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作品名:ふあざーず 作者:胡桃

第2回   【2】和菓子と和果子
 どういう人物かを見極めるとき、他人の評価ではなく、自分の目しか信じない。そういう人だと、萌奈香は知っていた。本日のお客様にもすぐには会われず、応接間で待っている様を書斎で観察するのだ。
 萌奈香は灰皿を綺麗にせず、吸殻を残したまま客を迎える準備をした。どんな人を迎えるにしても、生花を書棚のスペースにあしらうのが社長流だ。安くても小さい花々が愛らしい背の低い一輪を差した花瓶を置くと、応接間を出て書斎をノックした。応答があると、「お掃除終わりました」と、声をかける。
 藤倉はやはりパソコンの画面に隠しカメラで撮っている応接間の画像を見ていた。
「モナカ君、よく、斉藤さんとこに雇われることになったね」
「平山、若しくはモナと呼んでくださいませ。それで、何かお気に召さないことがありましたか?」
「灰皿だよ」
「はい、綺麗な灰皿には灰が落とせない人も居ますし。あえてタバコを吸う人だと聞かされたからには、御吸いになるところをご覧になりたいかと思いましたが」
「んん?」と、藤倉は振り返って若いメイドを見ると、フッと、笑う。「なるほど、君は面白いなぁ」
「私は斎藤様のお嬢さまのお世話をすることで採用いただいたはずですが、どうして一ヶ月もこの家でお勤めするのか、分かりません」
「秘書的な事もできる経験の場にしたいのだろう。斎藤さんのわがままだがね。採用試験のつもりで私の役に立ってくれ」
「そう思って勤めさせていただきます。お嬢様とは扱い方が違いすぎると思いますけど」
「それはご期待に添えませんで。あ、やはり、モナカと呼ぶよ。いかにも和菓子にちなんでるじゃないか」
「私はサイチュウではありません」と、ドアを締める。萌奈香はキッチンに向かうと、紅茶の準備を始めた。もちろん、早すぎる。客が来て、五分は藤倉は面会しない。お茶はその後になるからだ。
 新薙は自然体で誠実さを重んじていればいいと思った。そもそも、内海君の話では、その人はなかなか人を信用しないから、基本的には駄目で元々らしい。万一のことがあるとすぐに破綻する家計を落ち着かせて、欝病を物ともせず仕事に打ち込んで経済的にも、家長としても挽回せねばならない。
 萌奈香が通したのは掃除された応接室だ。新薙はソファに掛けて落ち着くためにも周囲を観察した。よく片付いた応接は接客応対のためだけに作られた部屋に徹していた。テレビもビデオも設備されているが、予備電源も入っていない。シャンデリアが似合いそうな部屋には天井にへばりついた照明がなんとも冷たく味気なく思え、ビジネス志向が伺える。しかし、書棚の一輪は生の花なのだろう。造花はもっと華やかなものだ。
 部屋に通した後、萌奈香はすぐに入ってきて、「社長は五、六分ほど遅れますので」と、言って、何気なくライターを灰皿に乗せると、出て行った。
 藤倉は書斎で新薙の様子を見ていた。落ち着きなく、部屋を見回している。かと思えば、視線は天井で、右手で左手を揉んだり右が揉まれたりしている。三分以上でも、タバコを吸う様子はない。たばこを持ってなかったかと思った頃、おもむろにポケットからタバコを出して、目前のライターで点火、吸い始める。藤倉が応接に行こうと決めていた六分はそれからすぐに来た。
 藤倉が応接に入ると、新薙はまだ三分の二もあるタバコをもみ消して、しかももはや吸えないほど折り壊してしまった。
「お世話になります」と、新薙が言う。
「それは早いですよ、それが出来るかどうかは少しだけ時間をいただかないと」藤倉は向いに掛ける。
「事情は聞かれていると思いますが、私は−−」
「聞いてます。事情はまぁ、色々です。子供、家族を抱えての経済的な不安は……少々蓄えがあっても、拭いたいものです。内海に打ち明けることも、辛いと思いますが。少々、臆病になっておられるように感じます。明日の糧がままならないという状況でもないのですし……」
「それでは遅い。万一の事態にうろたえることになります。ええ、確かに仰るとおり…」
