【1】
やはり、一発で程良い炎を上げてくれた。たった百円のライターが、それだからこそ感銘を与えてくれる。藤倉は公園の灰皿脇でタバコを吸い始めた。部屋よりも庭よりも、ここがいいと思っていた。公園には他所の人が居るからだ。大人も子供も遠慮無く居る。人が共存している空間が藤倉は好きだった。 時々来る商店の店主が、同じ灰皿脇でタバコを出したは良いが、衣服を触ってライターを探している。「あれぇ」と言って、結局、無かったようだ。 「社長さん、火、頂けませんか」 「ああ」と、中の液体が全く見えなくなった百円ライターを差し出し「さて、点きますかねぇ」と言う。 しかし、そのライターは店主がカチッと音を立てると、一発で程良い炎を上げてくれた。いったい、いつまで一発で点いてくれるのだろうかと思いながら、藤倉は最後の最後まで使ったら、幸運を失わないように暫くは神棚に置いておこうとすら考えていた。工業製品で全てが同じ仕様、同じ性能で作られているはずのものから、こんなにも優秀な一つにめぐり合ったことに、幸福感を味わっていた。 短いタバコタイムが終わると、書斎に戻って、仕事の続きをするのだ。熊谷特紛株式会社は特殊な小麦粉や高級な餅粉などを扱っている。地元で有名な和菓子メーカー、川越屋を創り、事業も成功している。 書斎に入ると、若いメイドが掃除機を掛けていた。 「すみません、もう少し、遅くに帰られると思いましたので」 「タバコ一本、根元まで吸ってきただけだ」と、藤倉はデスクに着く。「いいよ、続けてくれ」 「いえ、やめておきます。埃もありませんし。また、外出される折には声を掛けてください」と、彼女は掃除機をかかえて部屋を出ようとする。 「そうだ、外出するよ。二時になったら内海君が来る」 「統括部長様ですね」 「そのあと、川越屋の広瀬さんに会って、お得意様試食会の説明を聞く。近々、我々も番外で試食させてもらうから、モナカ君も行こう」 「どうぞ、モナと呼んでください」これを何度も言った萌奈香だ。 「和菓子に因んだ良い名だ。気に入ってるんだがね」 「因んでません」 「そのときは君も一緒に来給え。川越屋本社に行こう」
その頃は和菓子ならぬ和果子(わかこ)は当然、生きていた。高校2年、人生で一番ゆるい時期の終焉である。 和果子は演劇部に所属していた。今でこそ十二名のクラブだが、四十年前は五十名で地区大会優勝もした伝統あるクラブだ。この衰退は全校的な、いや、全国的な傾向であった。伝統のあった音楽部は全盛期、多額の部費を勝ち取り、オーケストラを編成する勢いだったが、吹奏楽、アンサンブルと変貌し、この度、軽音部との併合問題に進展した。ましてや棋道部、煎茶部は廃止が決定していた。文芸部は演劇部が吸収するか読書愛好会、新聞部と併合するかというところまで衰退した。 「予算予備会議の結果です」と、演劇部室に揃った銘々の前に立って津川部長が話し始めた。 和果子は次期部長が決まっていた。次期副部長は和果子が藤倉達己を推薦し、部員の承認は得られていた。現部長は予算会議で予算を獲得した時点でお役御免となるのだ。それもあって、和果子は最前席で部長の話を聞いた。 「4名未満問題、音楽部問題、文芸部問題とありましたが、生徒会案が可決されました。来年から部費の割り当ては学生数の減少と共にかなり少なくなりますが、それを承知で、部の最少人数を4名から3名に変更します。三六の部活を学校は存続することになりました」 周囲は感銘の声を上げた。それでいいのだと言うおおかたの声だ。 「これで、我々演劇部の文芸部問題は解決しました。他所の部が併合することはありません。人数は減少し、予算は減ります。それで良かったのよね」 「演劇に興味ない奴らが入ってくる意味ないからな。併合しても文芸部が無くなるのには違いない」と、三年の男子が言う。 「文芸部の創作を演劇部が実演するという構図が職員会議の併合案になったんだけど、これに賛成だった新薙(あらなぎ)さんはどう?」と、部長が和果子に振る。 「アマチュアの作品をアマチュアが演じるというのは刺激し合えると思いました」と、和果子は答える。