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作品名:『クマのページ』 作者:胡桃

最終回   (読み切り)



            クマのページ
                          松野胡桃


 十月のある日、弟は一匹の仔犬を抱えて帰って来た。部屋に鞄を置くや否や物置に駆け込み、紐と林檎箱を持ち出すと裏庭で何やらゴソゴソ始めた。私はもしやと思い覗いて見ると、やはり弟は犬を飼うつもりであった。
「雅巳ちゃん、どこの犬?」と、私が言うと、きまりわるそうに返事もしない。犬の方は彼の辺りをはしゃぎ回っている。「捨て犬ね」
「うん」
「いけんよ!」
「なし?……ご飯も水も遣あよ」
「母さんに怒られるよ」
「怒るかにゃ……」
「当り前い」
「……姉ちゃんはこの犬、可愛ゆうなか?」
 私は動物好きだがとても飼うわけには行かなかった。父は大の犬嫌いだ。勤めている炭坑が潰れるというこの時期だからなおさら神経質になっているだろうし。
「捨てんしゃいね」−−私は弟の動物好きを知っているが、どうせ無理な夢事ならば少々残酷であっても私から注意すべきだった。それは毛のふさふさとした、美しい黒い瞳を持つ小さな犬で、冬の訪れを思えばかわいそうになる。

       *      *

 それから数日して父が帰って来た。失業後の新しい生活の場を見つけて来たと言うわけだ。詳しいことは子供扱いの私にはわからないが引越しは来年になると聞いた。行き先は名古屋か大阪らしい。私にとって高校の問題も重要だ。今と同じくらいのレベルの所へ編入できるのか……。
 日曜日、私はちーちゃんの家に遊びに行った。そこはすぐ近くの一軒屋で、長屋に囲まれている私には、不思議な所だった。ちーちゃんは弟と同じ小学校五年生。私はこの子と遊ぶために行くのではなく、そこにあるピアノが目当てなのだ。学校で習った曲を弾いてみるのはとても楽しい。実際に弾ければもっと楽しいだろうに。ちーちゃんの方がずっと上手なのはしゃくで、できればちーちゃんが居ないときに弾かせてもらいたい。「こんにちは」と、玄関からスカスカ入って行く。
「はぁーい、どうぞ」とはちーちゃんの叔母さん。
「ちーちゃんは?」と、私はもう上がり込んでいる。
「さっきまで居ったとよ」
 私はあつかましく部屋に入ってピアノに手を付ける。数え切れない程、私はここで弾かせてもらっている。こんなものを持つ家は知ってる限りここしかなく、世間並では手の出ないものだった。
 いつしかちーちゃんの声が何やら向こうで話している。特徴のあるはきはきとした、しかも甘えるように円やかな声はこの部屋に近付いて来た。
 私は妹がほしい。どう考えても弟とはこれ以上仲良くなりそうにない溝を感じる。同じ六つ歳下ならせめて妹であってほしかった。そんなわけで時々、勉強を手伝ったりしている。私はちーちゃんを妹と思いたいのに、ちーちゃんは私に「お母さんみたい」と言ったことがある。ちーちゃんは三年近く前、母親を病気で亡くしている。私が殆ど毎日曜日ここへ来るようになったきっかけは、ちーちゃんに何かしてあげられることはないかと思ったことだった。
「雅巳と遊んどうね?」と、ちーちゃんが入って来るなり言ってみた。
「うんにゃ、近頃は」
 近頃とは弟を基準に思えば小学生らしくない言い方に思えるが、これがちーちゃんの特徴だった。
「雅巳はちーちゃんば好いとうよ」
「いやあ」と、一人前に照れる。「姉ちゃん、雅君が犬ば拾てに来たとよ、うちに飼えて言いよったけん、もらったよ」
「えぇ?どこ?」
「庭」
「叔母ちゃんは飼うてよかって言うた?」
「うむ、お父さんも、叔父ちゃんも」
 なるほど、あのときの犬が広い庭の隅に居た。何とも犬小屋は例の林檎箱だった。首輪をつないだ紐は結構長く、彼も広い庭で満足しているみたいだ。
「みんな、よう許したね」
「みんないけんて言いよった。ばってん、可愛いかろう?あがん可愛か犬は捨てられんよ。誰かが捨てたとやろね、可哀想か。−−うちがぜーんぶめんどうみてやあよ、そがん約束やけん。真っ黒やろ、そいけん名前はクマ」
 弟もそんなこと言ってたと思いだした。だれでもそれくらいの覚悟はあるようだ。お嬢様ちーちゃんにどこまでできるか不安はあった。
「きのうお風呂に入れてやったとよ、汚れとったよ。……うちはクマのお母さんになったとよ」
 ハッとしてしまった。そして少女が飼うことを許されたわけがはっきりとわかった。