「臆病は無理も無いですよ。恐怖というものは人それぞれです。私のほうがもっと臆病だとも言えます。会社がおおきくなれば恐怖が拭えるかと言えば、どうだかね……」
「内海には」と、小さく笑うと、「ダメ元でお願いしろと言われましたが、ダメでは困ります」と言って、椅子の脇に立つと、床に正座する。
「新薙さん」
「百の二本」と、言うと、上体を倒して両手を付く。「お願いします」
「下座は困ります。暴力ですよ」
「僕にできることをするだけだ。通じないとはわかっていても、するべきことをしないで帰るわけにはゆきません」
 藤倉は一息つくと、立ち上がる。「やれやれ、出ませんか」と、扉へ向かう。
 新薙が付いていったところは、表にある広い児童公園の門だった。ほとんどが地面で、鞠を投げて遊ぶ女の子が数人居る。手入れの行き届いてない藤棚の下には灰皿があった。
「私の喫煙場所です」と、藤倉は少女らを見る。それで、新薙も見る。
「たくさんの人を救助したんですか?」と、藤倉。
「いいえ、若い頃に、おばあさんと、子供と、まぁ、在勤中、二人だけです」
「危険な場所に入るときは、家族の面影が脳裏を掠めるのでしょうね」
「いいえ、それはないですね」
「ほう?」
「人が居るか確認する、居たらそのひとを救助する。そこで臆病になったら、自分が危険なんですよ。でも……。仕事が終わってから、無事でよかったとしみじみ思います。時には、自分がさっきしたことを思い出すのも怖いことがあります」
 藤倉はタバコを出すと、一本取り、新薙にも勧める。しかし、新薙は自分のものをポケットから出した。藤倉は優秀な百円ライターで火をつける。まったく液が見えないのに一発着火だ。
「すみません、ライターがないんです」と、新薙が言うと、藤倉はそのライターを手渡す。
「もう一滴もないでしょう。点かないかもしれない」
 新薙がパチッと音を立てるも、火は点かなかった。「ああ、もう寿命ですか」
「寿命か」と、言いつつ、藤倉は初めて発火しなかったライターの寿命と新薙の不運を重ねて見た。
 新薙は二度パチパチとやると、小さく炎が見えた。タバコに火を点けると、「要りませんね。ご苦労さん」と、言って、ゴミカゴに歩み寄ると、コンクリートの段を使って器用に踏み壊して投げ入れる。
 藤倉は『あ』と、思わず言いそうになった。点かない使い捨てライターは捨てられる。その手間をとったのだと思ったが、神棚に上げようと思ったものが壊されたというのはショックだった。
「どうして、医療行為、救出行為をしたんですか?」
「はぁ……したかったから、では、わがままでしょうか」
「命を助けて、正直、名を上げたかったとか?」
「……そんな風に考えるのは、何というか、目からウロコと言うか……」
「許されないことをしているかもしれない、そう考えるべきだったと思います。違法行為、間違った行為は、あなたの経済に大きな影響があり得ると考えるべきです。知識として、非番での救助は違法と分かっていれば、家族のことなど、全体から考えて、したいからする、的なことは慎むべきです。そういうあぶなっかしいところが、結局、あなたを豊かにしない……そんな構図があるのかもしれないというのが、率直な感想です」

 新薙和果子は携帯電話を持っていない。そういうものの出費は自ら望まないことにしている。友達との電話連絡は家にある据付電話ということになる。和果子は数菜の電話番号を知らないし、数菜も知らないから掛けてこられないはずだ。だから、例の手紙を渡した時の様子は話せていない。そんな情報は特に意味が無いが、少なくとも迷惑そうではなかったくらいは言ってあげられるのだ。しかし、翌日の休憩時間はことごとく小用で一年生の教室まで向かう余裕がなかった。数菜も和果子をたずねなかった。
 放課後すぐに、和果子は隣の同じ二年生の教室を覗いて木村友香を引っ張りだした。
「ごめんなさい、私、今日は行く所があるの。部長に言っといて。それから、吉野が私を探すかもしれないけど、今日は早く帰ったって言って」
「あれれ、藤倉君もそんな事言ってた。なんかもう、慌てて帰っちゃったわよ」
「そ、そうなの。実は、藤倉の用事と同じ。頼まれ事があって」
 和果子はその日、藤倉の家を訪問することになっていた。と、言うのも、お菓子の試食会に参加して欲しいと頼まれたのだ。和果子も慌ただしく、友香から離れて行く。
