『夢限回廊』
講義の終わりを告げるチャイムがまだるっこしそうに鳴り響いた。 教授がまだ喋り終わらないうちに教室中が騒がしくなる。 僕は出入り口に緩やかに詰めかける学生の喧騒の中で眠気を覚えた。 腕時計を見ると正午を少しばかり過ぎている。校舎内の廊下を歩きながら眠気でだるくなった頭で考えた。
『家に帰って少し昼寝しよう。』
どうせ昼休みを挟んで四限まで授業は無いのだ。歩いて五分もかからない僕の家で昼寝しよう。 やるべき課題があったような気がするが、また明日で良いだろう。まだ時間はあるからな。我ながら典型的な日本の大学生である。
春先だからか、住んでいるボロアパートの敷地には雑草が生い茂り、歩くたびに虫が膝のあたりをクルクルと飛び回る。二階へと続く至る所が錆びついた階段の下をくぐり、一階にある自分の部屋のドアを開け、虫が入ってこないように素早く入った。部屋に着いた僕は、鞄を部屋の隅に放り投げて仰向けになった。 寒くも暑くもない、心地良い空気の中でしばらく天井をぼんやりと眺めていたが、間も無く畳の奥に沈みこむようにして眠ってしまった。
どれくらい経ったのだろうか、僕は眼を覚ました。時計を見ると寝てから丁度一時間ほど経っていた。 一時間昼寝した割には妙に目覚めがいい。僕はゆっくりと上体を起こして腰を左右に軽くひねり、立ち上がって大きく背伸びをした。
『少し早い気もするが、教室に行っていようか。ちょっとだけ課題を進めておくのもありだな。』
部屋の隅に転がっている鞄をつかんで中身を確認し、靴下を履き、顔を洗って鏡を見た。 若干の寝ぼけ眼が二つ、長く伸びた前髪を通して鏡の向こうから僕を見つめていたが構うものか。格好つけたって授業受けてまたすぐに帰るだけなのだ。 僕は一人で小さくうなずき玄関へと向かった。
「?」
何かがおかしい。僕の視線の先にあるそのおかしいものはトイレのドアだった。 家のトイレのドアの上部には荒い擦りガラスがはめ込んである。 勿論今僕の眼の前にあるトイレのドアにもはめ込んである。但し足元に。
「え・・・。」
声になるかならないかの声をあげて僕は再びドアを見つめた。 いつも目線の高さにある擦りガラスが僕の膝下にあるのだ。僕はほんの少しだけ後ずさりしてよくよくドアを見た。 どうやらおかしいのはガラスだけではないようだ。いつも左についているドアノブは右にあり、いつも右にある蝶番は左についているではないか。分かりやすくいえばドアそのものが完全にひっくり返ってそこにはまっているのだ。
『誰だ、こんなことをしたのは。』と一瞬怒ったが、誰もそんなことをするはずが無い。 僕が寝ぼけて外してひっくり返したなんてもっと考えられないし考えたくも無い。 もしそれが本当なら僕は駆け足で病院に行かなくてはならない。 僕は得体の知れないものを見るような眼で本来蝶番のあるべき場所を見た。 そこには蝶番を付け替えた跡などどこにも無く、その乱れることの無い正しい木目の模様は、ドアが元々そういう風にして取り付けられていたということをゆるぎない自信に満ち溢れながら主張していた。
僕は背筋が凍りついた。なんだか妙な緊張のあまり気持ちが悪くなってきた。僕がおかしいのか?いや、そんなはずは無い。周りを見たが、ドア以外はいつもの汚い僕の部屋なのだ。おかしな恐怖で少し震え始めた手で僕はドアノブを握ろうとした。 そこで眼が覚めた。
どれくらい経ったのだろうか、僕は眼を覚ました。時計を見ると寝てから丁度一時間ほど経っていた。 一時間昼寝した割には妙に寝覚めが悪い。それもこれもあの変な夢のせいだ。 一体なんだというのだ、何故あんな気味の悪い夢を見たのか。まだ背筋の氷が溶けていない。
「とりあえず顔を洗おう。」
独り言とはまさにこのことである。 僕は顔を洗って鏡を見た。寝起きの顔はひどかったがさっきの夢のせいでそんなこと考える余裕は無かった。 頭をガシガシと掻きながらトイレのドアを確認した。 大丈夫である。
『まあ、そうだろうな。』
僕は呆れと安堵とが入り混じった溜息をついて鞄をつかみ、玄関で靴を履いた。 そのとき足元で何か蹴飛ばした。 下を見ると靴がある。今両足に履いている靴と同じ靴が左足の方だけ転がっている。 僕は固まった。何故三つあるのだ。両足に履いている靴と同じ靴が何故片方だけ増えているのだ。 同じ靴を買った覚えは無い。この靴は昔誕生日に買ってもらったものなのだ。両親が同じ靴を買ってきた訳でもないし、もしそうだとしても何故片方だけしかないのか。しかも妙なことにきちんと使い古されている。 気味が悪くなって後ずさりしたら、玄関の段差につまずいて尻餅をついた。
