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作品名:『会社辞めます』 作者:胡桃

最終回   【3】
「黒木君」と呼んだのは部長の声だった。
「済みません、北村君は今日も来てません」と、立ち上がって答えた。
「いや、電話があってね。会社辞めるってね。黒木さんを煩わしたくないそうで、私に言って終わるつもりだ」
「そうなんですか?!」と驚いて見せるしかなかった。彼は言ってたとおり、技術部長に電話して終わったつもりなのだ。ばかと言ったし、妙に決心が固かったし。入社の決心に気合を入れろよな。仕事しないと言っている人にしろと言うナンセンス。
「彼はもう、終わりでいいのか?まだ引き止めるか?君が三行半を書くなら事務所に手続きしてもらうよ」
 まだ引き止める?と言うことは彼は昨日の私のことを話したのか。
私は「はい」と答えそうになって呑み込んだ。私の分を解決しておこうと思った。
「一日待って下さい」
「いや、待つがね、君の仕事が進まないのは困るよ」
 私が電話を掛けると彼は意外にも挨拶くらいして辞めると言った。
 会社に来ることは嫌なようで、近所の喫茶店に来てもらうことになった。
 そこで以前、「設計ができないのなら−−」と、私は葉中さんに言ったことを思い出した。同じ店で私が葉中さんの役をするとは。
 でも、今日は一時でも仕事を放棄して立ち去ったことを反省しようと思った。
 北村君は私服で現れると神妙な表情で頭を下げた。対面に掛けると、私は力不足を痛く思いつつも、エッセイストになると言った頃の夢いっぱいの気持ちを思い出して切り出した。
「昨日はごめんなさいね」
「あ、いえ、こっちから変なこと言いましたし」
「私は仕事を放棄したのだから、自分が許せない。あなたを説得する者の態度ではなかったと思う。目の前で私は逃げると言うことを見せてしまった。あなたに逃げないでって言ってたのに」
「僕も逃げることを考えてます。黒木さんに会社に連れ戻されると思ったらつい、余計なことを言ってしまいました。−−言われたことは当たってると思います。僕の態度は変わりません。思ったんです。高所恐怖症の人が高いところを怖がっているのをいくら見ても、自分が高所恐怖症だと言うことはわからない。そして、僕の問題点はそういうところだと分かった。すみませんでした。それを言わなくちゃと思って」
 いい青年だ。ちゃんと反省もできる。自分の中にどうにもならないものを抱えて社会参加を拒んでいる青年を代表して「僕らはみんないい青年だ」と言っているように見えた。
「自分を尊重しながら会社勤めをすることは決していい事態を招かないと分かってるのよ。それを怖がってる。お客様や上司や同僚や新しい人間関係の中で自分を実現すること、皆の心にあなたが存在して、この世に存在が認められる、自己実現ということ、難しいと感じてるのよ」
「そうです。少なくとも知識位は持って社会に出たいと思うと勉強不足だし。いや、わかってますよ、いつまで勉強したら大丈夫なのかと言われると思います。きっと勉強量でなくて恐怖症が消えるまでです」
「私はね、逃げた先に待っているものの方を心配してるのよ。それこそが怖がるべきこと。そう思うから北村君には会社に来ていてほしいと思った。2年勤めて辞める人は自分の真実が少しは見えていると思うけど、3日で辞める人は何も分かってない。感情や感覚に流されているだけ。それが見て分かるから私は恐怖の逃亡生活より社会の一員として迎えられた幸福を掴んでいてほしいの」
「うまい事言いますね、そのとおりかもしれない。それを自分で分かりたいと思います」
「さしあたって私や採用した側は困ることになるけど、そういうことは平気?」
「嫌だと思いながら仕事はできません。それに、今の時点では何の役にも立たないし。昨日の晩、親にも話して、一応納得してもらいました。会社の迷惑についてはどうしたらいいのか分かりません」