       *      *

 それからはよく犬を連れた少女を見掛けるようになる。散歩しているときのクマはちーちゃんに忠実で利口に見えた。日に日にむつまじくなるようで、私はとても嬉しかった。なぜならクマにはこの冬を野良犬として乗り切れる逞しさはないだろうから。クマの動きは幸せそのもので、いつも笑っているようで、引越しだの転校だので不安な毎日の私からは羨ましいくらい。
 弟に因ると、少女一人で全ての面倒を看ているらしい。ちーちゃん以外の人は犬の存在など気にも掛けない様子。これは望ましいことだろう。少女がクマの母親になりきれるのだから。食べ物も自分の小遣いから工面して、週に一度は小屋の掃除をしてやって、お風呂にも入れてやる。飼うことにもともと反対だった家族にしてみればとてもよいことだ。彼らはクマと無関係でいられる。
 その習慣は十二月になっても崩れず、益々徹底してきた。以前より作法のしつけも厳しくなり、他の人をクマに寄せつけたがらなくなった。何か……我が子の成長を見つめ続けたかったちーちゃんのお母さんの魂がちーちゃんを染めている感じもするのだった。
 そのころは小屋に沢山の古着が入れられていた。九州でも冬は寒い。雪のことも考えて、広い庭のいよいよ隅の楠の木の下に小屋が移されていた。

      *       *

 クリスマスの朝から私はちーちゃんの所へピアノ目当てに出て行った。
「おはようございます」と、戸口で言うなり、少女のシクシク泣く声が耳に入ってきた。
「はぁい、どうぞ」の叔母さんの声に、慌てて上がり込んだ。見ればちーちゃんが顔も目も赤くして泣いていた。テーブルに伏せると淡い泣き声に合わせて肩をヒクヒク動かしている。
「どがんしたと?」私は努めて優しく言ってみた。
「あん犬が病気になったごた」と、叔母さんが答えた。
「ひどか?」
「いいんにゃ、ちょっと元気んなかだけたい。ばってん、えすか病気かも知れんけんね。狂犬病も流行っとうごたろ?」
「伝染病とか?」
「……もしも、もしもたい」
「捨てろて言うと?」
「そいばってん、獣医には見せとうなかって言うやろ」
 そう言えばちーちゃんは大の病院嫌いで有名だ。病院は生き物を苦しめるところであるという感覚。そんなところへは行かせたくないのか。もしかして獣医に見せて家族にお金の負担をかけることを恥じているのかも。家族とクマの無関係は少女らしい母親の誇りだった。
「犬ん病気はあんまい人間には関係なかさい」私は少女を助けるような言葉を吐いて明日、明後日まで様子を見るように意見した。それから、とりとめのない話をしながら、もしものときは獣医に見せるように納得させた。
 私は勝気な少女の涙を久しぶりに見た。あまりはしゃがない、行儀よく、もの知りで、お澄まし。もう一度小学生からやりなおせるなら、こういうのもいいと思う。
 ちーちゃんは自分専用の炬燵にクマを上げていた。クマは確かにぐったりと寝そべっていて、炬燵から離れられない様子だった。苦しがっている様には見えないが。
 冬休み三日目、クマの様子は変わりなかったが、ちーちゃんに因ると元気になってきたと言うことだった。ちーちゃんは獣医さんから恐ろしいことを宣告されるのが怖いのだと言った。ちーちゃんの見立てはたいしたもので、その一日後にはすっかり元通りのよくはしゃぐクマに戻っていたらしい。一日中、少女はクマを連れ出していたと言うことで、クマに対するちーちゃんの大きさより、ちーちゃんにとってのクマの存在感は異常な感じでもある。少女の熱意は少女自信を孤独にして行く様だ。育てることの苦しさがわかってきたからこそ、夢中になってゆくのだろうか。そういうことはちーちゃんと二人でクマを散歩に連れ出すとよくわかる。ちーちゃんは神経質になって、自分でも飲めそうな水しか与えないようにしている。堤の水や、水溜りの水は避ける。