 友香はため息をついて、「やっぱりそういうことなんだ」と、つぶやく。
 友香がいつものように部室へ来ると、吉野数菜は居なかった。意外にも部長は藤倉からすでに和果子と共に欠席することを聞いていた。それにしても遅いと、窓辺に寄ると、数菜は外にいた。しかも、部室を見ていない。木に寄りかかって足の爪先あたりをじっと見ている。友香は走り出た。
「何してるの?」と、声をかけると、数菜は向き直る。
「新薙先輩は来てませんか?」
「今日はね、急用みたいで、出てったわよ。私、あなたにそれを伝えるように言われてたけど、来ないから……」
「あ、そうなんですか」と、何か心配そうに視線を外す。
「さ、行きましょ」
「今日は、私も帰ります」
「どうして?藤倉君が居ないと張り合いがない?」
「居ないって」
「彼も用事でね、さっさと帰ったわよ」
「そうですか……。いえ、部活します」
「ねぇ、藤倉君には和果子が好意を持ってるの。友達以上のネ」
「え、えぇそんなことはないです」
「あなたにどうしてそんなことが言えるの?」
「だって……ありえないです。なぜ分かるかは……」と、数菜は書き直しを指示した和果子を思った。
「見たの。和果子が恥ずかしげに封筒を渡すとこ」
「それは……」
「なんでもないものなら、私のいる前で渡せばいいのに、わざわざ引き返して渡してた。藤倉君もね、困った顔したように見えたけど」
「え?」
「あれは演技ね。だって、私、和果子が彼を好きだとは思ってなかった。そう、私の目はまだまだ節穴だった。でも、藤倉君は和果子が好きよ。だから、びっくりしたんじゃないかしら」
「ええ?」
「今ごろ嬉しくて……あ、二人仲良く……はありえないか。まさか部活サボってまでデイトする軟派じゃないわね和果子は」
「ありえないです」
「硬派だもんね」
「じゃなくて、新薙先輩が……」
「見たのよ、白い封筒だけど横型よね、可愛くないけど和果子らしいと言うか」
 数菜はこわばった顔を向けたかと思うと、「今日は帰ります」と、小走りに離れてゆく。
「言わなきゃよかったのかな」と、呟くと、友香は歩いて部室に戻る。「実らない儚い夢こそ悲劇かな」

 確かに、数菜のことは気になる和果子だった。半ば強引な達己の願いを受け入れたものの、明日と明後日の学校が休みであることもあって、今日にも返事をして欲しかった。良い返事でも、希望のある返事でも、安楽死させる返事でも、返事を決めるのは達己だ。和果子は半殺しをやめろと言わなければならない。君の前で裸になった少女を包むも追い返すも自由だ。ただ、放置はいけない、と。
 本当に達己は先に帰っていた。一年生の時、一度グループでお邪魔したことがあるが、道を覚えていると思い込んでるようだ。まぁ、公園の向かいだから公園を発見すれば一周するまでには見つかる。
 萌奈香はそのコスチュームが女子高生を物語る少女を玄関で迎えた。「達己さんのお友達ですね」
「はい、新薙和果子です。遅くなりましたか……」と、萌奈香に見とれていた。コスチュームがメイドを物語っていた。ほとうに若いメイドさんて居るんだと思った。
「いいえ、どうぞ、ご案内します」
 和果子が通されたのは応接室で、そこには小洒落た私服の達己が居た。通されるままに、一人掛けに座る。つい先日、そこに父が座ったとは知らない。
「もう着替えたの?」
「僕はね。君はそのままでいい」
「当たり前よ。ね、メイドさん雇ったの?」
「あれは、借り物っていうか、他所の人だよ。たまたまうちで研修してるんだ」
「お父さんの関係?」
「サイト製薬工業の会長か何かのお屋敷に勤めることになるらしい。あの……君はどう思う?その……手紙の内容だけど」
「何言ってるの、内容を知らない人に感想を求めてるの?」
「感想?…いや、そうじゃなくて」と、悩ましげにうつむいてしまう。
「何?どうしたのよ」
 しかし、彼の姿勢は変わらない。
「無理しなくていいのよ。こういうことは八方美人というわけには行かないから。イエスかノーだけが答えでもないし。答えが自分でもわからないと言うのも答えだし」
「君はどう思うんだ?」
「また……」
