それは月曜日だ。きっとそうだと和果子は思った。何か根拠があるかと言われてもそんなことはどうでもいいとしか思えなかった。どうでもよくないことは何か、学校に登校しながら、学校に行くのではないイメージがあった。 電車から降りた気はしていないが、ともかく、数百メートルも歩けば学校の位置だった。クラスメートが居た。声をかけた。はずだ。「おはよう!」と、元気にも遜色はないと思った。しかし、後ろ姿の彼女はそのまま歩いていた。聞こえなかったのか?と、疑おうとしたが、そのまえに、声が出たのかどうか疑わしかった。誰も気がつくものは居ない。進んでいるつもりなのだが、後から後から学生が追い越してゆく。 でも、気がついたら、何とか教室に入っていた。和果子は椅子を引いただろうか、はじめから引かれていただろうか、そこに掛けた。先生が入ってきた。何か話している。国語の先生だ。いや、担任の先生だ。しかし、和果子には何を話しているのかよく聞こえない。よく聞こえないと思ったが、真剣に聞こうとして、むしろ、眠ってしまった。 担任の女教師は真剣な顔で入ってくると、睨むように見渡した。生徒たちは予定と違う担任の登場にむしろ静まり返った。 「現国じゃないよ」と、誰かが言い終わる前に、彼女は話した。 「新薙さんが、交通事故に遭いました」『え?』と、一瞬のうちに何人もが発した。「日曜日、お昼のことです。相手は居眠り運転。玄関から急いで飛び出したところに突っ込んできたそうです。それで……現在、危篤状態です」 和果子はこの奇妙な夢には意味があると分かっていたが、意味を思い出すのに時間がかかっていた。時間の感覚はない。しかし、放課後になったのはわかった。 『演劇部室……』そこへ向かうのが当たり前の行動だ。何かフワフワした感じで、全く進まないのに、ハッと気がつくと、部室に向かう廊下にちゃんと居た。 「全員はダメ」と、部長は部員に言った。「とりあえず私と木村さんだけで行ってみる」伝統ある演劇部では部長の言葉は絶対だ。和果子の病院へ向かうのは二人だけと言えば、他はついて行けない。 その二人が慌ただしく廊下を和果子に向かって歩いてくると、すれ違ってゆく。和果子にとっては本当に奇妙な夢だ。皆に無視されている、皆から見えていない状況だ。そうだ、きっと、『ここに居ないんだ』と、和果子は分かった気がした。 すぐ後から、部室ではなく、庭から廊下に顔を向けて和果子を見ている、いや、通り過ぎた部長を見ている数菜が居る。 「数菜」聞こえないのはわかっている。ここに居ないんだから。 「木村先輩」と、呼び止めている。「新薙先輩は今日はお休みですか?」 木村友香と部長は顔を見合わせる。「和果子は入院中よ。部室、行ってなさい」 数菜は結局、二人の後をつけて行く。「だめだめ」と、部長に言われようが、そのまま付いて行った。 和果子には言葉が聞こえていなかった。ただ、数菜を見てから、うずくまっていた。混迷に引きこまれたのだ。数菜、数菜、数菜……。 そうだ、急いでいたんだ、急いで行こうとしたんだ。急いで言わなきゃいけないことがあったんだ。達己に……達己……と、和果子はふらりと浮き上がって部室を目指した。が、そこには暗い顔の部員が各自、本読みをしていた。しかも、達己は居なかった。 数菜……。和果子は可愛い後輩を抱きしめたいと思った。そうしなければならないことは分かっていたが、その意味はわからない。ああ、わからない……。 いつのまにか和果子は下校していた。学校から駅に向かって歩いてるつもりだった。が、もう少し高いところを、もどかしい速さで移動しているだけに思えた。なぜか、足元を見る気にはならなかった。地に足が付いてないのが分かっていたからだ。 誰かが、見ていた。老人だ。ああ、見返り爺さん……思い出せた。が、見ていたわけではなかった。前を通っても全く気付かない。当然、目で追われることはない。やっぱり、私はここに居ない。そう思った途端に疲れはてて眠ってしまった。
