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作品名:唯一の恋 作者:胡桃

最終回   『唯一の恋 (親愛なる由香里)』




     唯一の恋 『親愛なるゆかり』        松野 胡桃



     《1》

 これは私の話ではない。若い男女が主人公だ。
 一ヵ月後に迫った。電鉄の運転実務もあと3週間だ。やっとこさ定年というわけだ。ここまでオーバーランによるバックは3回、自責の遅れはそれを含めても5回、何十年もやってりゃそういうことはあるさ、人身はもちろん、設備、車体事故なし。80点はもらえると自己評価した。
「内山さん、本日最終、乗務お願いします」と、管理室の若い男が運行時刻表を渡す。
「了解しましたよ。今日は疲れ気味なんで、向こうの宿直室に連絡入れといてもらえませんか」
「さっき、同じ事を他の人に頼んだでしょう。連絡は行ってますよ」
「そうかぁ……いいタイミングで定年てのはあるんだな」
「今までどおり、気を引き締めてお願いします」
「当然だろ、毎回、初乗務の気持ちだよ」
 二三時五十分の最終列車は定刻に発車し、街灯かりを抜けてゆく。どこで加速するか、減速するか、全線の加減は体が覚えていた。目をつぶっても標識や信号の位置と時間の関係はよくわかる。だからこそ記憶に頼らずしっかり確認する癖が必要なのだ。しかし、集中力は半減したと実感している。最近は体の疲れが取れず、終着駅に泊まることが多くなった。
 途中、唯一、遮断機の無い踏切がある。同僚がそこで乗用車との衝突を起こした。ブレーキが効いて衝突時は時速十キロ程度だったらしいが、このブレーキが車両ごとに違う。駅の停車には問題ないが、急ブレーキとなると、何処まで行けば止まるのかはやってみなくちゃわからない。
 その日、その踏み切りに飛び込んできたのは車ではなかった。人だ。人がふらふらと侵入して来た。自動ブレーキが掛かった。手動でもブレーキをかけた。警笛を鳴らした。切れ目なく鳴らした。よりによってこの列車に飛び込み自殺か。この期で人身事故とは…。闇に鋭くそれは照らし出されている。男のようだ。
「退け!」と、叫んだが、聞こえるはずは無い。その列車のブレーキの効きは最悪だった。どの列車でもそう感じただろうが…。
 やはり男だ。男は列車を見ないで、ひたすら俯いているだけだ。
 目を閉じた。いや、スピードメータだけを間近に見ていた。時速九十キロから五八キロまで落ちていた。ドンという感触が車体を通じて体に伝わった。
 やれやれ、夢だといいと思ったが、車掌からの車内電話がすぐに鳴り響いて目を覚ますことは無かった。
 車掌に見たままを話し、車内放送がされている間、管制室に無線連絡する。20分後に代わりの列車が来て、隣に止まると双方のドアを開けて乗客に移動してもらう。
 男は突き飛ばされ、線路脇で即死状態で横たわっていたらしい。
 もう運転は出来ない。明日から退職するまで2度と運転は出来ないと思った。そのことを管制室に告げた。困ると言われようが出来ないものは出来ない。体調も悪いし、行った先の宿舎で一刻も早く休みたかった。いい機会だ。これで定年だと決め込んだ。
「百メートル、後退してください」と、担当警察官。
 バックさせてから降りると、線路がビデオ撮影される様子を見ていた。
「もう結構です。連絡はいつでもつくようにしておいてください」と、担当警察官が言った。
 乗客の居なくなった列車を終着駅まで運ぶ。これが最後の乗務だ。近所の人が様子を見に来た。乗客の二人が代行列車に乗らずに残って見ていた。脇を歩いて列車に乗り込もうとすると、「落としましたよ」と、折りたたんだ紙を誰かが差し出す。
「あ、どうも」と、力なくポケットに入れて呆然と一息。『これが最後だ』と、気合を入れて警笛を鳴らし、徐行し始めた。

