スギが死んでからは、セイとヨネとの二人暮らしが続いた。生活は相変わらず貧しかったが、時代の流れに乗って変化していくことは困難だった。父親譲りの不器用なセイには、和紙を漉くこと以外には選択肢がなかったのだ。しかしながら、どんなに生活が追い詰められても二人はへこたれることはしなかった。セイは、それが与えられた運命なのだと自分に言い聞かせた。変わらない生活を続けることが良い事なのか悪いことなのかわからないが、結果は付いて来た。セイは那須や黒羽地域では名の通る和紙職人となった。
明治三十の年半ば、セイはもう二十五になった。セイの小学校時代の同級生はほとんどが嫁をもらって身を固めていた。当時の田舎は、婚期がとても早く、男は二十歳、女は十八歳を過ぎると適齢期だった。その時期を過ぎると、「いつまで一人で居るんだ?」と親や親戚から囃し立てられることが多かった。大体は、近所や親戚から、親が見つけてくる相手と見合いをして、有無を言わずに結婚した。当時の結婚には、夫婦間に恋愛などといった、甘い言葉は存在しなかった。それは後ではぐぐむものだった。人は、子孫を残すために生まれてくるものであった。にもかかわらず、なぜか、一度夫婦になると婚後の生活はうまく行き、別れることなく死ぬまで暮らすのだった。 セイも、他の青年に違わず、親や親戚の言われるままに見合いをした。だが、途中まではうまく行くが、いつも最後の最後で破談になった。ヨネは破談を知らされる度に、まるで自分のことであるかのように、がっくりと落ち込んだ。そんなヨネの姿をみるたびに、セイは早く嫁をもらってヨネを安心させたいと思った。
ある夏の日の昼下がり。その日は晴れていて、ヨネとセイは、縁側でお茶を飲んでいた。遠くの空に入道雲が立っていた。 「いやー今日は、あっちーなあ、んでも、あの雲の様子じゃあ、里じゃあもっと暑かっぺなあ。春夏秋冬あるけども、夏ばっかりはこの家に住んでて良がったと思うぞなあ、涼しいもんなあ、ばあちゃん。」 セイは、相変わらず他愛なく切り出した。縁側が北に向いているため、陽が当たらない。家が背の高い草木で囲まれているため、夏はとても快適な環境だった。 「そだなあ、こごは涼しいもんなあ。」 ヨネは、盆から茶を取り上げ、口にもって行き、ゆっくりと椀を傾けて湯を啜った。 二人は、しばらく無言で茶を飲んだ。セイは、時折お茶を啜ったあと、箸を持ち、白菜のお新香をちょいとつまんで食べた。頭上を見上げると、ぽっかりと羊雲が浮かんでいて、雲は微動だにしなかった。 「ばあちゃんよ」セイは切り出した。 「俺って、何で嫁がもらえねえんだべなあ。最初のうちは、うまぐ行ってんのによ、いっつも最後にはダメんなっちまってよ。」 「それってよ、やっぱよ、俺があんまりいい男でもねえがらかなあ。おまけに、俺ってバカだし、何の能もねえし」セイは悩んでいた。 「そんなごどねえよ。んー。まあ気にすんな。まだ縁がねえだげだ。そのうちに見つかっペ。」 気の入っていない視線をちらりとセイに向けては、手に持っていた茶をゆっくりと啜った。 「そんでもよ、最近、なんかちっとオカシイしいなと思うんだよな。ほんだってよ、もう十回以上も見合いしてんのに、いつもおんなじ感じだっぺや。やっぱ変だっぺよ。」 「んー。」 ヨネは鼻をならした。両手で包むように持ってる茶碗を、ひざの上に持って行った。ヨネは、視線を碗の中に落とし、焦点の合わない目で茶を見つめた。 「そんなごど・・・」 ヨネはセイに向いて切り出した。だがそのあとはぼそぼそと言葉を濁しながら尻すぼみに終わって行った。ヨネは、再び茶を見つめ、背を丸めてしばらくじっとした。 「え、なんて言ったんだい?」 セイはヨネの姿を隣でじっと見ていた。もしかしたらヨネは何か理由を知っているのかもしれないと思った。 やがてヨネは決心でもしたかのように口を開いた。 「実はよう、おめえが結婚でぎねえのは、もしかしたら、俺たちのご先祖様の関係があるんでねえべかと思うんだわ。」 ヨネは思い切って切り出した。 セイは何のことか分からず、きょとんとしているしかなかった。 「俺たちの先祖はなあ、昔、江戸時代の頃なんだげっと、『エタ』とか『ヒニン』とがっつーふうに呼ばれてたんだ。そんでよ、たとえばよ、ヒニンの方を漢字で書くとなあ、人間でねえって書くんだわ。俺達のご先祖様の身分がわがっぺ?こう書くんだ・・・。」と言って右手の人差し指で縁側の床の上に「非人」と書いて見せた。 「そんでなあ・・・」と続けた。 ヨネはその後、「エタヒニン」についての話をした。明治が始まる前、江戸時代に、「士農工商」という身分制度が存在した。