 兄は「お父さんに迷惑掛けません」と言いながら学費を工面してもらった。

「気持ちの問題ってあるのよ。結婚してって言われて、悩みに悩んだ挙句、OKしたら、とたんに無かったことにしてって言われたようなもの」
 彼は苦笑いして「迷惑な話ですね」と言った。
「気持ちは変わらない?」
「−−バイトしながら情報処理技術者の資格を取ります。分かってます。さっきも言ったように恐怖を除くのが目的です。勉強は当然としても、バイトをこなすことが勉強です」
「アルバイトはいくらこなしても責任ある仕事人にはなれないわよ」
「僕はそこからです」
「もう一度言うけど、社会に組み込まれて、仲間と共に、あの時は辛かった、あのときは頑張ったって思い出を作ってゆかない?」
「わかってます。僕は自分でもあきれる位に引きこもりだった。でも、だから、今はだめです」
「そして、みんなと仕事していく経験で人や仕事やお客さんまで育ててゆけたら、最高の社会人だと思う。そういうことができるようになるための精進や勉強だと思う。多くの人を幸せにできるほど高い報酬も得られると思う。大きな目標の第一歩をちっぽけな臆病で先送りにしようとしているあなたが残念なの」
 彼は噛み締めるような一息を置いて「ありがとうございます。それしか言えません」と言う。
 私は仕事として成功しなかったけど、言うべきことは言ったような達成感があった。これでいいと思えた。
 私は彼はひきこもれるタイプでないと思えた。そもそも、ここへ来る、自分のことを話す、謝罪もする。この時点で表に出ていると思えるし、彼なりに努力する日が近々来るような気がする。
「黒木さんのように魅力的な人が社会には居るってことが分かって希望が持てる気がしています」
 べんチャラも言えてる。
「私なんかじゃなく、魅力的な人の本当の魅力はあなたが成長していなきゃ感じられないものよ。−−それから、有資格者というだけで社会参加はできない。医者も弁護士も税理士も研究者だって、仕事をもらう営業力とそれをこなす実務能力がないと食べてゆけない。結局、仕事はお金をもらってする人助けだから、人のこと知って対応できなきゃ失敗する。技術者がお客様をいかに意識しなきゃいけないかを聞いたと思うけど、北村君は人との接点が少なくていい、仕事を選んだつもりだったのよね」
「はい。もう自信がまったく出てこなくて、技術を一生懸命にすれば何とかついてゆけるとも思ったけど、会社に勤めるということはそれ以外のいろんな勉強が必要だと思って、で、そう思うことで、技術くらいは完璧に自信持ってないと無理だと思って」
「見込みあると思う。スタートでずっこけたけど、ゴールなしのレースが始まったばかりと思って、早く立ち上がってね。もう言うことはありません。事務手続きがあるから、明日、必ず事務所に来てください。そのときは私ではなく、事務長に面会して。残念ながら私の仕事はここまで。あなたを元気にはできなかったけど、甘いことも言ってられません。こうしてる間にも別の仕事が置き去りになってるし」
「ありがとうございました。迷惑ということも分かりました。僕は本当言うと声優になりたいとも思っています。可能性としてですよ。そういう学校に行くかも知れません。誰にも言ってませんけど」

「才能は学校で開花するものなの?」と母は兄に言った。
「学校に行くと成績によって就職先が斡旋してもらえるのさ」と兄はその世界での就職の難しさを当然、見通していた。
「それと演出家と結びつくのか?」と、父は無理を見通していた。