 疲労困憊のどん底に居ながら、宿舎でも寝付かれなかった。


     《2》

 彼は早島祥平という名で実は由香里より一つ上の高校3年だった。と言っても、8ヶ月も入院しているのだから、来年も3年生で、由香里が退院すれば同学年になる。
 病院は退屈なところだった。辛いときも苦しいときもあるのはここに居る限り当たり前だが、その中で勉強もしなきゃいけない。逆に楽しい事なんて一つも無い。友達が来る事も殆どなくなってしまうし、家族も毎日顔を見せるわけでもない。
 そんな由香里は祥平と出会った。
 売店で「小説とかありませんか」と言ってた祥平は「小説雑誌ならありますが」など言われている。何だか気乗りしない表情。
「『こころ』とかでいいですか」と、由香里は言った。よっぽど人恋しかったのか、人見知りの由香里自身が驚くほど素直に言った。
「心?いや、もう少し新しいのが…」
「ごめんなさい」と、去ろうとすると、祥平は「いい、心、いい」と言う。
「無理しなくていいの。ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。心、いい」
「あ、あの……松本清張、一冊有ります」
「いいね、そっちにしようかな」
 彼には暖かさや優しさが素直に感じられた。話しかけることが出来たのもにわかに好感を持ったからなのだと思えた。目立つ補聴器からややこしそうな病気かなと想像した。
 寝癖が気になる。パジャマやガウンが気になる。入浴もちゃんとする。そして、売店付近を時々徘徊する。そういう変化が由香里に起こった。
 祥平も同じなのだから、まるで最近病院に入った者同士のように、しょっちゅう売店付近で会うようになった。彼の病室は別のフロアだった。
 ただの入院患者同士ではない、何か特別な存在になりたいと思った由香里は祥平に友達も恋人も兄も弟も要求した。妹が一人居るだけだからそれ以外の人間関係すべてを彼に求めた。これまで引っ込み思案だった由香里だから、はじめは一緒に居るのを見られるのは躊躇われた。しかし、次第に祥平と共に居ることが母や妹に受け入れられ、一緒に居ないと「今日は彼はどうしたの?」などと、さも一緒が当たり前になってゆく。そうなると、積極的に一緒に居るところを母や妹の目に付くようにした。それは、「私もちゃんと一人前」と言う気持ちが持てるようになったからだ。友達が来ると約束してくれたときも、わざと、祥平とロビーで語らっていた。
 祥平にはそんな由香里の気持ちが分っていた。自慢の彼氏と言いたい気持ちは、自慢してもらえる立場だという事。それは居心地が良かった。
「いいのか?」と、祥平は言った。『みんなに彼氏みたいに思われていいの』という意味だった。しかし、伝わらなかった。言うべきは−−。
「由香里は可愛いな」だった。由香里は喜ぶというより、俯いてゆっくり反芻している感じだった。「うん、可愛いよ。当たり前の事だから、言われ慣れてるかな」
「誰も言わないよ、そんなこと。お世辞言っても病気は治らないわよ」
「お世辞なんていったこと無い。言えるほうがいいんだろうけど、僕はまだお世辞言うキャラじゃない」
 お互いの病室は知らなかった。言ったかもしれないが、行く事は無かった。だから、由香里は売店付近やお互いのフロアで祥平を見かけないと、病状がとても不安になった。
 祥平は入院のストレスが分っているからなのか、それを忘れさせるように出来るだけ会うようにしてくれた。人目を偲んで、暖かく抱いて髪を撫でてくれた。寒い毎日に陽だまりをくれた。
『私はあなたの陽だまりになってる?』と、いつも思うように心掛けた。由香里は優しくしてもらうのは好きだが、そうされる価値を持ちたいというのも欲望なのだと自覚した。
 退屈でもなくなった入院生活だったが、退院の日が決まったのは祥平が先だった。それはいやではない。喜ばしい事だ。でも、外に行ってしまう祥平が自分から離れて行くかもしれないと思うのが嫌だった。外では外の、もっと可愛い女がわんさと居る。そんな事を考えなきゃいけなくなるのが嫌だった。
「いいのか?」と、祥平は言った。『キスしてもいいか』と言う意味は通じた。祥平は目を閉じた由香里にキスした。忘れたくないからだった。君が退院したら−−と言う約束より、早く外に出て来いよというキスをするほうが自然だった。
 
 その日は静かに事が済んだ。祥平からのアクションは何もなく、ロビーで見ている由香里に気がつくこともなく、由香里を探すでもなく、ただ、静かに祥平は退院して行った。
 由香里は悩んだ。何故だ、一言もなく、見る事もなく、なぜあっさりと出て行ったのか。

 由香里の母、美佐子は「今日は一人にしといてあげて」と、病室に入ろうとした亭主を引き止めた。「好きな男の子が退院したから臥せってるのよ」
「お、男?」
「気がついてなかったの、あなた。鈍感ね。一言の言葉もなく出て行ったものだから、何か悪い事したんじゃないかって考えたり…切なくも、美しい時間を過ごしているわ。今日は帰って。乱入せずに」
「……そんなやつ、悩んでやる価値もないじゃないか」
「あなた、由香里が好きになった人を、ソンナヤツって思いたいの?男としての解釈はないの?」
「……いや、計り知れない」

