだった。あれ?番号、登録しなかったのか?まぁ、話題もない男と話す暇もないし、メールでよかった。と、キッチンの椅子に座って読む。
−お世話になりました。昨日のキノコ、旨かった。毎日でもいいと思う。
『昨日言えよ、プールだの要らんこと言わんでいい』
−巨人勝って良かったね。
『お父さんがご機嫌になるから勝ってほしいだけ』
−昼間、勉強してたよね。宿題かな。ぼくわ宿題これからひーとあっぷ。
−おま千小枝はきれいになっててびっくるした。
『これは昨日言わなくてよろしい。びっくるする』
−じっとしてたら涼しかったよね、気持ちよくて寝てしまうよね。
−清里はいいとこぢ。来年は行く。
『来年も、だよ』
−行ってもいいか、答えて下さい。絶対に答えて下さい。
『このたどたどしさは何?友紀ちゃんに代筆してもらえ』
−千小枝、寝てたから、気持ちよさそうで、すごくきれいで
−可愛くて見違えたから。
『な……何を……』
−すぐそばで見てもやっぱりすんげー可愛くて、僕だけ汗いっぱい掻いて。
−我慢できなくて、ごめんなさい、ちゅう、した。
『ちゅう??チュウ!』
−すぐに逃げてしまった。男らしくない。知ってたよね。
−千小枝は知ってて黙ってて、僕をけーべつしなくて、
−すごい落ち着いてて、大人だと思った。許してくれたのか心配。
−たぶん、許せないと思うから、最初のこと、来年行ってもいいか
−それだけ、返事ください。ずっと後でもいいから。
−Add あのとき戸で手を打っただろ、今見たら変な色になってる。
 私は知りもしない事実を今、知らされた。虫唾が走る。怒りがこみ上げる。魔物の元凶は尚紀だったのだ。それ、そのときからの事なのだから、間違いなく、元凶だ。情けないやら、いまいましいやら、私はいまだに、尚紀のキスを理想にして、これは違うだの、これは近いだの判断していたのかと思うと馬鹿馬鹿しくて仕方が無い。尚紀とキスすれば、『あ、これだ!』と思うと言うのか!いやだ、尚紀が私にベストのキスを教えたなんて嫌だ。刷り込みのようにファーストキスを理想としていること、いろいろやって差分に悩んでいる私、いじらしいやら可愛いやら。
 忌々しい!返事は一生しないから、待ちくたびれて発狂しろ!尚紀が私の味を求めて不眠症になることを強く望む。
 でも、私は……原因が分かったところで、治るのか……私こそが、尚紀としたいと思ってこれからも苦しむのか?
 私は食卓に突っ伏してシクシク泣き始めた。バカ、悪魔、魔物そのもの、我慢比べなんてしてる場合じゃないのだ。お互い、受験生なのだから。
「千小枝」と、母が後ろから身を寄せた。「何でもないことなさそうね。私じゃだめなの?」
 精神科に一部始終を話すよりまだ、身内の方がいい。チコに感化されて、今、私の相談に乗ろうとしてくれているのは母と言う感覚より、サキエ先輩なのだ。
 私は恥ずかしくてたまらない事をぽつぽつ話した。尚紀には悪いが、メールも見せた。話しているうちに、事情を知っている人がいるだけでも心強いと思いなおしていた。持つべきものは親なのか……。
「立って」と、母は腕を取った。私が立ち上がると、べそ掻きの顔を布巾で拭かれた。「まだ中3よ。子供っぽい事や奇妙な事で悩むのは必要な過程。ドーンと構えて、こんな事もあるさって、受け止めなさい」
「う……うん」と、私は懐かしいような、幼女のような返事をした。
 母は優しく抱いてくれた。頭をぺたぺたと叩かれた。久しぶりだと思ったが、そこからがびっくり。抱いてそのままキスをして来た。それはとっても長い優しい口付けだった。それでも、たぶん、4秒程度のこと。
 もう、私は恥ずかしくって真下を向いてしまった。『すごい、やさしくて、それでも確りしてる。でも、これは尚紀とちがう』と思った。そして、『尚紀なんかより全然いい』と思った。
「私の噛み砕いたアーモンドを口移しで食べるの、千小枝、好きだった」
「エ」
「そう、あなたは、エエッて、やだぁって思うでしょ。でも、思ってるのはあなただけ。私は今だって、して上げられるのよ、あなたが要求しなくなっただけ」
 私はフッと微笑む事ができた。その微笑みは心の余裕が戻ったからだと感じた。私は熱病から醒めて、冷静になってゆくのがわかった。このキスは魔物を封じ、理性の力をみなぎらせる、懺悔のような気がした。
「今でも、アーモンドは好き」『これがサキエ部長の貫禄なの』「お母さん……」と、そこで電話が鳴った。母が出ると、私は夕食のたまねぎの皮をむき始めた。
「あ、ハハッ、今晩は、の時間よ」と、母の声が聞こえる。「−−ハヤシライス、うん、よくやるのよ。−−きのう?−−そう−−あら、それは良かったわ。−−さぁ、何でしょうね、あの子、キス魔だから」!私はたまねぎを床に落とした。ドン、ドン。
『い、いったい、誰と何の話?』
 その電話はあのナイスガイのお母さんからだった。
 あの赤ちゃんはパパが顔を寄せると泣いていたらしい。そんな話は聞いたことがある。それが、泣かなくなったどころか、パパが調子に乗って顔を目の前に持ってくると、向こうからチュッとキスしたという。パパは泣いて喜んだらしい。なぜだってことになって、さかのぼると、どうやら私が何かショック療法でもしたのかという怪しい疑いが掛かった。そこに母がねたをばらしたという事だ。キス魔とは……中根家の長女のプライドなんてお構いなし?