「そう」と、私は北村君に少々落胆気味に話した。
「それは邪念ね。何かになりたいと思って成るんじゃないと私はわかったつもり。神様が選んでくれなきゃなれない。頑張らなくていい。自然現象のように声優になれなかったら選ばれなかったってこと。私ね、エッセイストになりたかった。でも、私は今、なれたと思ってる。あなたに社会のこと偉そうに説いてる。これが私に与えられた神様の選択。この程度。私がもっといろんな経験をしてもっと語る言葉を蓄積できていたら違ってたと思う。でも、今の私が今の結果。普通に育った幸せ者の私に何か説けると思うのが間違いだった。純な子供では何も書けない、童話すら大人でないと書けない」
「?」
「ねえ、孔子だったか、偉い人の言葉に『好きなことを仕事にすれば働かなくて済む』ってのがあるの。これは『仕事を好きになれば』が難しくて尊いことだから、近道を説いていると見せかけている。実は大前提こそ真実だと言っているの」
「?」
「前提の常識は、『働くことは辛いことで誰でも逃げたい』ということ。最近、分かるの。偉い人の言いたかったことは……『好きなことでも仕事になったら辛くて逃げたい』−−憧れの職業って、1.カッコよさそう、2.楽できそう、3.儲かりそう、いいとこしか見えてない。影の部分、努力の部分は実感ではなく理屈で分かったつもりになってるだけ。−−正直、最後のは聞きたくなかった。なぜかと聞かれても言えない」
 こんな形で私の仕事のひとつは脱落者を出して終わった。そのことを誰かに責められはしなかった。無理に引っ張る必要はないという風潮が技術部にあった。やる気のない者のやる気を出させる仕事を会社がするのは確かにおかしい。だけど、人を育てる努力と、育ててもらった恩が会社単位のやる気や仕事をする能力につながっているのだと思う。

 私は予定通り、退職する日を迎えた。女子は寿退社する風潮がこの会社にはあった。引き止める声もなく、当たり前のようにおめでとうの言葉で排除される。残念だと部長は言う。そうなのかもしれないけど、私の中でも残りたいと思わない。送別会は卒業のような儀式だ。今まで何人か送った私が送り出される。私の番だ。
「おめでとう、今日は送別会だね」と葉中さんが会社に顔を出した。「花束はないがね。披露宴には行かせてもらうから。でも、僕の息がかかった社員が減るのは残念だ」
「送別会に出ていただけるんですか?」と、立ち上がる。
 すっきりと何もない私の机のそばに来ると、まあ、座ってと促す。
「リタイヤした年寄りは先に送られたんだから、僕が出ちゃおかしいだろ。ここで送別の言葉を述べるまでさ。野村君がね、なんだか落ち込んでるみたいだって言ってから」
「野村先輩?何を見てたのかしらね、心当たりないし」
「いやいや、一人脱落したんだって?」
「そのことでは落ち込んでたかもしれません。だって、失敗ですから、最後の仕事。カッコつけてたけど不器用なんですよやっぱり」
「それならいいさ。夢の結婚生活が破れそうだってのじゃなきゃね」
「きついな葉中さん」といったのは窓際の部長。
「人のことより自分のことさ。夢ってのがいけない。女は、いや誰でも結婚前にはいろいろ考えて落ち込んだりするものさ。それは当たり前なんだ。夢を現実として捉えるに当たっていろいろ考えたり見落としがないか、地に足がついてるか不安に思うんだ。そういう過程を通らないと結婚してからが危ない」
「あぁ、それを言いに来られたんですか?」と、微笑んでいた。「それは、私の歳では大丈夫かも」
「そうか、君は地に足がついてるみたいだから、心配無用だったね。老婆心で来たんだがね」
「でも、確かに一人、引き止められなかったのは悔いが残ってます。本当に私はベストを尽くせたのか。他の置き去りになっていた仕事のことだけじゃない、別に邪心がなかったかって。いえ、邪心があったんです。そのことを悔やんでいました」
「邪心とは?」
 私は北村青年のことを一通り報告した。
「あの喫茶店で、彼の前で私はエッセイストになってた。言うべき台詞を練って、ある程度言えた時点で、私はこれで終わったと思った。目的が、奇麗事をちゃんと言うことになってたような気がします。間違ったことは言ってないつもりです。でも彼を会社に引っ張る努力は足りなかったような。後で思ったんです。彼が喫茶店に来たのは私の何を感じてくれたからか。私はその前の日、彼に馬鹿って言ってきびすを返してしまった。彼はその私に会いに来たんです。いろいろぼんやりと反省してると、私には『帰ってきて』という気持ちを出す前に、邪心があった。なんだかやり方があったんじゃないかと今更思うんです」
「ほう、そういうことを考えるのはプロの教育係の証拠さ」と、肩をポンと叩く。「その人がどんな反省をするかで仕事に前向きかがわかる」と言うと、窓際を向いて「部長、黒木には来年も教育係で来て貰ったほうがいいと思いますが」と言う。
「葉中さんの頼みでも予算は取れないな。ボランティアってことで、それに身重と子連れはお断りだよ」と返事が返る。
「案外、生活感が出ていいんじゃないか?子連れ」
 私は「子が親離れした頃に予算とって下さい」と言うと再度、反省を口にしていた。いい子になろうってのじゃない。ほんの少しでも自己陶酔に入ってなかったか、別に手立てはあったんじゃないのか残念に思う。最後の担い事を反省で終わること事態が残念だった。
「黒木」
「はい」
「あさきゆめみし ゑひもせす とはどういうことか?」
「浅い夢を見た 酒に酔わなかった」
 葉中さんは声を出さずにうつむいてニタニタしている。
「間違ってますよね」と、私も笑った。
「弘法大師がそんな小学生の絵日記みたいなこと書くかな。−−あさはかな夢を見たり、夢に酔ったりすまい。と言ってるのさ」
「ああ、そうなんですか。そういえば、浅き夢見じ酔いもせず、なんでしたね」
「夢ってのは、見ちゃいけないのさ。見てることを人に言わなければいい。でも、人に言ったら醒められる夢でなきゃならない。ましてや夢に酔ってちゃいけない」
「分かるような気がします」
「眠ってもないのに夢なんてもの見てちゃ、傍迷惑だ。夢は周りが迷惑するのさ。夢見てる本人は周りの人のことを考えてない。見捨てられない関係者は夢の支援や理解に迫られ、夢に振り回される」

