目を開けると、灰色のものが目に入ってきた。それはコンクリートでできた低い天井だった。僕の記憶の中にこんな光景はない。そう認識した次の瞬間、背中と胸に鈍い痛みが感じられた。しばらく僕の思考は煙のようにもやもやとして一か所に集まることはなかった。 しばらくして、ようやくこの状況が飲み込めてきた。おそらくここは病院で、胸の痛みはあの時のものだ。僕はミーセとのアンロに負けたようだった。彼女を完全に捉えたと思ったのに、どうして逆に僕の方が仕留められたのかよくわからなかった。背中の痛みはおそらく地に叩きつけられたときのものだろう。生きているということはきっと無意識のうちにうまく羽を使って落下速度をうまく軽減したみたいだ。上級よりも低い高度で戦うことになっているアッズやヴェルデでは試合に負けても命は助かることもある。幸い僕もその一人になったみたいだ。 しばらくして白衣を着た女性が入ってきた。彼女は僕に二つほど簡単な質問をした。僕は自分のノーメと、クラッセを答えた。記憶を確かめている様子で、その確認が終わると簡単に僕の病状を説明してくれた。胸の傷は鋭かったが幸い深くはなく、また急所は外れているみたいだ。また足から落下したみたいで足の骨が何か所かきれいに割れているらしい。ただその分直しやすく、簡単な手術がついさっき済んだみたいだ。局所麻酔によって今は足の痛みがまったくない。一番大事な背中の骨や羽も致命的な怪我はなく、リハビリをすれば再びナイトとして戦えるようになるとのことである。 女性が一通りの説明を終えて行ってしまった後には、ずいぶんと意識もはっきりしてきて、少しなら首をひねらすことができた。僕は部屋の角にいるらしく、L字型に壁が見える。他は薄い布でできた2枚の衝立が僕の視界を遮っていたため部屋全体は見えなかったが、他にも大勢人がいる気配がしたので、おそらく大部屋のたくさん置いてあるベッドの一つに寝かせられているのだろう。確認が終わりしばらくすると大きな眠気に襲われた。さっきの女性が立ち去る前にうった麻酔が原因みたいだ。 それからご飯を食べては注射を打ち、眠りに落ちるという日々がしばらく続いた。背中を打ちつけたために羽はうまく動かせず、また足はボロボロだったので寝たきりの生活を強いられていた。
この日も何もない日が終わろうとしていた。日も落ち始め、部屋は暗くなり始めている。部屋には明かりなどないから、日が完全に落ちたら何もできなくなる。最も今の僕には明るくてもすることがなかったけれど。 目を閉じ、しばらくしてから開けるということをいつものように繰り返していた。それくらいしか変化が楽しめない。後は身体の向きを変えることくらいだった。 仰向けに寝て、目をつぶっていると、遠くから足音が聞こえてきた。この時間に検診はないし、夕飯のトレーは先ほど片づけられたところだったからおそらく面会だろうか。 その足音がどんどん近づき、やがて僕のすぐ近くのところで止まった。 「……入ります」 僕は目を開け、身体を少し起こした。衝立の隙間から一人の黒いワンピース姿の女の子が姿を見せた。ミーセだった。その姿はとてもトリエーレのようには見えない。気品のある上流階級の子といった感じだった。 「……具合はどう?」 彼女は複雑な表情で、ゆっくりと唇を動かす。 「身体はまだ動かないけど、体調はいいよ。……復帰もできるみたいだし」 「……そう。ならよかった」 彼女は肩の力を軽く抜いて、ほっとした様子を示した。 「突然だけど、今日あなたのところに来たのは三つ理由があるの」 彼女は右手の三本の指を立て、突き出した。その様子が年相応の女の子の姿で可愛らしかった。 「一つは今日アッズからヴェルデに昇格したことを報告しようと思って」 彼女はにっこりと笑った。彼女の左の頬に笑窪が浮かんだ。 「そうなんだ。それはおめでとう」 「ありがとう。ヴェルデになったらあなたに会いに行こうと思って。あなたが生きていることは知っていたけど、同じクラッセ同士はあまり会わない方がいいと思ってね。少し遅くなったけど」 「……ミーセの言う通りだよ。僕たちはナイトだから」 ミーセはすぐ横にある壁に寄りかかった。黒いワンピースと真っ白な翼がそれぞれ真っ赤な日の光を受けていた。 「でも会いに来てくれて嬉しいよ。……君に聞きたいことがあったから」 「なんだ。あなたもなの。私の話は長くなるからあなたの質問から聞くわ」 「……あのアンロのことだけど、僕は君を倒したと思ったのに、気付いたら僕の方が斬られていて……。君は一体何をしたの」 僕が言い終わると彼女は僕のことをじっと見つめた。彼女は僕の奥深くをじっと捉えていた。 「……あなたが聞きたいことはそれだけ?」 「そうだけど……」 「じゃあ、今度は私の質問ね。……どうしてあなたは私を斬りつけなかったの?」 「……えっ。どういうこと?」 「私が聞きたいわ。あなたにあんな方法で背後を取られた時には、ぞっとしたわ。……あまりにもなめらかすぎて全身に鳥肌が立った。