       *       *

 数日後に感じたのだが、考えてみれば弟はちーちゃんと会っている様子がない。幼なじみの時間が終わりに近付いているのか、弟は遠い家の友達を訪問することはあっても、ちーちゃんを見掛けても言葉もない。ちょっと気になった私はそれとなく訪ねてみると、絶交したと言うことだった。
「図工の宿題、教えてやあつもりやったとに、家にも入れてくれんし」
「あんたが教ゆってや?珍しかね」
「ちーちゃんはクマば独り占めすっとやけん」と、雅巳。
「クマはちーちゃんにやったとやろ?」
「おいが見つけた犬やもん」
「ちーちゃんはクマば好いとうけん」
「えさぐらい遣らせたっちゃよかろもん。あいはけちやけん好かん」
「そがんことで絶交したと?」
 どうせ姉ちゃんにはつまらんことだろうと言う様な顔をしたため、何も言わなかったが、幼いと思った。そう言えば弟があの家に行った頃、丁度ちーちゃんはクマの病気事件の最中だ。クマのことで頭が一杯で、図工や雅巳のことなど気に掛ける余裕がなかったのかもしれない。雅巳はクマにやきもちを焼いているように見えた。
 しかし、馬鹿にしたものでもない。とうとうそのまま正月を迎えてしまう。私も小学生の頃ひどい喧嘩をしたことがあるが、三日後には元の鞘に治まっていた。雅巳の場合、そんな感じではなさそうだ。相手がちーちゃんなら勝ち目はないと思っていたが、なかなか弟も辛抱強い。互いに友達がいて、しかも、男の子と女の子だから話も合わないし、だから求め合わないのだろうか。仲直りに価値がなくなったのか。
 そんなある日、頭の悪い雅巳は苦境の中に立たされた。母から、冬休みの宿題を全てやってしまうように命令された。雅巳はそれまで遊ぶことしか脳になかった。
 新年三日目、私は引越しの予定日が一月十二日であることを知る。理由までは知らないが、とにかくそう決定してしまった。行き先は名古屋である。思ったより早いことで、私は急に悲しくなった。十六年間、私を支えてきたこの地が遠ざかる。親元を離れるようだ。しばらく書いてなかった日記を無性に書きたくなって、センチな思いを綴った。裏山のことだけでも数々の思い出がある。幼い日、父に背負われて登った。昼寝しようとしたら木洩れ日が邪魔したこと。中学のときにもかなり上まで登って、帰りがひどく遅くなったこと。最近では風景のスケッチのために登った。私のは下手なほうから二番目。ふと、裏側の窓を開けた。夜の闇の中に、ずっしりとそれを感じた。

