明治の半ばごろ、米沢のおっ止まりに紙漉き小屋があった。そこには働き者の家族が住んでいた。家族はたったの三人。紙職人のスギ、スギの母ヨネ、そして、六歳になる息子のセイだった。 彼らは細々と、和紙を作って生活していた。そのころはまだ筆の時代で、習字や障子を貼るときに使う和紙は重宝されていた。しかしながら、田舎でも西洋文化が幅を利かせつつあり、記録を取るにあたって西洋紙を使うことが多くなり、いささか和紙は西洋紙に押されつつあった。 スギは時代の流れには敏感だった。厳しい現実に直面することで、世の中の移り変わりを予測することができた。彼は、一家が生きていくためには、時代の流れに沿って西洋紙作りに変えねばならないと感じていた。しかし、現実は厳しかった。和紙作りをやめて、西洋紙を作るにしても、まず、その作り方を一から覚えねばならない。次に、今まで使っていた道具を処分し、高価な機械を買わねばならなかった。そんな余裕などスギにはなかった。 ましてや、借金をしてまでも方向を変えるつもりはなかった。 スギには和紙職人としての自尊心があり、和紙作りを辞めるということは、自分が今までやってきたことを否定することと同じ。そんなことを考えていうちにとても惨めでやりきれなくなってしまうのだった。
そんなわけで当然ながら、米沢での彼らの暮らしはあまり良いものとはいえなかった。 ヨネはセイによく、母親であるツヤの話をした。ツヤは整った顔立ちで、風が吹くと飛ばされてしまいそうなほどとても華奢な人だった。 ツヤはセイ生んでまもなく息を引き取った。セイは、生まれたときとても大きな赤ちゃんだった。ツヤは、生まれたばかりのセイを抱くと、血色の悪い顔で、 「はもうだめだと思う。この子を面倒見ることはできねえけど、あとはよろしくな。」 とスギとヨネに一言残して逝ってしまった。ツヤはセイに命を繋いだのだ。死因は、難産のための多量出血が原因だった。というよりも産婆を雇うことが来なかったことが原因だったのかもしれない。 村人の間では、 「セイは呪われて生まれてきた。セイが母親の寿命を奪ってしまった。」 という噂が流れた。 セイはその後、大きな病気をすることなく、すくすくと育ち、伊王野尋常小学校に入学した。 セイはクラスの中で目立って大きかった。二つ上の学年の生徒と比べても見劣りしないほど筋骨が発達していた。やさしくて力持ちということで、クラスばかりでなく、他の学年の生徒からも好かれていた。その一方、学校での成績はというと、あまり良くなかった。セイはいつもそのことを気にしていた。しかし、スギはそのことを責めなかった。学期が終わり通信簿を持ち帰ってくると、丙ばかりの成績をみながらスギはいつも、 「健康で居てくれればそれが一番だ。」 と言ってくれた。 セイは曲がったことと、うそが嫌いだった。また、一度思い込んだら意見を曲げない頑固ものでもあった。そのため筋の通らない人と衝突することが多く、そんな人たちとはよく喧嘩をするという荒っぽい面があった。一方では、動物や植物をこよなく愛するソフトな面もあった。全ては父親譲りのものだった。 セイは、わからないことがあると、いつもヨネ婆に頼った。婆は物知りで、セイに何でも教えてくれた。婆はセイの良い"先生"だった。 婆は病弱で床に就くことが多く。自分が家族に迷惑を掛けていることをとても気にしていた。何かあると、いつも「すまねえな」という言葉を口にした。 セイの父スギは、多くの職人がそうであるように無口で、もくもくと家族のために働いた。 セイは、そんな父がとても好きだった。セイは小学校から帰ってくると、よく、仕事場で時間を過ごした。紙漉きの仕事をしている父の姿はとてもかっこよかった。スギのそばに居るとなぜか安心した。父の横にはいつもヨネがいた。セイは、ヨネにべったりくっついて、機会を見つけて父に話しかけた。どうにか相手にしてもらおうと必死だったのだ。デカイからだの割には甘えん坊だった。 スギは、そんなセイの気持ちなどわかるはずもなく、 「うるせー!むこう行ってろ!仕事んなんねー!」 と言って、よくセイを追い払った。 そんなセイも、やがて小学校の四年年になった。 ある日、セイは、 「おとうちゃん、大変なんだべ?おれも大きくなったんだから何か手伝せてくれ!」 と働いているスギの背中に向かっていった。 それを聞いて、ヨネが涙をこぼした。 たいしたもんだなあ。おめえも大人になったんだなあ。」 と言って仕事着の袖で涙を拭き、 「まだ小せえのに、気を遣ってくれて、すまねえな」 と嬉しそうに言った。
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