それからの二人の暮らしはというと、貧乏には変わりなかった、米沢が辺鄙なところであるというのも当然変わりはない。それでも、米沢は二人にとっては誰にも邪魔されずに平凡な毎日を送れる楽園だった。ここでは美しい季節の移り変わりを肌で感じられる、山の中だからこそできる四季折々の楽しみ方もあった。
春になると、田んぼの土手にはふきのとうが芽吹く。山肌には梅が咲き、すぐに山桜も咲く。家の前のクヌギ林にはウドやタラボ、ゼンマイ、ワラビなどが次から次へと芽を出す。竹林には竹の子が競うようにニョキニョキと出てくる。根岸川の岸辺には高菜や水せりが青々と茂り、流れではヤマメやカジカやドジョウが動き始める。 二人にとって春の野山は食物の宝庫だった。朝飯前に家の周りを歩き回ればその日のオカズはどうにか揃った。自分達で採った食材を料理して食べていると満ち足りた気持ちになった。 お昼に縁側に座り、庭の片隅に咲く野花を愛でながら、旬のものを食べると本来の味以上の味がした。夜になり、カエルの鳴き声を聞きながら食べる夕食も妙に旨かった。
カンカン照りの蒸し暑い夏の日は、毎度のように空に入道雲がもくもくと聳え、やがて爆音のような雷鳴が轟き、豪雨が襲って来る。でもそれはほんの数時間の出来事で、夜になると何事も無かったかのように静かになり、虫の音が涼しげに聞こえてくる。 夜の帳が降り、床に就く準備をしていると、障子越しに、蛍がツーと光って消え、消えては光っているのが見える。たまに家の中に舞い込んできた蛍の光は、二人を幻想的な世界に導いてくれた。そして、コオロギやキリギリスの声が、二人を心地よい夢の世界に連れて行ってくれるのだった。やがて二人は深い眠りに落ち、翌日はスズメのチュンという鳴く声で目が覚めた。
盆が過ぎ、穂が実りはじめ、赤とんぼが飛ぶようになると、稲刈りが始まる。ハゼに穂が干されているうちに、寂しげな風が吹き始める。やがて稲の切り株だけが残された田んぼの土手の草に露が降りる頃には、雑木林の葉が色とりどりに染ってくる。存在をアピールし終えた葉は、やがてひらひらと舞い落ちる。地面に落ちた木の葉の下に今度はキノコが出はじめる。 二人は秋が一番好きだ。山が赤や朱色に染まる風景を楽しめるし、その後もきのこをたっぷり入れたキムチ味噌鍋を食べといった楽しみがあるからだ。味噌仕立ての鍋に、シュウが作ったキムチを入れるだけという、至って単純なものだがとてもおいしいのだ。早い時期はササモダシ、秋が深まるとアカンボを入れる。鍋の終わりには、おすそ分けしてもらった新米を入れたおじや食べる。これもまた出汁しが出ていてとてもうまい。
やがて、杉やヒバの葉だけが残る冬がくる。冬は他の季節ほど楽しめるものは無い。ただ、囲炉裏の周りだけは別世界だった。囲炉裏の火に薪をくべると、パチパチと音を立てながら、メラッと朱色の炎が揺らめく。それを見ながら、じわりじわりと沁みてくる暖を身体に浴びているうちに、いやなことが少しずつ消えて行くのだった。冷たい風が吹いて凍りつくような夜でも囲炉裏の回りはほのぼのとしていた。
季節は巡り、また春が来る。何の変哲もない毎日、傍目には無駄で退屈な時間が過ぎているようにしかみえないことだろう。でも、二人には貴重なひと時だった。ポッカリと隙間の空いた二つの心が、徐々に互いの寂しさを埋め合いながら一つになっていったのだから。
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