「でも、反面、私たちはしっかりとしたシナリオを元にプロとの違いを感じながら演じたいとも思っています。正直、評価が怖いんですよね、私たち。面白くないとなったときに、本がまずいのか演者が下手なのか、そういうデリケートな部分を心のどこかで嫌っていたりします」 「和果ちゃんはシナリオを担当してるだけあって、気付かせてくれるものがあるわね」と、部長。 「私は」と和果子。「シナリオを部員用に改ざんして、面白さが損なわれることばかり気にしてましたから。だから、オリジナルとなると、すごく怖いです」 「私は和果ちゃんにいっぱい助けてもらって、演出させてもらって楽しかった。部長を引き継いだら、あなたは演出も脚本もすることになる。大変よ」 「脚本は……数菜に手伝ってもらうから」と、吉野数菜を見ると、彼女も見返して、厳かに首を縦に振る。
帰り道、その日は二年生三人で学校を出た。四人だったり、最近では数菜が一緒だったりしたが、ともかく、その日は三人だった。一人はバス停が近づくと、そちらへ別れ、暫し藤倉達己と二人になった和果子だ。しかし、達己は近辺に住んでいて、駅に着く前に別れてしまう。 道の傍らにつっ立っている老人が居る。 「今日は見返り爺さんが居る」と、和果子。 「見るな見るな」と、達己。 二人が通り過ぎてしばらくすると、和果子が振り返る。と、老人もじっと見ている。「見てる」と、向き直る。 「よっぽど女子高生が見ていたいんだろ」 「別にいいけど、いろいろ想像されてたりしたら嫌よ」 「色々って……。文芸部、助かってよかったよ。これで演劇部に変なのが入ってこないで済むし」と、達己。 「変なのっていうのは失礼でしょ。うちは難民受け入れ歓迎の態度よ」 「いやいや、人間が変だってのじゃない。文芸部が入ると、演劇部文芸班なんてことになって別行動を取ると思った。その時は、演劇部にとって変なのだよ」 「そうね。よかったじゃない。今まで通り変わりないし」 「俺、和果子が副部長を任命したこと、ちゃんと受け止めてるから。三年生が五人卒業して一年生が入ってくれなければ、いきなり七人。そんなんじゃ演出の腕が振るえないだろ。文化祭には希望の人材を臨時でも引っ張るからな、任せてくれよ。和果子の創る劇が見たいんだ。もちろん、役者としても頑張るしな」 「へえーっ、頼もしいこと」 和果子が達己と別れたら百メートル強で駅につく。が、すぐに、見返り爺さんに続く名物、天才子役に遭遇した。いつものように犬を連れて歩いてる。この幼子は突然、「だめよ」と言ったりする。何か手振りをすることもある。相手は犬ではない。自分の世界に入り込んで、空中に向かって発言している様子が劇の練習に似ていて、天才子役と部長が名付けた。 「そんなこと、私、知らない」 和果子はフッと、笑って、どんな役になりきってるのだろうなどと思った。 駅に着くと、そこには吉野数菜が待っていた。ちゃんと、駅口で待っていたのだ。 「よかった、新薙先輩だけだ」と、言うと、澄まして視線を落とす。 数菜は最近、シナリオをクラブ用に編集する手伝いを申し出た。和果子がほとんどの作業をしていたが、逆に、犯しがたい聖域化し始めていたかもしれない。部長ですら本へのダメ出しはしなくなっていた。肩の荷に気付かないでいたことが、その申し出でフッと楽になった気がしたものだ。 「待ってたの?だったら、一緒に帰れば良かったのに」 「二年生グルーブに混じるのは、ちょっと」 「垣根を感じてるんだ」 「新薙先輩は別です。別だから……」と、俯く。 「どうした!元気ないぞ!助手がそんなんじゃ頼りにできない。……数菜は演劇部の後輩じゃなくて私の後輩だと思ってる」 「あ、いいこと聞いた」と、顔を上げたかと思うと、俯く。「クラブやめても先輩の後輩で居られるんですね」 「え?」と、和果子も笑顔を失う。 「決心しました。今日、先輩以外、誰にも話せないこと言います」 和果子は数菜の手を引いて改札を入ると、プラットホームの隅へ歩いてゆく。 「何を言うために待ってたの?」と言うと、和果子はため息をこぼして「脚本、手伝ってくれるんじゃなかったの?」と言う。 「やります。やらせてください。