どれくらい経ったのだろうか、僕は眼を覚ました。時計を見ると寝てから丁度一時間ほど経っていた。 別に初めての経験ではない。夢の中で夢を見るなんて滅多にないことだが、その滅多が起こってしまっただけの話である。たかが夢ごときに何をビビッているのだ。 僕は静かにパニくりながら深呼吸した。なんだか深呼吸でさえも乾いた喉がヒュウヒュウと音をたてて息苦しい感じだ。 額の脂汗を半ば大袈裟にぬぐってトイレのドアと玄関、そして部屋全体を確認した。
「ふ、ざまあみろ。」
ざまあみたのはどちらかというと僕の方だが知るかそんなこと。 とりあえず早くこの家を出たくなった。 僕は何故か出来るだけ物音を立てないようにして鞄を肩に掛け顔を洗った。そして流し台に屈んだまま僕は固まった。 排水口が左端になっている。今までは確かに底の真ん中に付いていたはずなのに、何故か左端に移動している。
「大丈夫だ。これくらいならまだ大丈夫だ。」
何が大丈夫なのか分からない、自分が最早何を口走っているのかすら分からない程に混乱していた。 出来るだけ部屋の中に焦点を合わせないようにして玄関へ忍び足で向かう。 視界の隅に映った押入れの襖が三枚あるような気がしたが気のせいであろう。 正面をぼんやりと見たまま転げるようにして靴を履いた。 急いでドアを開けようとしてぶつかった。 ドアノブが無くなっている。勿論取り外した形跡はない。
「わ・・わわわわ」
慌てふためきながら僕はドアに体当りした。
もうどれくらい経ったかなんて知るもんか。とりあえず早く目覚めたい。 とりあえず人のいる場所へ行きたい。 僕はまた目覚め、畳に寝そべりながら激しくそう思った。 耳を澄ますと外の音が聞こえてくる。 車の音やザラザラと木が揺れる音もしている。なのに外に出られない。 一体なんだというのだ。恐怖とも怒りとも取れない激しい感情が僕の頭の中をを駆け巡った。 窓を通して畳に差し込んでくる日の光が妙にカラフルだ。僕は見たくなかったが、そういうわけにもいかないので顔を上げた。 今一つ滑りのよろしくないサッシの窓のガラスがステンドグラスになっているではないか。
「もう・・勝手にリフォームするのはやめてくれないか。」
怒鳴る気力もないまま僕はつぶやいた。 趣味としては素晴らしいし、僕自身こんなデザインは嫌いではない。ただ、意味の分からぬまま、現実世界とは思えない状況でこんなサービスを施してもらったってちっとも嬉しくないのだ。 僕は、衝動的に眼の前の目覚まし時計を引っつかんで窓へ投げつけようとしたが、ふと手を止めた。
『頬を抓れば良いんじゃないか?』
夢の中かどうかを確かめるためにその動作を用いている様子を映画漫画その他諸々なところで見たことがある。
「そうだ、抓ってやろう。思いっきり抓ってやろう。」
引きつりながらも不敵な笑みを浮かべながら頬に手を伸ばしたところでまた眼が覚めた。
もう我慢できない。なんだというのか。僕が一体何をしたというのか。 僕は周りを見ないように眼を細め半開きにした。そしてそのまま手探りで鞄を手にし、コケないように中腰で玄関に移動した。 靴をはく時に、自分の履いているズボンが明らかに買ったことのないものであると分かったが、外に出られない格好ではない。 そして靴紐を結ぼうとしたが、紐がとんでもなく長くなっていて、玄関の隅でトグロを巻くようにして固まっていた。僕は気が遠くなって壁に寄り掛かった。
次に眼が覚めた瞬間、僕は跳ね起きた。鞄なんて知らない。とにかく外へ出るのだ。いったん外へ出たらまた改めて取りにくればいい。 そんなことを一瞬で考えながら玄関へ向かいドアノブに取りついた。 勢いよくドアが開き、投げ出されるようにして僕は外へ出た。 まだ春先なのに日差しがとても強く思えた。 ドアの前の手すりにぶつかり、身体は止まった。
空は晴れ渡っている。街の音も聞こえる。涼しい風が熱く火照った身体の周りを吹きぬける。僕は息をしているし、頬を抓ると今となっては心地よい痛みが感じられる。 僕は目覚めたのだ。現実の世界に帰って来たのだ。たかが夢ごときに一体何を怯えていたのだ。
僕は呼吸を落ち着けると、さっきまでうろたえていた自分が馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった。 さあ学校に行こう。僕は部屋へ戻り、鞄を肩に掛けた。いつも通りの部屋だ、何も変わっていない。 きちんとペアの靴を履き、適度な長さの靴紐を結ぶ。ズボンだって初めに履いていた自前のやつだ。 全く夢ごときに情けない。まあ、今回の出来事も現実世界の有難味を知れたという意味でいい経験だった。また今度知り合いに話してやろう。 そうして僕は意気揚々と至る所が錆びついた階段を降りた。 そこで再び凍りついた。
なぜ僕は階段を降りたのだ。 完
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