「うまく行くのがいいと思っているのか、どうでもいいのか、うまく行ってほしくないとか」
「ほしくない?」と、和果子はちょっと考えて達己を見る。達己は見返して目が合うとうなだれる。
「そ、そうね、私は、結果として、いい返事をしてほしい。数菜はいい子よ。素直で慎ましやかで、でも、情熱があって……」
 達己はため息をつくと、「わかった。月曜には返事をするよ」と言う。
 藤倉、達己の父は忙しく入って来ると、出かけようと声をかけた。
 ワゴン車の運転席に年配の男、助手席には藤倉、後ろに和果子、達己。その後ろに萌奈香が乗った。運転席の男を和果子はどこかで見たような気がしたが記憶の破片が反応しているだけで、その人を知っているのではないと思った。
「近くだからね。食べてもらうだけのことだから。我々一行は若手代表だ。まぁ、私を除いては」と、藤倉の声は大きい。
「お菓子って何?」と、和果子は達己に。
「和菓子。お得意様を招いての試食会は別に開催されてるんだ。川越屋の社長が仕切ってね。僕らは非公式なのさ」
「ちゃんと感想を言ってくれそうな人を連れて来いって言ったら、君が引っ張られたんだよ」と、藤倉。「白羽の矢だか何だかが、当たってしまったのだから、ご協力お願いしますよ。で、彼女は演劇部の先輩か」
「違うよ。同学年だし。まぁ、部長になる人だけど。感性は鋭いと思ってるんだ」
「私みたいなどこの子かもわからない子に何をお願いされるのでしょう」
「達己の白羽の矢だ。これから少しだけ付き合ってほしい」と、藤倉。
「この子ね」と、達己。「和果子って言うんだ。和菓子から草冠を取っただけなんだ」
「おおお、すばらしい。今日は和菓子さんと最中さんの遭遇だ」
「私はサイチュウではありません」と、萌奈香。
 そこは『川越屋本社』なるところで、小さいビルの一階に和菓子の店舗があった。和果子らが通されたのは、そのビルの三階の小さな会議室風の部屋だった。
「作った人は居ない、だから、大声でこれは食えないと言っても大丈夫だ」と、藤倉は和果子に言う。
「始めます」と、運転していた男、内海統括部長が入って席に着くと、店員風の若い女性がワゴンを押して来た。
 各自に配られたのは、お茶と、透明感のあるゼリーのようなものだった。
「二品です。まず、一つ目は『春を想う』さくらんぼは春ではありませんので、むしろ、回想的な意味でしょうか」
「なんだ、聞いてないのか」と、内海
「以前、熊谷の社長様が、余計な情報は要らないと申されたとか」
「ほう」と、藤倉。「で、君がそう思ったんだね?つまり、回想」
「はい」と、彼女はお茶と、スプーンを配る。「専用の楊枝を作るとすればスプーン的なものがいいと吉野さんが仰いましたので」
 女が部屋を出ると、「頂こう」の藤倉の声に、全員が食べ始める。
 おぼろげな紫系の上に透明部分が広がるゼリーのような四角いものにさくらんぼが入っている。味気なさそうなさくらんぼのゼリー固めに見える。意外と透明部分は硬く、食べると、ほぼ羊羹に感じる。しっかりとした歯ざわりにちゃんと小豆を思わせる味。さらに、さくらんぼについては何はっとさせられる。外側、果肉、種までスプーンで切れる。
「参考価格は?」と、藤倉。
「300円です」と、内海。
「うん……360円でもいい内容だな。ショートケーキ一つに対抗できる。どうかな?ワガシさんは」と、和果子を見る。
「そうですねぇ、大分損してるんじゃないかしら。ぱっと見にさくらんぼ入りゼリーです。そして、もしそうなら味が想像できちゃいますし、私はその上で美味しそうに見えませんでした。でも、食べてみると、これは羊羹が好きなら目先の違う羊羹として楽しいです。特に、さくらんぼが和菓子で作られた偽物だった時点で、なんて言うのか……楽しいです。洋菓子のようで和菓子に徹していますし」
「そうだね」と、達己。「さくらんぼの枝の部分までが作ったものだし、感心するね」
「透明に近い羊羹というのは」と、和果子は続ける。「涼しげで、暑くなってきた頃に、ふと、春の、桜の季節を思う……春を思うというネーミングは七月頃に食べるお菓子にぴったりだと思います。こんな感じの感想でいいでしょうか」
「うん、なかなか、感性がある人のようだ」と、藤倉。