 2週間が経っても、由香里の元気は元にすら戻らなかった。他の誰かとの出会いを物色する気にならないと見ているほうが辛いと、美佐子は思っていた。そんな時、新聞に大きな事件が小さく報道されていた。
『深夜〇時二十分頃−−』その記事は早島祥平が電車に撥ねられ死んだ事が書いてあった。美佐子は由香里にその記事を読んでもらい、決別してもらおうと考えた。娘の成長を促す契機のように思えた。
 由香里は泣きながら読んだ。美佐子は親として、席を外さず、その姿をじっと見ていた。
『−−徳仁会河北病院に入院していたが、余命一ヶ月と診断され、自宅で最期を待つため、父、早島真一さん(42)は十五日前に祥平君を退院させた。病状が悪化し、失聴状態のため、補聴器をつけなくなったときの事だった。真一さんは警笛が聞こえなくてもライトは分ったはずと言いながらも、本人は回復する事を信じていたと、自殺を否定している』
「せっかく、外に出られたのに……死んでは駄目よ」
「最期を待つためにってあるでしょ。外に出て、散歩する習慣もついて、街を見て、人を見て…良かったじゃない。事故に遭わないに越したことないけど、ご両親の判断自体は間違ってないわ」
「これで…よくも私を無視して出て行ったわねって、文句言えなくなっちゃった」
「残念ね。日々、変わってる。世の中も、人も、天気も、景気も、生れたり、傷ついたり、壊れたり、亡くなったり……。由香里も変わるはず」


     《3》

 自宅に帰ると、やっと眠りに就いた。眠り続ける事十三時間、流石に起きると、鈍い頭痛がする。とにかく風呂に入ろうと、着替えを用意。
「これから乗務しないんなら、規則的な生活してくださいよ」と、妻が言う。
「ああ。新聞読んだ?」
「読みましたよ。深夜は列車が通らないからね。安全だと思ってたとしたら、痛ましいわね。何の病気だったんでしょうね」
「さあね」
「あなた、大丈夫?」
「流石に寝る前までは食べ物も喉を通らない感じだったがね」
 熱めの風呂で寝すぎのボケた神経を引き締めようと思った。実際、強引に乗らないと決め込んでしまった事を申し訳なく思うが、考え事、思い出しは運転の強敵だ。飲酒と同じ事だ。残り三週間なら身を引くのが正解だと、考えは変わらなかった。
 新しい下着に、ラフな私服。退職後の生活とはこんな日々なのか……と、予行演習みたいに感じた。
「これ、現場にあったものじゃないの?」と、妻は折りたたんだ紙と着ていた上着を持っている。
「え?それは何だったんだろう」
「祥平って書いてますよ」
 手に取ると、それは手紙だった。出すつもりなら封筒があったかもしれないが。
『拝啓、前略、親愛なる由香里。
君には嫌な思いをさせたままだと思う。外に出るより、中で君と会っていた方がずっと楽しいと思った。でも、外で待っていれば、君がきっと追いかけてくれると期待したのに……。
僕はなぜ退院するのか、直前に分ってしまった。僕は助からないから退院するんだ。
分ってしまうと、外で待ってるなんて言えない。由香里に追いかけて来られてはいけない。そんな事を考えてると、由香里は良い子だけど、好きじゃないよ。くらいのことは言えないといけなかった。でも、僕は弱い。君に別れの言葉を言う勇気は無かった。中途半端に嫌な思いをさせた。
もう、耳が聞こえないんだ。時々目を閉じて、死んだらどうなるのか考えたりする。つらいんだ、最近。親の顔が見てられないんだ。親が可哀想だ。由香里も可哀想だ。僕は弱い。こんな手紙書いて……。大好きだったなんて絶対に書かない。手紙出したら男が廃る。だから、絶対に出さないとおもう。
                   草々   祥平』