演劇部に居なくったって、先輩の手伝いは出来ます」 「でも、それではね……」 「今日、文芸部が続くってわかりました。入学してすぐに、文芸部の人が中学で文芸部だった私の情報がまわってて、勧誘されました。でも、私はこの学校の演劇部のスタッフでありたいと思ってたし、ドラマとか脚本もすごく興味があって、あちらをお断りしました。でも、少し前に、また、私は勧誘されました。事は深刻で、演劇部なのはわかってるけど、文芸部を消滅から救って欲しいということでした」 「だったら、消滅しないってわかったし、あなたが移る必要はないでしょ」 「私には、はっきりと逃げ場が出来ました。消えるかもしれないところには逃げられないでしょ」 「ん……全然わからない、何言ってるの?」 「私は」と、うつむくと、小さく深呼吸している。 「ゆっくり。何を言われても受け止めるから」 数菜は頷くと、顔を上げて呼吸を整える。「私はもう、どうしようもなく……ほんとにもう、どうしたらいいのか。私は、藤倉先輩が好きです」 「え……そうだったの。藤倉君かぁ……。まぁ、そんな感じしてたかな」 「わかっちゃってましたか」 「はっきりとはね。言われてみれば、目が違うもの、彼を見るときの。で、それで演劇部に居られないの?」 「思いを投げて、砕けるなら砕けます。そのときは、砕かれた私の破片は散らかって、演劇部の必要としない塵になります」 「そう、詩的に言われても……。つまり亡骸のように転がってるだけの存在になるってこと?」 「生々しいです。流石です」 「どうやって思いを投げるの?」 「思いは重いです、私には」 「ダジャレ?」 「だから」と、数菜はカバンを開けると、飾り気のない青い封筒を取り出す。「ここに、手紙を書きました。月並みっていうか、事務的にイエスかノーを問う文です」 「そうなの。それを投げるのは力持ちの私ってわけ?」 「先輩しか居ません。三年の先輩も何でも相談してねって言ってくれるんだけど、新薙先輩だけです、お願いします」 「見込まれた。どうして?光栄にも私が御遣いに選ばれたのかしら」 「先輩のシナリオには感心させられます。だから、頼るべき人と見込ませてもらいました。すみません、面倒かけます」と、数菜は頭を下げる。 「ん……できれば、あなたを演劇部に留めたい私の気持ち汲んでほしい。今のままで彼からの自然な答えに、あなたの勝算はあるの?彼、そうだったのか、じゃあいいよって答えると思う?あなたの思いは、あっさりとお断りされても覚悟できる程度のもの?」 「でも、告白というものは、正直に言って、天に任せる」 「ことじゃないわ。恋文というものは、何も感じていなかった人でさえ、この人を側に置きたいと思わせる力が必要でしょ、一世一代の名セリフぶつけなきゃ。勝算のない気持ちを投げる役目はゴメンよ」 「そんな……歯が浮いて抜けるような言葉、私には」 「ドラマのセリフと同じことよ。秘訣はね……ま、それはいいか」 「ひ、秘訣は?」 「重いと硬くなってしまうのよ。思いは重いかもしれないけど、それを素直に表現すると、相手に気持ちが伝わる前に、重荷に感じさせる。むしろ、軽く、私と一緒だと心も弾むって感じさせるのがポイント。さり気なく、深刻さは少し混ぜるのよ。深刻なものに対しては、彼も失礼のないように回答しようと思うもの。私が渡すときに数菜は真剣なんだと口添えするしね」 数菜は意気込むように深呼吸すると、「分かりました。書き直しを持ってきます」と言う。
新薙和果子は一軒家に、家族四人で住んでいた。父は消防士として活躍したが、今では職探しに苦労している有様だ。現在、五十歳だが、二年前、怪我をしたのだ。治療に半年以上もかかり、右足が全く動かない後遺症が残った。 消防活動中の人命救助中ならかっこ良かったのだが、休日の散歩中、暴走車にはねられたのだ。それなら、消防士でなかったらよかったのだ。なまじ、ベテランの知識と経験が災いしてしまった。 暴走車は軽乗用車だったが、人に向かったら野獣より怖い。 新薙は後方から凄まじいエンジン音が近付いて来るのが分かっていた。広い道で歩道もゆったりしていたし、車は快調に飛ばせるほど空いていた。ジョギングの男が抜いていった直後、振り返って確認したときにはその車はまさかの位置に居た。