病院のフロア受付で、思ったとおり、二人は壁にあたった。 「只今、ご面会はご遠慮いただいております」と、年配の看護師に言われると、もはやそれ以上は進めない。様態を訊いても、危険な状態と言われただけだ。危険には程があるだろう。命が危険なのか?どう危険なのか……二人はヤキモキして玄関から出た。二人、と言っても、実際はずっとついてきた数菜も一緒だ。 「だから、来ないでいいって言ったでしょ」と、部長は数菜に穏やかに言う。 三人は病院の庭のベンチに掛けてうなだれているしか無かった。こうしてる間に、危険が大きくなっているかもしれないし、回復に向かっているのかもしれない。掴みどころがなさすぎて、話す気にもなれない面々だった。 うなだれていると、近寄ってくる人影があった。数菜はさらに俯いてしまった。 「部長、来たんですか」と、言ったのは達己だった。 「君はいつ?」 「昼からです」 「早退したの。じゃあ、ずっとここに居るの?」 「昏睡状態だって聞いた。いつ、覚めるかわからないし……」 「そう、側に居たかったのよね」 それを聞くと、数菜は友香に顔を向けて、しょげるように俯く。 「ほら」と、友香は数菜に小声。「津川先輩の目も節穴ではない」 「私は帰るから。君たちも迷惑にならないように」と、部長は立ち上がる。 「僕も帰ります」と、達己は部長と共に離れてゆく。 友香と数菜は見送る。 「好きな人のそばにはずっと居たいはずなのよ。部長に図星、言われたからって、帰らなくても……。午後早退なんてなかなかやるじゃない」 数菜は彼らから白い病院に目を移す。 「死んじゃえばいい、なんて、思ってる?」 「え?」と、数菜は怖い顔を向ける。 「なにびっくりした顔、冗談よ」と、友香。 「木村先輩は知らないことがあります。−−新薙先輩は私に、手紙を書きなおさせたんです。なぜ、そんな事させたのか……」 「?手紙……何のこと?」 二人は一時間ほど、そこらをうろついていたが、駄目で元々、何か変化があったか、訪ねるために入ってゆく。しかし、危険な状態で、面会謝絶、病室も当然、教えてもらえなかった。心配しているだけでも時間が経つのは早く、さらに一時間近くロビーに掛けていると、看護師が探しに来た。 「良くなったわけではないの。少しの間、何か話しかけてください。やや覚醒状態にあるので、言葉を受け付けるかもしれないの。ご両親が話しかけてるけど、お友達にもお願いします」 両親と弟がベッドから離れると、それは頭に包帯を巻かれて、酸素吸入器を付けられた事故の被害者だった。目を閉じ、じっとしていて、友香には熟睡に見えた。 「ゆっくり、大声を出さずに」と、看護師が言う。 友香は頷いて、和果子の側で跪く。 「和果姫、友香だよ、分かってる?来てあげたよ、感謝しな。津川部長も、藤倉も来たんだぞ、クラブに来ないで、こんなとこに居るんだもん。みんな、心配してたよ」と、言いながら、たまらなく悲しくなってきた。もう、永遠に返事をしないのだろうか、等考えると言葉がままならなかった。 和果子は確かに気がついた。気がついたと言っても、自分を高いところから見下ろしていた。ベッドに横たわっている自分を見て、割と冷静に事故にでもあったのかと考えた。母が語りかけていても、何を言われているのか分からなかったし、友香が来ても、言葉はわからなかった。ただ、何かしなくてはいけないとの胸騒ぎを覚えると、自分が高い所ではなく、瞬間、瞬間で自分の中に戻ってしまう。 「先輩、ちゃんと話して」 数菜が何か言ってる。和果子は完全に暗い自分に戻った。 「私がお願いしてたこと、してくれたのよね」 『お願いしてたこと?』 「ちゃんと、渡してくれたんだよね。私、信じていいのよね」 『数菜、そうよ、私はしたんだよ、ちゃんとしたよ』 「そのことを、答えて欲しいの。先輩、早く、目を覚まして、私に答えて!」 『数菜、あなた、友香に何か言われて……。そうだ、私ね、手紙を渡したよ、私の手紙じゃない、あなたの手紙よ!』 苦しそうに微動すると、悪夢に悩まされているような表情を微かに見せる和果子。 「早口にならず、ゆっくりと、声も抑えて」と、看護師。 「早く学校に来て、新薙先輩」と、数菜は言葉につまる。