「この、人によってまちまちの、方向の定まらないサーヴ、これは感心しません」と、萌菜香。「お菓子、器には位置が有ると思います。お湯呑のデザインにも見る方向があります。それから、スプーン、私のは水滴がひとつありました。洗いたてでも拭きとっておくべきです」
「まぁ、お客様がどんな器でどんな食べ方をするかはまちまちだ。君のサーヴで食べたらよかったかもな」と、藤倉。「それで、肝心のお菓子は?」
「七月というのは、さくらんぼの季節ということで、ここにあるのはそれに似せたものだから八月でも九月でも、今でも提供できますね」と、萌菜香。「小豆の濃厚な煮汁の比較的上澄みを使って作られたものだと思いますが、桜と春をさくらんぼを見て思うということで『春を想う』というよりはそもそも、味が春を思わせます。おそらく、桜の花びらの塩漬けを塩の代わりまたは一部に使っていて、春を想わずには居られないくらいの力のあるお菓子です」
「え、そうなんですか」と、和果子。「メイドさんてすごーい」
「恐縮です、お嬢様。−−わからないほどの桜の香りで心に訴えるより、ここに桜の花びらをひとひら残して、わかりやすくしたほうが、さくらんぼゼリーに見えない、和風のお菓子であることと、高級感が醸し出せると思います」
「うーん、君は面白いなぁ。斎藤家が採用を決めるわけだ。お菓子の芸術としては高尚すぎるということだね」と、藤倉。
「ショートケーキに対抗できるが、食べてからですね」と、内海。「お嬢さんの言われる通り、損してますよ。むしろ、四百円で提供することで見た目とは違う、意味有りげな感じが伝わるでしょうか」
「しかし、四百円ではリピーターが付くか……。二個食べれば八百円だ」
「逆に、参考価格の三百円というのは……それほど手軽に作られるんでしょうかねぇ、ある意味、工芸菓子的な感じもあるし、どの店舗の職人でも手軽に作られるのか……」
 次に現れたのは『小ぶり甘夏』という鮮やかな黄色のミニチュアな甘夏だ。見た目は本物とそっくりとは行かないが、さわやかな甘さと酸味が誰にも想像できた。甘い豆の粉を組み合わせて作ってあるが、みかんの皮はちょっと硬くてさっくりと切れない。
「生八橋みたいな膜ですね」と、和果子が言う。
「中の黄色い餡は思った通りって感じだし」と、達己は口に入れる。「うん、期待通りの味。さっきと違って、思った通りのお菓子になってる」
「これは」と、萌菜香。「甘夏ではなく、レモンとオレンジ系のエッセンスですね、香料もありますが、ほのかで自然です。こういうみかんとして成り立っているような、甘夏の真似ではないと思わせます。果肉にゼリー状のものが入っていますが、しっかりとしていて、歯ごたえが面白くて、日保ちもするのではないでしょうか。お家で食べるもよし、おみやげにもよし、安ければ、たくさん買ってもいいと私は思います」
「しかしね、これが安くないんだ。やはり参考価格は三百円」と、内海。
「一つでは物足りない大きさだ」と、藤倉。「これこそ、単に型にはめて作るお菓子よりずっと手間がかかる。二百五十円でも四人分で千円か。モナカ君の言うとおり、歯ざわりもいいし、香りもいい。暑くなると水ようかんが売れるが、こういうのが売れて欲しいがね」
「作っている過程がわかれば、他の職人に意見が聞けると、広瀬社長は言ってましたが」
「前回も言ったはずだ、広瀬さんにも言った。山路さんを見習えと」
「両神……のつもりなんでしょうかね、さくらんぼの方は」
「山路さんの後を継いで作ったお菓子だというのか。『春を想う』というのが山路さんの作りたかった川越屋の定番なのか」
「いや、もう少し、真摯で重い……宗教的な……敬虔、とでも言いましょうか」
「何を考えて作ったのか誰か知っているのか?」
「誰も知りません。吉野は陰で努力するタイプです」
「それがいけないと、前にも言ってる。あの山路さんですら、若い職人に率直に意見を求めて活路を見出そうとしたんだ。陰で努力とは見えないとこでコソコソという意味ではない。そもそも、材料を持ち出す時点で社員が勘ぐることができるだろう」
「材料は持ち出してません。独自で買い込んでるようです」
「熊谷の製品を商社から買って新作を手がけたというのか」
「熊谷の原材料を仕入れて研究したようです。熊谷に加工法を要請することになるでしょう」