道路ではなく、歩道に乗って走っていた車は新薙に避ける暇を与えずに跳ね飛ばし、その前のジョギングの男をも跳ねて我に帰った様に道路に軌道修正して走り抜けて行った。 ジョギングの男は瀕死の重傷で、意識のあった新薙は右足がダメージを受けていたことを認識しつつも、なんとか気を失わずに応急処置をした。火災ビルから飛び降りる人を介抱したり、火事場から人を救出したりしてきたのだから、人の命をまず救う行為は当然だった。現場を何度も経験していたし、救急救命の知識もあった。しかし。 気がついたら、病院で治療を受けていた。事件のことを聴取に来た警察官に前の男が死亡したと聞いた。ありのままを話しているうちに、事故を起こした車の話より、新薙の話に移っていた。多少、医療行為に立ち入った事実が明白になり、しかも、勤務中でない時の行為は違反であり、さらに、携帯電話を持っていながら警察と医師に通報して処置を仰がなかったのも違反だ。救命士の資格は取っていなかったし、結局、自分も気を失ったため、事件の発覚が遅れた。救急車を呼んでないなど、問題が浮かび上がった。 『医療行為に夢中、救急車呼ばず』と、匿名で新聞にも出てしまった。 歯を食いしばるのが精一杯だった。話ができる状態じゃなかった。電話番号なんて思い出せないし、携帯のボタンを押すこともとてつもない時間を要しそうで怖かった。そして、目の前の人が死のうとしていた。 ……何もせず、倒れたままにしてたら、何の問題もなかっただろう。 全治5ヶ月のはずが、半年以上かかって、右足付随、痛みはまだ取れない始末。事が事だけに分限という形で処分される運びになる前提での退職となった。幾らか少なめの退職金でも家のローンはそれで済ませた。新薙は荒れた。寡黙だが優しく真面目な男だったが、家族も手を焼くほど荒れた。そして、荒れる元気がなくなったと思うと、欝病に入ってしまった。 これが悩みの種になった。鬱病では職探しもする気が起こらず、仕事をすること自体に自信が持てなかった。このまま貯金を食いつぶしてゆくわけにも行かず、病気としては回復していないまま、職探しを始めた。娘を大学に行かせる金、息子を目標の私立高校に行かせる金、そして、これ以上、貯金を崩さないための生活費が必要なのだ。 「仕事が落ち着くまでのお金を融通してもらおうと思う。安い金利で貸してくれるかもしれない。大丈夫だ、信用できる筋の紹介だ。ただ、人助けを趣味でやっている人ではないから、審査がある」 家族の前で新薙は言った。借金という言葉は別世界の言葉のように思った残りの三人は反対した。 和果子は「大学行かなくていいよ」とまで言う。借金を毛嫌いするあまりの言葉だった。 しかし、お金のない人は借金してでも大学に行くものだと父は言った。和果子の発言は本末転倒で、借金はチャンスをつかむ行為なのだと諭された。それに、紹介あってのことで、一般の貸金業者から借りるつもりはないと父は言う。 「内海君の関係なんだ。お前も彼の人柄は知っているだろう」と、父は母に言う。「気を遣ってくれたんだ。まぁ、相手に利がないんだから、駄目で元々と思ってくれと言うことだ」 父の大学時代からの友人を母は知っていた。頭が良く、仕事が出来るようだが、決して裏表のない気持ちの良い人という感じは持っていた。
吉野数菜の母は台所を占領して仕事に没頭している父の脇で、夕飯を作っていた。父は飴だの餡だのを少しずつ作っては和菓子の新作に没頭している。この没頭には給料が出ないのだが、和菓子技術部長に就任すべく努力の一環なのだ。株式会社川越屋の出す最近の新作和菓子に吉野が創ったものがかなり採用された。現在、社内で彼の右に出る職人は居ないにもかかわらず、肝心な和菓子技術部長は空席のままだ。一年前に山路部長が退職して、順当に吉野が後を継ぐと思いきや、吉野の肩書きは変更されなかった。 「今度はどうなの?」と、母は椀に煮物をよそっている。 「分からん」と、父はめんどくさそうに答える。 「材料も大分買ってるでしょ、支給してもらえないの?」 「勉強代まで出す会社は今時無いんだよ」 「川越屋のお菓子は高いでしょ、高いのは研究費が掛かってるからでしょ。