にもかかわらず、エタヒニンはその身分に属することを許されなかった。「エタヒニン」の仕事は、牛馬の死体処理をしたり、死罪を申し渡された人を処刑したり、その死体の処理をしたりすることだった。それがゆえ、そんなことは人間のすることではないと、事があるたび人々から蔑まれ、不満をぶつけられ、虐げられてきた。 江戸時代が終わってから、だいぶ経っている。しかしながら、三百年もの間に人々に染み付いた偏見は、まだ抜けきれていない。形式的に身分社会がなくなっただけだった。江戸時代のような村人からの虐待は無くなったが、今でも自分達に対する偏見は残っている。街に出て、人と話をすれば、言葉や態度にそれが表れているとヨネは言う。今でも露骨に態度に出るのは葬式だと言った。 「俺な、オメエのじさまが死んだ時な、いろんなお寺さ行ってじさまの供養をしてくれって頼んだんだわ、そしたらな、どごがらも断られっちまってな。そんで、何でだって聞いても、あんまりくわしく教えてくんねえんだわ。そんでな、仕方なしに自分で供養して裏の杉山さよ、じい様の墓を作るしかねかったわ。おめーも父ちゃんが死んだとぎにワガッタっぺ?坊様が来てお経を読むなんてしてくんねがったっぺ?昔からずっとそうなんだわ。」と言ってセイを見た。 真剣なまなざしで聞いていたセイは、 「あっ?ん、んだなあ。」 と吾に返り、返事をした。 普段は悪口などしゃべらないヨネだったが、この日はセイをかばう気持ちが強かったのか、世間に対する不満がよほどたまっていたのか、何度も何度も同じことを繰り返した。 話が一息すると、 「すまねえなあ」 といつもの口癖を言ってセイの方を向いた。 「そんなことね。何で俺に謝るんだ?婆ちゃんは何も悪いごとなんてしてねえべ?」とセイはヨネをかばった。でも、心の中は複雑だった。 「ほんでもよ」ヨネはまた続ける。 「オメーに、どうにがして、いい嫁さん見つけてやりてえなあ。」と話を元に戻した。 「おめーには、何もしゃべんなかったけど、俺たちはな、みんな身内とが仲間で結婚してんだあ。俺も爺様(じっさま)も親戚同士でよ。そんで、オメーのおとうちゃんとおかあちゃんは、同じエタヒニン同士でよ。おかあちゃんは隣の部落がら嫁に来たんだ。」 「そーだったんけ?ばあちゃんもお父ちゃんもそんな風に結婚したんかい?」 昔は、身分を越えての結婚は許されなかったのだということをセイは初めて知ってセイは驚いた。 「そんだげんともよ、オメーの嫁さん見つけてやろうと思った時にはよ、親戚にも仲間にも、どこにも年頃の娘はいねかったんだ。みんな結婚してっか、まだ小ちいさくって、年端もいかねえ子どもばかりでな。一番でっけえので一〇才くれーだったしな・・・そんなんじゃあなあ・・・。結婚すんのにはあと六年ぐれえは必要だっぺし…やっぱ十六ぐれえにはなんねーとなあー」と言っては、再び茶碗に視線を落として、椀をぐらりと傾け、茶を揺らした。 「ばあちゃん。心配すんな。俺、絶対嫁とるから。俺、差別なんかには負げねーから。んだってよ、俺たち何にもわりーごとしてねえべ?な?そんなのに、変な目で見られるのがおがしいべ?」セイはヨネの顔を見ながら主張した。 「んだなあ」といってヨネは視線を茶碗からセイに向けた。 「んでも、ほんとだよな、ヒデーぞな、俺たぢなんもしてねーのにな」ヨネもセイに同情した。 …この子は生まれたばかりから、不幸を背負ってきた。それでも懸命に生きようとしている。何かしてあげたいんだけど。なにもしてあげられない… ヨネは自分が歯がゆかった。 ヨネは、 「んーでもよ。生きてりゃあ、なんかいいごどあっぺ。きっと。」 とセイにも、自分にも前向きになれと言い聞かせ、空を見上げ見た。 ヨネに連られるように、セイも空を見上げた。 「ほんとだなあ。そうだといいなあ。」 セイは続ける。 「空は青いし、カンカン照りの太陽は出ても、こごは涼しいんだもんなあ。山とが根岸川には食べ物があるし。食べ物なぐなっても、すぐには飢え死にすっこどもねえしな。そんで、こうやってボーっと、平和に縁側で茶をのんでれんのだけでも、幸せなことなんだべな。」 セイは、椀の中に残った茶を、底に沈んだ茶葉ごと一気に口の中に流し込み、ゴクリと飲みこんだ。 「それにしても、いい天気だなあーや。そんでも、後で夕立が来っぺなあ?」
セイは言った 雲がゆっくりと動いていた。風が吹き、木々の葉がカサコソという音を立てた。ヨネは、まだ空を見上げていた。潤った目から涙がこぼれそうになった。
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