このまま潔く斬られてもいいと思ったけど、万に一つの可能性を信じて身体を反転させてその勢いで斬りつけようと思ったの」 彼女はそこで大きく息を吐いた。そして静かにゆっくりと吸い込むと続きを話した。 「でも反転した私が見たものは、硬直したあなたの姿だった。あなたはどこか遠くを見ているような目で私とまったく向かい合っていなかった。斬りつけようとした剣先は私の衣装に触れていて、おそらくそれは私が反転の動作をした瞬間からずっと止まっていたはずよ。タイミング的には私の方がずっと遅れていたし」 彼女は両手を壁に突いて、羽を壁から離した。 「……でもその時間、あなたは何もしなかった。二回くらい斬れる時間は十分にあったはずなのにあなたは何もしなかった」 彼女の表情がいつの間にか睨みつけるような鋭いものに変わっていた。初めて出会った日やあの日控室で僕のことを見たときのように。 「……私にとってあの試合は不本意よ。勝たせてもらったとしか言えない。どうしてあなたは私を斬らなかったの? これが今日ここへ来た二つ目の理由」 彼女の言葉を聞き、僕はあの時のことを必死に思い出そうと思ったけれど、頭の中にはぼんやりとしかその場面が浮かばなかった。 「それは……。それは僕にもわからない。ふと頭の中で悲鳴が聞こえて。その後は君に斬られるまであまり覚えていないくて。それで君に何があったのか聞いてみたいと思って」 ミーセはじっと僕の目を見ていた。その言葉の真偽を確かめようとしているみたいだった。やがて彼女はゆっくりと口を開いた。 「……わかったわ。もうこの話はおしまいにしましょう。残り一つの理由を話してすぐ帰るわ。あなたもまだ本調子ではないと思うし」 彼女は表情をリセットして、静かに話しだした。 「あなたはよく上級のロッソやネロの試合は見る?」 「……いや。たまに見に行くくらいだけど」 「……これは私からあなたに言う資格はないことだから、私のお節介だと思って聞いて。……あなたも十分知っている事だと思うけど、片手剣は一般に他の武器に比べて弱いとされているわ。事実、上のクラッセで片手剣を使う人はほとんどいない。みんな槍や斧といった、一長一短の特徴を持った武器を使っているわ」 僕は軽く首を縦に動かした。そのことは多くのナイトが知っている周知の事実だった。 「片手剣は使い勝手が良くてこれと言って弱点はないけれど、かといって際立った利点はない。唯一上げるとしたら私みたいに体格が小柄でも扱えること。……私ももう少し筋力がついたら槍に持ち替えようと思っていた」 「……思っていた?」 「そう。思っていた。でもその考えは変ったわ。あなたのアンロを見てね。あそこまで片手剣を自在に操れるなんて思ってもいなかった。武器がどうのこうのよりも戦う人の腕が大切だってことを改めて思い知らされたわ。……あなたには少し嫉妬があったの。私はある目的があってナイトに志願したのだけれど、身体がそんなに大きくなかったから必然的に使える武器は片手剣しかなかった」 日はほとんど暮れようとしていた。衝立にほとんど垂直に日が当っている。 「片手剣なら私が一番うまく操れると思ってたから、あなたのアンロを見たとき、あいつだけは、カムだけには負けられないと思ったの」 彼女はまたにっこりと笑った。 「……でもダメだった。あの日の試合で自分がカムの足元にも及ばないことがわかった。恰好良く言えば反撃の一瞬を待っていたと言えるかもしれないけど、実際はただ攻撃を受け止めるだけで精いっぱいだった」 「そんなことないよ。ミーセは今まで戦った相手で一番手ごわかった」 「いいわよ。お世辞は。力の差は自分が一番良くわかるもの。……でもこのままじゃないから。私は一足先に上へ行って腕を磨いているわ。次にあなたと戦った時には勝てるように」 「……今回勝ったのは君の方だよ」 「さっきも言ったでしょ! あんなのは勝ったと言えないわ!今回は私の負け。でも次は勝つわ」 ミーセの目は今から試合が始まるかのような、闘志をむき出しにしたそれをしていた。 「わかった。僕も負けないよ」 「それでよろしい。……話がだいぶ逸れちゃったけど、わたしが言いたかったのはあなたも左手を使った方がいいわ。さっき華麗といったけどそれでも限界はあると思うの。二刀流にしたり、私みたいに盾を持ったり。そうすればあなたはもっと強くなると思うわ。……余計なお節介だと思うけど」 「……ミーセの言うとおりだよ。……忠告ありがとう」 「攻撃も防御の仕方もよりバリエーションが増えるわ。あなたならロッソでもネロでも十分通用すると思う。……あとは試合中に硬直しなければね」 ミーセは微笑んだ。僕もそれを見て笑っていた。 「そろそろ失礼するわ。早く治してね」 「ありがとう。がんばるよ」 ミーセはくるりと背を向け、衝立の向こうへ消えてしまった。僕は彼女が消えた方向をじっと見つめていた。
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