一流レストランが高いのは、料理の質、サービス、それに精進代が入ってるからだと思う。それは常識でしょ。秋刀魚だけ使った料理が千円だったとしても頷けるのよ」 しかし、うるさそうな顔をするだけの吉野。 「薬なんてもっとよ」と、数菜が続く。「材料費から計算して、この薬は高いとネットで批判している人が居たけど、研究費や実験費が入ってるのよね」 「よくわかってるじゃない」と、母。 父は丸い羊羹のようなものの上に掛ける半透明の寒天風のものの色が気に入らないようで、何度もボールに何かの粉を入れては練っている。「研究費は会社がお客から取って、研究者に行かないなんて」 「誤解だ、給料をもらってる。職人としての評価の通りに。君は散髪費、通勤の靴代、そういった諸々の名目で貰わないと納得できないか?とにかく、静かにしてくれ。これは部長昇進で収入を拡大するための陰の努力と言うものだ。台所に居座ってるのが邪魔なのは承知の上だ。家族の理解と協力が、結局は家族を豊かにするんだ」 「はいはい、よそいましたからね、さめないうちに食べてください。遅くなると片付きません」 川越屋は熊谷特粉の傘下にある。地方の和菓子屋で有名所といえば人気のおみやげ商品を持っているところだろう。川越屋はそういうことではなく、純に和菓子を楽しみたい人が所望するお菓子メーカーだ。粉物の高級食材の会社が抱えるだけに高価でこだわりの商品が多い。百貨店と専用店舗で販売し、品にも因るが、店舗でレシピ通りに職人が創る。その職人の頂点が技術部長の座になるが、ここに来ればレシピの変更も新作和菓子も自らが生み出せる。
「山路さんが辞めることになった」と、熊谷特粉の内海統括部長が川越屋本社を訪れて言った一年前、吉野はすぐに昇格と期待した。 「定年は過ぎてらしたから、やはり、お疲れですか」 「ちがうよ。歳は歳だがね、味覚障害が出ていると、本人は言ってます。惜しいが、川越屋を守っての退陣です」 「味覚が……」 「両神(りょうかみ)を知っていますね」 「はい、山路さんの新作です。今年の6月の予定でした」 「コンセプトは受け継いでいるかね?」 「はい。ということは、私が受け継ぐということですか」 「予定通り、完成を期待すると広瀬社長が言ってます。それからうちの社長は技術部長の件はそれらの出来によると……」 「はぁ、厳しい試験があるわけですか」 吉野はお菓子でも料理でも、およそ、建築でも電化製品でも、人が創作するものには魂が宿ると信じている。観念的なものが実態に優先して存在し、実態が形を見せたら、そこに精神が宿るのだ。だから、ピアニストの心が演奏に出てしまうことの恐ろしさを、物を創る人間は知っておく必要がある。 「胡桃は味に主張がなくて、食感はある。だけど、決して固い歯ざわりではないし、じゃまにならない程度に柔らかくして細かく散りばめればいいんじゃない」と、数菜は父に言ったことがある。ただ見ているだけでは邪魔だと言われて、思ったことを言ったまでだ。 「胡桃を柔らかくするための手間、胡桃自体、すでに予算オーバーだ。四百円の饅頭を四百円掛けて作るわけには行かんだろう。期待していないが、何のアドバイスもくれないなら目障りなだけだ。集中して戦ってる最中だ」 「何よ、何がどれだけお金がかかるか知らないわよ」 「あなた」と、母が援護する。「食後のファミリータイムを自ら断ち切るようなことはやめてください。数菜は関心を持ちたいのよ。そもそも、ダイニングキッチンて言うのは−−」 吉野は煩そうに短く深くため息をつく。「役に立つことを言ってくれれば話しになるんだがね、今は邪魔にしかなってないだろう。僕の部屋にキッチンがあればこもっているところだ。協力して欲しい」 「あなたのために他の人は部屋にこもれって言われてもねぇ」と、母。 「家族だからこそ協力しろ」と、数菜に向く。「お前は演劇部だな。演劇はつまり、舞台を創り上げると言うことだ。役者の心がけは何だ?」 「え?も、もちろん、月並みだけど、役に成り切ることだと思う」 「舞台に出てるのはお前じゃない。演じられている人物だけが観客の目に見える必要がある」 「うん、そう思う」 「しかし、それは当然なんだよ。