 確かに私の中の魔物は死んでしまった。信じられなくはない。当然の事だと理屈ではなく、体感で納得できる。
『尚紀、あなた、お母さんに負けたわよ。どうしようか……きれいだのかわいいだの言われるの、悪くはないわ。チャンスを上げようかしら。もう一度、お願いしますメールくれたら、返事してあげよう。−−検討中って』
 夕食の準備が整って、父が食べ始めているというのに、兄は返事をしたっきり、降りてこない。引きずって蹴り落とすべく、私は上がって行く。
 どうやら携帯電話で話し込んでいる風だ。例によってアンチエアコンの兄は窓も戸も全開だ。
「…28日な。キスの経験ありますか?ってか、妹がメロメロになったって言ってやる」
『ここでも変な事言われてるの私』
「そうそう、大体、妹持ちが妹ゲーしてたら変態扱いだろ。妹とゲームの妹は重なるところがない。妹うざいけど、ゲームの妹は『イモート』と発音する全く別のものだ。そもそもうざい物と重ねてみるなんてナンセンス」
『ほう、うざいですか』
「これで合コン揃ったよな」
『合コン?あ、前に断るって言ってたから、中根家安泰と思ったのに、何の変化?って、妹メロメロ妄想で自信つけたな?私が腰の引けたお兄ちゃんを襲っただけなのに』
「分かった分かった。清里に別荘を持っているお嬢様方だろ。じゃぁな。はいよ」と、電話を切る。
『私の兄は夢見てるのか?』「お、お兄ちゃん」と、私は昨日と同じ表情で飛び込んだ。
「なーっ!もうしないぞ、宿題ってのは自分でするもんなんだ、頭いいから知ってるだろ」
「ええーっ、お、お兄様……」
「様?」
「ご安心を!間違いだらけの解答されちゃいい迷惑ですわ。ほんとにうざい」
「あれ、妹様に戻ってる」
「ハヤシライスよそってあるんだから、サキエ様が怒る前に下りてきな」
 私のキス魔は大して悪さをしなかった事が救いだ。いい方に転がった面もあるし。
 それから、何とか宿題をこなして22日を迎えた。これから毎日部活だ。予定通り、思いっきり部活に打ち込める状態だ。受験を除けば……。
 チコちゃんと目が合うと、とても心配そうな、恥ずかしそうな顔をした。私のすべき事は、感謝を込めて安心させる事だ。『可愛いんだから。もぅ、妹になりなさい!』私はすれ違いざまにウインクして見せた。彼女はパッと微笑んだ。結局、悪さをしなかったのは、皆いい人ばかりだからだ。兄も友紀もチコも母も……。
 そう言えば、コーラス部に入って、部活を人一倍頑張って、部長になったのは……心のどこかで、母というライバルを追い越したいと思っていたから。
 形だけは中三の母と並んだ。でも、中身は伴ってない。まして、今回の事では遠い存在にすら感じた。『ライバルなんて厚かましいのよ』と、一撃で私の魔物は倒されたのだ。
 私はまだ子供の分際として親や兄に育ててもらわないといけない。私がちゃんと育ってこそ……サキエ先輩から子供の育て方を教わる事ができるのだから。

 でも、ちょっと、サキエって、いまいましい……。


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