昨日、日曜日のこと、午前が終わる頃、電話がかかってきた。藤倉達己からだ。たまたま、電話に出たのは和果子だった。当然、内容は新薙が融通してもらえなかったことを達己が報告する件だった。 和果子と少しは会って人柄を知っての藤倉社長だからこそ、達己に率直に話してくれたとの事だった。 「よく話してくれたよ、親父。君が少しでも協力してくれたからか、気に入ったからか、お父さんの人柄を実は気に入ったからか…」 「それで、言いたくないこととかあっても、言いなさいよ」 「いや、結構、はっきりしてるんだ。4つある」 「4つ」と、和果子は電話機横のペンをとると、メモ用紙に構える。 「ひとつ。タバコ吸う時間が少ないと分かっていながら火をつけた。親父が行くと、すぐにもみ消して次に火をつけても吸えないくらいに折ってしまった」 「うちのお父さん、言ってた。吸えとばかりに灰皿とライターがあって、すわなきゃ悪いと思った」 「でも、折らなくてもいいよ」 「火事の原因はタバコの不始末よ、折っておけば万一消え損なってても大丈夫」 「なるほど」 「粗末なことが嫌なのね?」 「親父はお金の大切さが分かっている人にしか融通しない。そういうことは評判とかではなく、自分で見なきゃ分からないんだ」 「次は?」 「二つ。お金を使うビジョンが無い。ただ、持ってないと不安と言うことしか伝わらない」 「私の進学にどれだけ掛かるかは進路が決まってみなくちゃ分からない。お父さんは私には、心配するなと言うけど、ビジョンをはっきりしていないのは、私なのよ。私が大学諦めて就職すると言えば、ある程度解決する。弟もやがて大学に行くけど、それまでには仕事にも就いているつもりだし」 「うーん、三つ。公園に出てタバコを勧めたら、自分のを吸った」 「それってNG?」 「節約しなきゃいけない立場をわきまえてたら、甘えるべきだよ」 「ケチじゃないからね、凡人は自分の分を使うに決まってるでしょ。それに、父のタバコは最も軽い銘柄のはず。病気のリスクは損のリスクでしょ」 「ほう、いい弁護士みたいだ。――では、四つ。お気に入りの使い捨てライターをガスがなくなったとはいえ、許可無く捨てた。しかも、ご丁寧に壊して」 「捨てるのは、ごみを律儀に返したくなかったからよ。ライターを公園のごみ入れに捨ててしまったら、子供が悪戯するかもしれない。壊して捨てるのは消防士だった父として当然よ」 「そうか、そういうものか……」 「何よ!突っ込みどころ満載じゃない!そんなんで見極めたつもりなら、私が覆す。お父様に直接、談判よ」 「怒るなよ」 「父には、明るい材料が無いといけないの。欝を押し込めて仕事をする気力のために。……私、早く知ってたら、おじ様に先にお願いしてたわ!」 「覆すって……。もうひとつ、追加がある。お父さんがいきがって辞めることになったきっかけの事件」 「あのこと、知ってるのね」 「後先考えない行動が、周りに居るものにとって、君にとってだ。危なっかしいってことだよ。家族持ちは家族のこと考えて行動しなきゃいけないだろ」 「お父さんのいいところが出ちゃったのよ。人を助けるために火の粉の中に飛び込むとき、お父さんは……私たちのこと、忘れてるの」 「……それは、貸す側からすると、危ないんだ。分かってくれよ」 電話が終わると、外出着に替えて一刻も早く社長に直に会って談判するつもりだった。玄関から飛び出そうとしたとき、母から呼び止められた。そのタイミングでもう一つ、電話が掛かって来た。 それは木村友香からだ。 「金曜日は、二人でどこに消えたのかな?」 「え?あ、ちょっと、協力を求められたことがあって」 「案外、さっきの電話中も、藤倉だったりして」 「ええ?そ、そうだけど、それはちょっとプライベートな……」 「あれま、当たりなの」 「変なこと想像してない?」 「私にとぼけるのはよして。私は本気で吉野のこと心配してるの。あなた、吉野が藤倉好きなの知ってたでしょ。あなたが気がついてないなんてありえないし」 「ええ、まぁ。友香も知ってたってこと?」 「あなたが、先輩として、ちゃんとはっきり宣言すべきだったのよ。