演劇とは役を演じるんだ。だから、心掛けることは役になり切ることじゃない。役になり切るために何を心がけるかということ。では、役者の心がけは何だ?」 「え……っと」数菜は口ごもる。 「そういうことを、話してくれるんなら、邪魔じゃない、歓迎だ。菓子作りの心がけに適用できるかもしれない話が娘から聞けるなんて嬉しい」 「うーん…」数菜は大人しくなるしかなかった。父は時々こういうお菓子とは関係なさそうな話を聞きたがる。最近では帰宅してからずっと考え事をしていることもある。決まって行き詰まって、外出するが、そこいらを歩きまわるか、喫茶店に場所を移すだけだ。
そのことに的確に答えてくれたのは和果子だった。和果子は封筒を持って来た数菜を廊下に連れだした。 「一応、読むわよ、渡す前に」 「そ、それって、勘弁して下さい」 「でも、変なこと書いて引かれたら意味ないし」 「先輩の添削は丁重にお断りします。でないと先輩のラブレター見せてもらうから」 「いいわよ。手元にはないけど、何回でも書けるわ」 「えっと……敵いませんね。でも、糊付けは破かないで」 「わかった。伝書鳩になったげる。数菜、本気よって、口添えしておく」 「お願いします。部活終わったら、さっさと帰りますね。−−本当はお母さんにもこういう事って相談したいけど、きっと、馬鹿な事やってないで勉強しなさいとか言わないと思うけど、やっぱり……ね。台所にお父さんが陣取って仕事してたんでは、絶対、切り出せないし」 数菜は父の現状を話した。話題を封筒から逸らしたかっただけだ。 「大変ね、お父さんに台所を陣取られるのも」と、和果子は廊下の窓から外を眺めた。「男が打ち込める仕事があるって素敵じゃない。仕事をしたくてもできない、させてもらえない人もいるんだし」と、和果子が自分の父を思っての事だとは数菜には分からない。 「高級料亭の料理人になると、お料理教室で教わる必要はないわ。でも何も教わる必要がないわけじゃなくて、教えてくれる人が居ないんでしょうね。自分で見つけることは難しいし、何かを見つけたつもりでも、よく考えると、何でもないことだったり。文芸肌の人には分かるんじゃない?」 「あ」と、思った。父は単に、舞台の原作を書くにあたって、テーマがぼやけたり物語の焦点が定まらないことなどの不満を克服しようともがいているときの自分と同じなのだと思った。自分はともかく、父は高級和菓子職人なのだろう。ある意味、ヒントやひらめきに飢えているのだ。父に対して鋭い一言が言えれば、役に立てるのだろうが。 「先輩、役者の心がけって……偉そうな質問をしてしまいますが、心がけって何ですか?父は私から聞きたいって言ったけど、答えられなくて……」 「情報を食べられるだけ食べて消化するの。自分の中に人格を作らなきゃ演じられないでしょ、脚本、原作、演出のすべてが持っている情報を取り込むのが理想だけど、難しいから、私が脚色したものは私の口から演者に説明してるでしょ」 「そういえば、ちゃんと説明されてます」 「あとは、体調を整えておくこと。役者にとって客席はあっても、役にとってはないということを知る必要がある。立ち位置や声の大きさなど、不自然と自然の間を納得できる埋め方をすること。役が寝ぼけた役でも眠ってても、役者は頭の回転を良くしておかなきゃね。甘くて消化のいいものを食べておくと自信も湧くわ。イーッパイ有るわよ、私はシロートだから、シロートっぽい心掛けになるけど」 「先輩は私とは違いますね。一学年上なだけなのに。一生、付いて行きます」 「えーっ、まさか、今の封筒、私宛じゃないよね」 そして、部活後の帰り道、早々に学校を出た数菜の後をのろのろと帰り支度をして和果子等二年生グループはバラバラと出てゆく。和果子はわざとゆっくりと行動し、さり気なく達己以外が帰るのを待った。鞄の中に青一色の封筒を確認して、ここなら、さっと取り出せると思った。が、今更、宛名の間違いに気がついた。『達巳先輩』と、書いてある。 『いや、達己君だし。肝心な所で何やってんのよもう……』 仕方ない。