       *       *

「ちーちゃん!」雅巳が呼ぶと、叔母さんが出てくる。
「雅君、明けましておめでとう」
「あ、めでとう。ちーちゃんは?」
「居おとよ、どかんしたとかねぇ」
「宿題、ちょっと教えてもらいたかだけ」
 奥から少女が出て来ると、叔母さんは入れ替わりに引っ込んだ。
「宿題?」と、少女は冷たく言う。
「うむ、その代わり、図工、手伝う」
「算数やろ?あいは難しかもんね」
「クマは大きゅうなったろ?」
「そいけん何?」
「絵は描いた?」
「自分で描くもん。何しに来たと?」
「そいけん……ねえ」
「姉ちゃんの居ろもん」
「日記ば覗いて、けっ飛ばされたもん」
 少女は微笑み、すかさず冷たい表情で「まあよか、教えてやあけん。上がんしゃい」と言い、髪をなびかせるようにクルッと回転して奥へ行ったに違いなく、雅巳は秀才に頭が上がらないことを痛感したに違いない。
 雅巳は帰りぎわにもちょっともめた。クマを与えた者としての優越感がほしかった。
 もちろんちーちゃんは「もう、うちんとよ」と言うわけだが。
「……ちーちゃん、おいねぇ、来週の水曜日、名古屋に行くよ」
「何しに?」
「まえにゆうたやろ、引越しが決まったとよ」
「炭坑のこと?もう帰らんと?」
 雅巳は早足で帰って来た。私が「ちーちゃんも教えんやったろう」とつんけんに言うと、弟は「残念でした!」と大声で言って机に着いた。私はちーちゃんが折れたのかと思い、弟を頼もしく見直した。
 それから何日か経って、私は久しぶりにピアノをいじりに行ってみた。ところが、そこには誰も居なかった。お向いのおばさんが私の声に気付いて窓から声を掛けた。
「由美香ちゃん、誰も居らんよ、みんな病院よ。智晴ちゃんが上の坂で交通事故!もう」
「ひどかと?」
「頭打ったらしかよ」
「なんしよって?」
「知らん。ダンプカーによ」
「ダンプ!」と言いながら、体がブルブル震え始めた。
「ほんなごとねぇ、炭坑は潰るってゆうとに、今ごろ石炭ダンプに」
「どこの病院?」
「町立病院?」
 そこは近い。私はすぐに弟を連れて病院へ向かった。弟は心配そうにいろいろ訪ねる。私はその度に「知らん」ときつく言う。二人とも全く動転していた。
 ちーちゃんはそこに居た。家族みんなが居ると思ったが、少女の父親だけだった。他の人はたった今帰ったらしい。
 少女は眠っていた。頭と手と膝に怪我をしたらしく、ダンプから避けてこうなったと言うことだ。頭は問題だが、既に専門医を招いて検査したところ、大丈夫ということだ。
「手は?」と、私は小声で訪ねる。
「小指は殆どだめ」
その一言以上は言えないようなそぶりだったし、私もそれだけで十分にいたたまれなくなった。
 私と雅巳はすぐにそこを出た。二人ともホッとしたのが正直な気持ちだった。ダンプに潰されたという想像もつかない事態を目の当たりにすることはなかった。雪が降り始めたので、私達は急いで帰った。
「雅巳、ちーちゃんの小指は……」
「うん?」
「ピアノは弾けんね」
「うん」
 かわいそうでたまらなかった。目の前で鉄の怪物が牙を向けたとき、どんなに怖かっただろう。私は今度は痛ましさに震えていた。
 家では父母が引越しの仕度をしていた。出発は四日後なのにと思っていたら、私の荷物だけでもこまごまと大変だった。
 私はそこそこの学校へ編入できる事が決まって、何も懸念することがなくなった。向こうでは近所の人とも親しくなって、方言を覚えて元々そこの人間のような顔で振舞う。今に友達がたくさん出来て、都会人面して百貨店などで買物したりして……などととりとめもなく確認するのはやっぱり不安なのだろうか。
 一日前、友達がお別れ会を質素ながらも持ってくれたので、私は朝からよばれていた。よき友たちは『悪友に虐められたら仇討ちに行く』とか『ぼさっとしてて車にぶつかるな』とか『私達のことを忘れたら村八分』など、ろくなことを言わない。話はなかなか尽きず、最後となると一分でも惜しむようにみんなで喋りまくった。夏休みのスケッチの話から、隣町の男子校の話、ミートソースの作り方から洋服、ボーイフレンドの作り方等、腹一杯会談した。
 私が帰ると、弟が一人でぼんやり留守番していた。父と母はちーちゃんのお見舞いに行ったと言うことだ。私は長く居られぬ部屋に寝っ転がると、これまでの生活をしきりに思い出して心のアルバムにくっきりはり詰めていった。
「姉ちゃん……クマ、どかんしようかな」弟の、ボソッとした、それでも興味深い声だった。私はハッとせずには居れなかった。ちーちゃんはクマの母親である!
 飛び出してちーちゃんの家へ走っていた。薄く積もった雪を踏みしめてたどり着いた時、そこにはあまりにも丁度、少女の父親が居た。彼は自転車を降りて、それを小屋に引いて行く。木の箱とショベルを荷台から降ろすと、じっと見ている私に