「嫁が働いてくれるから何とか子供が生きていけてる」と、兄は母にこぼした。「だがもう、俺にはこれしかできない」
「しがみついてるだけじゃないのかい?その気になったらどんな仕事もあるよ」と、母は孫を膝に乗せて揺さぶっていた。

 葉中さんは傍の着席している宮本君に近付いて彼を見て言う。
「目標と夢は違うんだよ。君、夢は見ちゃいけない。でも、目標は持つべきだ。そのとおりにしてみせるという目標だ。目標にはビジョンと計画が伴う。実現しない夢に酔っていたら、諦めるどころか不満が募る。自分も周囲も苦悩する。一歩先の目標もなかなか達成しないことがある。達成の大切さを説く教育が必要なんだよ。夢を持つことなんて大切じゃない。思っただろう、黒木」と、私を見る。
「学校は何してるんだってね。何を教えてるんだってね。−−結婚生活に夢はないぞ、あるのは生活という現実だけだ。旦那を逃がさないように、自分も逃げないように足元を見ながら距離を確認するんだぞ。夢じゃなくて真実を分かり合うんだぞ」
「はい」と言いながら私は懐かしい感覚にとらわれていた。葉中さんの指導を受けている頃の感覚だと思った。ジーンと感じるものがある。
「辞めてほしくないと言ったらどうする」
「仕事は精一杯アップアップしてやっとですよ。不器用な私は旦那様に尽くすこと、家庭を守ることで一杯一杯です。あの人は何もできなさそうだし」
「不器用だが、君は真面目だった。そういう人が会社には必要なんだよ。まぁ、その心がけなら、旦那もちゃんと教育できるだろう。君は立派な社会人になった。自分のこと意外に人を見られるようになった。若かった君を一年でも手がけられたこと、自己満足させてもらうよ。−−この会社は素敵な教育係を手放すことになったもんだ」
『あれ?』と、私は慌てて涙をぬぐった。


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