私が言ったら、なんだかすごくびっくりして落ち込んじゃって……」 「ちょっと、何の話?」 「吉野はあなたのこと敬愛してる。だから、あなたが、自分で、ちゃんと、藤倉が好きだって言わないといけないのよ。あなたに言われたら、あの子はちゃんと諦めたわよ、きっと。吉野が藤倉を思ってるの知ってて、黙って、和果子なりにアプローチするなんて、ショックよ」 「私が、藤倉君を?まさか、どうしてそんな事言うの?」 「ラブレター渡してたでしょ。あの様子はラブレターよ、藤倉の緊張した顔……」 「木曜日のこと?」 「私は吉野が可哀想になって、言ってあげた。あなたのためによ。吉野では和果子に歯がたたないって。和果子が白い封筒渡してた時の藤倉は目眩がするほど嬉しがってたはず。−−あの子は落ち込んだみたいだから、和果子から、ちゃんと慰めてよ。あなたを敬愛しているうちに」 「バカ!んもう、バカ。白い封筒なんて言ったの?私が私のラブレターを藤倉に?んもーっバカ!」 行かなきゃ、と思った。明日まで待てない、数菜に会わなきゃ。 和果子は勢い良く歩道に飛び出した。そのとき、信じられないものが自分に突進して来ていた。
フッと浮いた。和果子はそう感じた。浮く、浮く……。もう天井に着く。目が開いてない、見えていない、でも、分かる。そして、反転するまでもなく、見下ろせる。そこには私が横になっているベッドがあると、はっきり感じていた。友香と数菜が部屋から出てゆく。母も出る。父だけ残っている。 私は言わなければならないことがある。と、和果子は思い出した。 『数菜まって!』と、言おうとしたつもりだが、体は全く思い通りにならなかった。
病院からの帰り、暗くなったアスファルトをトボトボと歩いていた。友香も数菜も無口だった。生きるためか、死を迎えるためか、和果子の姿は二人には重すぎて、考えることも無かった。 「ちっぽけなことです」と、数菜がぽつりと言った。 「ん?」 「私が、先輩を苦しめたかもしれないし。私の気持ちを考えて、言えなかったかも知れないし。新薙先輩から聞かなくても、藤倉先輩に聞けば分かることです」 「……できるの?」 「先輩に……聞くことが出来なくなったら。人の命に比べれば……」 友香は立ち止まった。数菜は振り返って、その思いつめた顔を見ると、何か刺激することを言ってしまったかと思った。見ていると、端に寄って、俯いてしまう。 「木村先輩?」 友香はシクシク泣き始めた。数菜はただ、見ているしかなかった。 「バカって言われたの」と、友香。 「?」 「とんでもない勘違いかもしれない。和果子は、あのとき、行くって言った」 「あのとき?」 「電話なんか、しなきゃ良かった。私の電話で、和果子は……」と、言うと、そのまま泣きに入ってしまった。 数菜は結局、電話とか、泣きの意味を聞かされないまま帰宅した。
友香と同じ思いは達己にもあった。父には和果子が事故にあって危ないと言う事は言ったが、その原因までは言えていない。彼は父に話したものかどうか考えた。しかし、自責のの念に囚われてゆく自覚をどうすることも出来ずにいた。そうなると、分かりきっているが、とてつもなく悲しくなってくるのだ。 自室にこもると、和果子を心配するあまり、心が潰れそうで怖い。達己は食事が終わっても食堂に残っていた。 「いい子だよ、素直で、暖かそうな、和菓子っぽい子だよ」と、父が言って、席を立つと、タバコを買いに出る。それを機に、心配顔がはっきりと見て取られる、しんみりとした雰囲気の中、母は萌菜香と共に洗い物を始め、、妹も掛ける言葉を失って、自室に行ってしまう。ため息をついて寒いような腕組みをして俯く達己は心配で潰れそうな分に加えて、自責の念と戦っていた。 何分が過ぎたのだろう。静かなダイニングに近づく足音。横に立ったのは萌菜香だった。 「もう、帰ります」 「あ、うん、お疲れ様」 「そんなに心配なの?」 「もちろん」 「大して好きでもない子のことなのに?」 「え」と、達己は顔を向けると、ムッとした顔でテーブルに向き直る。「好きさ」 ふっと、後頭部に何か触れたと思うと、萌菜香の両手が達己の胸元前で組まれた。