「うちはリアルタイムで要請に従う気概はある。いっしょに新しい材料を開発するいい機会だ」
 和果子は「吉野って……数菜?」と、小声で達己に言う。
「そうだ」と、俯いて首を立てに振りながら言う。
「それじゃ、もっとうんと褒めとくべきだった」
「ちゃんとした意見感想以外はいらない」
「まぁ、会社思いなのね」
「前回の指摘事項だ!」と、藤倉は不機嫌になってきた。「一緒に研究したものを熊谷から、ちゃんと川越屋を通して買うくらいの気持ちがなけりゃ、周りも協力する気持ちが持てない。もちろん、川越屋は特別価格で流してやればいいんだ。陰でコソコソやって、成功はすべて自分の功績にしたいというやつは、成功してはいけない!」
「材料は安く仕入れたいでしょうし、この件と評価は切り離して……」
「そうは行かん。微々たるものでも川越屋から物を買って貢献する気概が重要なんだ。内海さんにも解らないか?吉野は本社の調理場を使わないで他の職人に使わせている」
「はい」
「自分が一番使いたいはずなんだ。なぜ使わないか?基本的な材料も使えない、場所も、水道代も、ガス代も電気代も使いたくないんだ。あいつはたったそれだけのプレッシャーから逃げてる。会社の設備を堂々と使って、傍に迷惑を掛けて協力を受けて、そうやって最高の職人が川越屋の代表作を生み出してゆく過程を皆が知る。やがて評価や売れ行きをみて、皆に讃えられる、職人は皆のおかげだと思う……それが会社だろう!」
「仰るとおりです。山路さんがそうしてたように、吉野君も見習うべきですね」
「水臭い奴のお菓子が他の職人より高く評価されてはいけない。気持ちという霊的なものが最後は力や出来栄えを左右するんだ。物を作ることは魂を分け与えることだからだ」と、藤倉は内海以外の者を見渡す。「つい、大きな声を出してしまった。よくあるだろう、最後の隠し味は愛情だってね。でも、本当にそれが入っているかどうかで評価が違うんだよ。湯呑の向きか……サーブした人の愛情の程度が知れるってわけだ。愛情はどこで人をいい気持ちにさせるかわからないものだ。計算はできない。だから、感謝の気持ちを持ってものづくりに取り組まなきゃいけないのさ」
「心はこもっているはずだと彼から聞いたことがあります」
「心はこもっているさ。およそ、すべての職人が心をこめているのだから、それなしでは競争に勝てない。材料と設備と機会と人に感謝する気持ちが、出来上がるものに込められなきゃいけないんだ。それでこそ、山路さんの作った、川越屋の一味違うお菓子を継承できる」

 家の近所まで和果子は車を回してもらった。降りる寸前で、今更、和果子が新薙姓だと知った藤倉は彼女が降りると、内海に訪ねた。
「あの新薙氏の娘か?」
「新薙君には娘が居ます。小さい頃は見たこと有るはずなんですが……」
 和果子は降りざま、達己の手を引いてもろとも降りた。
「今日はありがとう」と、達己が言い終わる前に、和果子が「ねぇ」と、言う。
「内海さんて埼京大学出身?」
「そうか……言いたいことはわかった。内海さんの大学なんて知らないけど、やっぱりな。うちに来た新薙と言う人は君の……」
「そうだったの。どうして!どうして融通してもらえなかったのか、あの調子で、何か気に入らないことがあったのか、知りたいの、教えて」
「知らないよ」
「だから、私にナイフ突きつけられて教えろと言われたって言って聞き出して」と、メモ帳に電話番号を書いて渡す。「土日中に答えなさいよ。さもないと演劇部から除名」
「何の権限だよ」と、メモを受け取る。
 和果子は自分の父がどんな人かを、成長と共に分るようになってきたと思った。家族思いで真面目で明るい人だと思うからこそ、今の欝からの脱却が待ち遠しかった。どんな事でもいいから明るい材料が父を明るい父に戻してくれたらいいと思っていた。しかし、昨日の晩に内海という紹介者から今回の借金の話が断られたと言う、後ろ向きな情報をもらったようだ。藤倉社長ならなにかしっかりとした理由があるだろうと、俄然、聞かずには居られない和果子だった。


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