答えるように「クマがね……」と言った。
 私はすぐに目を閉じた。それでも熱い滴は溢れてきた。
「裏ん山に埋めてきた。全然、気いつかんやったよ、クマんことは」
「ちーちゃんは知っとうと?」
「いいや、さっき気いついたけんね。−−餌もやっとらんし、寒かったろうし……何でも智晴がめんどう見とったけんね……犬んこととかは全然…みいんな、あん子のことで…」
「ちーちゃんのせいじゃなかよ!」
「うむ。智晴はまあだ、お母さんのつもりやろね」
 ちーちゃんの入院で、クマが寒さと飢えで死んだなんてあまりにも残酷だ。それをどうあの子に言って聞かせるか……それでも私がその役割を果たすことになった。家の人には負目があるらしい。ちーちゃんに責められたら、ものの言い様がないのだ。しかし、気が進むものではない。あの優しい子に、大切にしていた子供が死んでしまったなんてとても言えそうになかった。ごはんも掃除も入浴も母親の少女がして……人を寄せ付けなくしたのも少女。勝気なあの子に責任を覆いかぶせるだけでなく、芽生えたばかりの母性愛を傷つけてしまうと言うことは……私には少女がどんな気持ちになるかよくわかる。とても私には言えそうになく、考えた末、弟に頼るしかないと考えた。
 わかるように話してみると、弟はすぐに納得してくれて私は救われた。
 二人で病院に向かう途中、父達に会った。ちーちゃんはマンガを読んでいて元気だったらしい。雅巳にクマの散歩をさせてほしいとのこと。私達はそれを空しく聞いて先を急いだ。
 その病室を目の前にしたとき、雅巳は私の顔を見た。わたしは厳しくうなづいて見せた。ノックをすると、いつもの少女の声が帰ってきた。中に入ると、少女は起き上がっていて小さな本を膝の上に降ろしていた。
「雅君、お母さんに会うたろ?」
「うむ」雅巳はいつもの調子だった。私は安心した。
「クマ、どがんしよう?」
 その時あのお向かいのおばさんが本をかかえて入って
きた。少女が礼儀正しく挨拶すると、彼女はにこにこし
てそれをベッドの脇に降ろした。
「元気んなったね。すぐに退院らしかと?」
「はい」と、少女は雅巳に向き直って
「元気?クマは」と続ける。
それを聞いたおばさんは私を見て欝向いてしまった。知っているらしい。
「ちーちゃん、クマは」
「ン?」
「事故があってね……」
 ちーちゃんは真剣に雅巳を見つめた。すぐに自分をかばうように微笑んで「またぁ」と言ってみる。
「いや、本当、事故があって、死んでしもうた」
「うそ!」と、少女はむしろ私を見て救いを求めている。でも、私は沈んだ顔を見せるものだから、見る見る気が遠くなるような目をする。
「死んでしもた」と、雅巳は繰り返した。
「いやっ!」と、それは小さな叫びだった。顔は本で覆われた。はみだした唇は振るえていた。すぐに言葉はなかった。私はおばさんと顔を見合わせた。
「なし?どがんして?」もう泣き声だった。
「きのうね、ちーちゃんの家の庭でクマは吠えよった」
「……うん」
「ちーちゃんのお父さんが行って見たら、鎖ん切れそうになっとった。クマはどっか行こうでしよった」
「どこに?」
「どこか。……今頃、ちーちゃんの居らんけん、捜しに行きたかったんか」
「うち?」
「切れんて思うとった鎖がいつの間にか切れとってね、今日、クマん居らんやった」
「どっか行ったとね、じいっとしとればよかとに……」と、少女は泣き声。
「クマはあの坂んとこでね、ダンプじゃなかった、オートバイに跳ねられたごた」
 ちーちゃんはベッドにくずれてしまい。おばさんは私を見て、とりあえずそばの椅子に掛けた。
「ちょろちょろするけん、馬鹿やけん……」少女はそんなことをつぶやいていた。とにかくここはそっとするしかなく、私は不安そうな目線を向ける弟に微笑んで見せようとして唇が振るえたにちがいない。
「ごめんね、うちが雅君からもらわんやったら、よかったね」
「いんにゃ、ちーちゃんと会うたけんクマはいつも嬉しかったとよ」
「そがん思う?」
「思う。クマはお母さんば好いとったよ。そばに居ってもろて、良かったて、思うとうよ」
 静かである。誰も話さない。私は心の中で雅巳に拍手を送っていた。
「雅君」と、少女のぽつんとした小さな声。
「うん?」
「クマのお墓は?」
「有るよ、裏の山に、お父さんが作ったよ」
「良かった……クマの墓、花ばいっぱい置いてやろうね」
「冬やけん、花はなかよ」
「ああ、そうか。−−今日は火曜日ね?」
「火曜日」
「明日、街に行ったら、もう帰って来んと?」



                          − クマのページ −

(三十年以上も前に原稿用紙に手書きしたものです。稚拙なお話に付き合っていただきありがとうございました)


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