和果子は「ちょっと相談があるから、待ってて」と、達己に言うと、急いで出る。無人の教室に戻ると、砂消しゴムで突き抜けた棒を少しでも切ろうとした。しかし、普段使いもしない万年筆で書かれた文字は染み付いていた。やれやれ、数菜の名文の晴れ舞台だ、たまたま持っていた白い洋封筒に『達己先輩』と、オリジナルに似せて書き、中味を入れ替えた。読みたいとは思わなかった。真剣な数菜の態度が和果子を真摯にさせた。 結局、その日は藤倉達己と木村友香と三人の二年生で学校を出た。あまりにもいつもの風景に達己が『何か話すことがあるんじゃなかったの?』と、切り出すが、和果子は「うん」と応じただけだ。そして、友香と他愛もない話、「あ、天才子役だ」などしている。 犬を連れたその子は突然、壁に向かって手を突き放すように振り、「あっちいけ!」と言う。 和果子も友香も声を出さずにクククと笑って通る。 「あれくらいのオーバーアクションが舞台には必要なのよ、って津川部長が言ってた」と、和果子。「テレビドラマの真似じゃまったく伝わらないそうよ」 「そういえば、津川先輩はあんな子だったらしい」 「あ、あるある」と、笑い合った。 果たして、友香はいつものバス停に行かず、電車で兄の誕生日プレゼントを買いにゆくと明した。 やがて駅が近くなると、達己は「じゃあな」と、帰路に別れる。 二人の女子はバイバイと、駅に向いたが、「ちょっと、言い忘れ。先、行ってて」と、和果子が彼の向かった道へ戻る。友香は別段、気にしたというわけでもないが、とぼとぼと、和果子を追った。 和果子が曲がったところまで来ると、達己の入った細道、その先で二人が向かい合っているのが見えた。「私に聞かれたくないことかな?」と、つぶやいてみたものの、和果子が慌ただしく鞄から何か取り出している。封筒だ。何か言ってると思ったら、両手で恭しく持つと、彼に差し出して頭を下げている。ラブレター、手渡し現場だ、そんな感じに見えた。凝視するより、むしろ、さっさと駅に向かって歩き始める友香だった。 「和果姫、ただの友達から脱却するには、言葉ではなく、したためられたものの力に縋るのが良いのじゃな」と、友香は独り言。振り返ったが、まだ和果子は見えない。この際、さっさと駅に行こう。「なかなか手渡しなんてできないものよ。さすが藤倉とは既に脈ありと踏んでたな」 ところが、駅には早々に下校したはずの数菜が居た。 「あれ?」 「木村先輩?」 電車が入ってくると、友香はあわてて切符を買い、「あれに乗るんでしょ」と、急かす。 「新薙先輩を待ってたんですけど」と、数菜は列車に乗ってから言った。 「かなぁと思ってた」 「え?」 「吉野さん、和果子さんが好きみたいね」 「え、ええ。先輩のシナリオ、好きですから」 「でも、帰りを待つんなら、学校から一緒に帰ればいいのに」 「二年生グループに一年一人は……」 「わからないでもないけど、そういうのは……。ねえ、吉野は藤倉、好きでしょ」 「あ、あの、ええ?……誰に聞いたんですか?」 「こらこら、私の目は節穴か?」『でも、達己くんに和果子が乗り出したら、ライバル現る……いいえ、あなたでは歯がたたない。それでも、やっぱり、あなたには和果子を好きでいて欲しい……』
木村友香がさっさと駅に向かう頃、封筒をもらった達己は神妙に固まっていた。数菜は真剣だと言われるまでもなく、冗談でこんなものを書く子ではない。 「素直に喜んではくれないようね」と、和果子は小さくため息。「ちゃんと、答えてあげて。それまでは部室に来ないつもりよ」 「保留、してもいいのかな」 「中を読んで、素直な感想を返してくれたらいいのよ。何を返されるかに因っては、彼女、文芸部に移籍する」 達己は深いため息をつくと「とにかく、読ませてもらう」と言う。 「じゃあ、私にでも、直接でも、気持ちを言って。あまり待たせないでね。−−バイバイ」 「新薙、全然違う話なんだけど」 「ん?」 「明日、クラブには行かないんだけど」 「そう言ってたね、何か用事があるんでしょ」 「明日、一緒に行って欲しいとこがあるんだ」
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