「おーい、新聞の病院、何だった?」
「新聞は目の前に有りますよ」
「出かける」
「え?今日は静養するとか殊勝な事言ってたのは、夢だったのかしら」
 同じ病院にこの子は居るのだろうかと思った。故人の希望はともかく、誰にも見られたくなかったこの一枚の紙を、由香里という人には見て欲しかったんじゃないのか。警察なんかに届けてたまるか。ご両親にも事後報告でいい。こんな後味のいい事を今、一番必要としているのは私だと思った。
 駅まで歩いて15分、電車でたかが四駅。降りたら歩いて十一分。コンビニでコピーを取るのに1分半もあればいい。コピーは祥平君のご両親用、原紙は由香里さんのものだ。
 色々説明する必要はなかった。新聞と手紙の両方を見せると、「私が運転していた内山と申します」と言えば、この人が入院中であることはすぐに分った。母親に連絡してくれたが、しかし、4時間後に来るというのだ。どうせ静養日なんだ。病院の椅子で待つのも悪くないかと思った。
 頭痛は治らず、寝すぎのため、居眠りも出来ず、売店で買った『ビスコ』なるビスケットをかじりながら一分一分を待った。
「内山さん」と、声を掛けたのは若い看護師だった。小声で何かと思えば、今、売店の前をボーっと歩いてる子、あれが中井由香里だと言う。
 由香里は何か買うでもなく、力なくゆっくりと歩いている。目で追うと、エレベータに向かっているようだ。
「お渡しになったらいかがでしょう」
「あの様子じゃ、体調が悪そうだ。当たり前か。今日の私も体調が悪い。お母さんから優しく渡してもらいますよ」
 実際、あの抜けたような表情がどんな風に変わるのか大いに興味が湧いていた。しかし、キューピットではなく、亡くなった人の手紙の伝書鳩なのだ。泣かれてもどうしたらいいかわからない。苦手な領域に引き込まれるのがオチだ。

 美佐子は日暮れ前に病院に着いた。夕食が終わるまで付き合うつもりだった。ずっと待っていた内山に恐縮した。
「動転してたんでしょうね、つい、差し出されたこれを、とりあえず受け取ってしまっていました。もし、私のせいで、遅くなったとしたら、大変悪い事をしたと思います」
「いいえ、実際に届いたかどうか分らないじゃないですか。祥平君が亡くなって吹っ切れるかなと思ってた私が甘かったんです。よかった、由香里はきっと喜びます。由香里が喜べば、彼も安心して天国にいけるでしょう」
「四時間、待った甲斐がありました。由香里さんを見かける事も、お母さんにお目にかかることも出来た。キューピットではないし、−−自分のためだ。私が少しでも癒されたいと思っただけです」
 実際、由香里は泣いた。泣いたが、やっと笑顔を見せてくれた。
「よかった。私は良かったけど、結局、一番可哀想なのはあなたよ、祥平。−−私、元気になったら、自分の足で、届けてくださった方にお礼を言いに行きます。外ですることの最初はそれ」と言ってくれた。良かったと、美佐子も久しぶりに心から笑えた。


     《4》

「少し、よろしいでしょうか」と、駅にたずねてきたのは、あのお母さんだった。
 私が乗務員控え室に用も無いのに入り込んでいるのを誰かに聞いて、そこまで訪ねて来た。私は若いお母さんとそこから出ると、いい天気の下のプラットホームへ歩み出た。
「お顔を見ても一瞬誰だったか考え込んでしまいました。まだ一週間しか経ってないのに。よくここに居ると分かりましたね。実は明日までです。毎日同じ事を正確に繰り返してきました。引退間際に私にもやっと事故がおこりましたよ」
「乗ってらっしゃらないんですね」
「うろうろしてるだけです。邪魔者になる前に追い出されます」
「むしろ、最後でよかったじゃないですか。お若い頃だったら、次の日も乗られたでしょうし。辛いと思います」
「あのあと、少し悩んで、手紙のコピーを警察に送りました。ご両親が読むと、辛い部分が有ります。でも、彼の真実を知っていただくのが良いのだと決断しました」
「……祥平君はいい子でした。早島さんから病院に連絡があって、私から電話しました。二人がどういう関係だったのか尋ねられました。もちろん、恋人同士ですと答えました。ありがとうございますと、ご迷惑かけましたと仰いました。−−そもそも、内山さんが届けて下さって、とてもよかったと思っています」
 お母さんは、由香里がとても喜んでいた事、元気が出たこと、御礼に行くと言ってくれたことを伝えてくれた。
「へぇ、そんな事を言ってくれたんですか」
 遠い空を見上げるお母さんは優しさを空いっぱいに放っているように見えた。
「でも、あの子は内山さんの所へは行かないんです。……手紙を書いた人のところへ……駆けて行きましたから」
 何も言葉は出なかった。ただ、その空を見上げた。





−−『親愛なる由香里』


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