お互いに黙っている。達己は後頭部の柔らかいものが心地よかった。 「ごめんなさい」 「いいんだ」 「やっぱり、そうでしたの。−−私にできる癒しは、このくらい。達己さま、自分を責めてはいけませんよ」 達己は思い出した。公園で携帯電話をし終わって家に入ったんだ。あのとき、「デイトの約束?」と、冷やかした萌菜香が居た。 「見てたのか」 「いいえ、電話されてるのをお見かけしただけです。聞き耳なんて立ててませんよ」 「ワガシが来るって言うんだ」と、言った。それを知っているのは萌菜香だけだ。 萌菜香は達己の頭を抱くようにして、「誰にも、電話のことは言ってないのでしょ」と言う。 「モナカさん」 「モナ、若しくは平山とお呼びください」 「あんなに慌てて……」と、達己は泣き声。 「達己さまは馬鹿な人」 「ん?」 「電話をかけなかったら、時間がずれてたら……そんなことはおよそ、無数の『もし』の一つ。無限の中の1は0なんですよ。無限から一を引いても無限。だから、その一はゼロ、無意味です」 「ゼロ?」 「もし、あなたのご両親が結ばれてなかったら、あなたは居ない。もし、ワガシさんが生まれてなければ……。そこから現在まででもいっぱい『もし』がある。ワガシさんと知り合ったこと。新薙様が内海様の知り合いだったこと。ワガシさんが金曜日にお父さんのことを知ったこと。現実の中に生きているのだから、関わりがあって当然です。無限にある『もし』の中で電話のことだけに焦点を当てて意味を持たせることはフィクションです」 「……うん、そうだね。ありがとう、モナカさん、いや、モナさん」
夜道に人が立っていると思いきや、それは「社長」と、声を掛けてきた。見ると、それは川越屋の吉野だった。 「私は心を込めて創りました。どんな技術か、どんな着想が昇進に値しなかったか、正直なところを知りたいのです」 「うちに来るつもりだったのか、こんな夜に。電話でも良かったんでは?」 「電話では私の知りたい気持ちが伝わりません。ちゃんと聞きたいと思いました。……味はどうでしたか」 「旨いと思った。広瀬さんに販売計画を推進するように言ってある。−−功績にはなるよ。しかし、品評会の審査員じゃないんだよ私は。身内としての評価が昇進試験には欠かせない。唯一のグループ会社の実質、技術統括になるのだ。そんなところに他人を据えたくないのは人情だろ。やっと、私にだけ、真剣さを見せたわけだ。君は、今していることを、下の職人や本店の人、周りの人に見せてこそ、山路さんに追いつけるということに気付いてない。山路さんの真剣さに追いついてないんだ。真剣な姿を見せることで、周囲のサポートを得る。、君に続く職人の育成にもなる。育成とは、技術の伝授ではない。山路さんからたくさんの真剣な質問を受けたことが、君を育てたに違いない」 「どうしたらいいんですか」 「今、君は君なりにすべきことをしているんだ。しかし、私にしてはいけない」と、言うと、藤倉は一歩近付く。「いちいち言うのも情けない。……あと半年で、君は君の弱さと真剣さと実力を周囲に見せて、人望を得るんだ」 藤倉は「行くよ」と言って、数歩歩くと、振り返る。「吉野の菓子なら大丈夫だ、試食はいらん。そんなことが言える日が来るんだろ」 吉野が何も言えないで居ると、藤倉はバイと、ひとつ手を振り、歩いて行く。吉野は深呼吸して闇を見上げた。 『吉野君、砂糖の調合、助かった。今回はあれで行くよ』と、山路の声を思い出した。『両神はできない、困らせてしまうが、品質第一だ。−−困るのは俺じゃない、店員には売るものが必要なんだ。手順どおりに作ってくれる職人も、作るものがなけりゃ困る。川越屋が困る。−−ベートーベンってやつは偉いよな、聞こえないで音楽が作れる。俺はダメだ。味がわからなきゃお菓子が作れん。川越屋を頼んだ』 吉野はハンカチを目頭に当てた。藤倉の姿は見えなくなっていた。「明日から、本店のキッチンは僕のものだ」とつぶやいた。
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