「それにしても、昨日の晩に食べた岩魚の塩焼きは大きくてウンマがったなあ。デッケーのいっぱい獲れたしなあ。」とセイは言った。セイは、昨夜のことがよほど楽しかったらしく、歩きながら何度も繰り返していた。
「そうだねえ」シュウは、我慢強く聞いていた。
「でもよ、いろいろあったげど、今日まで雨が降んねえで良がったなあ。」 セイが言った。
淵を出発してからもう2時間は経ったろうか。前方の道は、ほんのわずか先で山の裏側に回り込み、裏側へ行くと山のつなぎ目で折り返す。道はそんな風にうねうねと曲がりながら山肌を縫っていた。左側の道から山への競りあがりは、河童が淵を出たころよりもさらに勾配が増し、右側の枝葉の隙間からは、青い空が見え、空にはぽっかりと雲が浮かんでいた。
やがて、二人は勾配のない平地に出た。前方には大きな山桜が見えてきた。いつの間にか川は自分達の右側に移り、杉がポツリポツリと生える土手の下を走っていた。山桜に近づくと水飲み場があった。木の下には丸太でできた素朴なベンチがあり、ちょっとした休憩所になっていた。
「もう少しで休めんなあ。」
コメカミの汗を、首に掛けた手ぬぐいで拭いながらセイが言った。
二人の歩みには気持ちと力が入った。前方からシャバシャバと水の音が聞こえてきた。更に歩み続けると、岩肌に、水が落ちているのが右に見えてきた。落ちた水は山際を這い、自分たちの進む道のほんの数メートル前を右から左に横切り、川に合流していた。 二人は道を横切る流れをまたいで進み、“滝”の前にたどり着いた。岩壁には、竹筒がかけてあった。水が竹筒を伝い、膝頭あたりの高さから、足元のたまりへ落ちていた。 セイは滝つぼの前にしゃがみ、筒から落ちてくる水を両手一杯に汲み、うまそうにゴクリゴクリと喉を鳴らして飲んだ。いつものように、「あーうめえ」と言ってさらにもう一杯を飲んだ。飲み終わると、立ち上がり、くるりと後ろを向き、数メートル先のベンチに腰を下ろした。シュウも水を二杯飲んで、セイの隣に座った。 二人はしばらく無言で辺りを見回した。樹木で切り取られた曇り空に、お陽さまが顔を出し、辺り一面をカンカンと照らしはじめた。山のあちこちから聞こえていたせみの声が更に大きくなった。アブラゼミとミンミンゼミ、それとツクツクボウシだろうか。 自分たちのすぐ近くでもツクツクボウシが鳴き始めた。いつもならせみの声を聞くだけで暑苦しかった。しかし、なぜかこの日はても心地よく、とても涼しげに聞こえた。二人は”いつもとは違う”何かを感じていた。ベンチの後ろには、大きなブナやクヌギの木が何本もあり、目いっぱいに伸ばした枝葉が、日差しから自分達を守ってくれている。滝のしぶきが霧となり辺り一帯を包んでいた。
「いま、何時ごろだっぺなあ?」セイは口を開く。
「たぶん、十一時ごろだべ。」シュウは答えた。
すると、
「いやあ、もう昼近くになってるべなあ」 と突然誰かが割って入ってきた。
二人は驚いて、声のする方を見た。いつの間にか山道横にあるもう一つのベンチに一人の男が座っていた。男は、野良着を着ていた。汚れがこびりつき、ところどころに小さい穴が開いていた。男の足元には、ムシロに巻いてある木炭が置いてあった。
「この太陽の高さがらして、だいたいもうそろそろお昼頃だ。」 男はそう言って、セイとシュウに視線を向けた。
「・・・」
二人は黙って男を見た。
「おら、こごがらもうちっと上に行った山ん中で、炭焼きしてんだ。」 男は続ける、 「お二人さん、どっから来たんでえ?」
その後、二人は男と打ち解け、しばし話が弾んだ。セイは、自分たちは隣町の伊王野村に住んでいて、紙すきをしていること。シュウは、朝鮮からやってきたこと。そして、この山登りが自分たちの新婚旅行であることを話した。
「そうけえ、新婚旅行けえ。それはおめでとさん。」 男は素直に祝ってくれた。
話題は、昨夜キャンプをした河童が淵のことになった…
「そんでも、なんだー、雨が降らねえで良よがったな。こごらへんは、降れば土砂降りだがら、少しでも降ると、あそこの砂地は川の中しずんぢまうんだわ。そんでな、河童の話なんだけど・・・」と、男は話を続ける。一度ヨネに聞いた話だが、二人は黙って聞いていた。話はヨネのものとは随分違っていた。
男の言う河童の話はこうだった。
淵には雄と雌の河童が2匹と其の子供が1匹いた。 3匹がこの淵に住み着く前は、雄はずうーっと下流の淵に、そして雌は更にそこからずーっと下流の淵に住んで居たそうな。 雄河童の住む淵の水際には大きな胡桃の木が何本か立っていて、河童はそのうちの1本の木の根本に穴を掘り住処としていた。河童は、強い太陽の光に照らされると頭の皿が乾いて死んでしまうので、太陽の出ない曇りの日か、星の瞬く夜を目途に活動していた。 ある日、下流から、痩せこけてへとへとになった雌河童がやってきた。どうしたのかと聞くと、自分が生まれて今まで住んでいた淵にはもう住めなくなってしまったとのことだった。 彼女が子供のころは、淵は平和で食べ物がたくさんあった。しかし、十年ほど前からそうでなくなったとのこと。淵の周りには人間が住みつき、その数は瞬く間に増えていった。それからというもの、彼らは淵をわがもののように荒らしまくった。そのため、雌が好んだアユやヤマメといったおいしい魚は真っ先にいなくなり、他の魚もほとんどいなくなってしまった。魚がいなくなってしまったので、仕方なしに、その代わりにいろいろなものを捕まえて食べた。蛙を捕まえては食べ、命の危険を冒して土手に上がりってバッタを捕まえたりしたそうな。そんな努力にもかかわらず、人間は、今度は自分達の都合のいいように淵を変え始めた。河童は淵の住処のあった土手を切り崩して、石を積み、固めてしまったのだという。合間に埋まる大きな土管からは臭い水が次から次へ流れくるようになり、もはや住めるような状態ではなくなってしまったのだそうな。
雄は傷心の雌を温かく迎え入れた。まもなく二匹の河童は夫婦となり、しばらく平和に暮らした。やがて、子供が生まれた。だが、そんな暮らしも長く続かなかった。人間の魔の手は雄河童の淵にも伸びてきたのだ。「育ち盛りの子どもにひもじい思いをさせたくない。」メス河童はそう思い、子供を連れて河童が淵までやってきて住むようになったのだった。この淵の上流には家族が住める淵はない。淵は家族の最後の砦なのだ。 それ以来、河童夫婦は「河童は淵」に来る人間の姿を見ると、雷に頼んで大雨を降らせ、人を淵の中に引きずり込むようになったということだった。
男は言う、 「世間に伝わる話の中じゃあ河童を悪く言ってっけど、本当はそうでねえんだ。」 そして少し間を置いて続けた、 「俺らだってよ、食べ物がなぐなったら、そんで住む所がなぐなったらどうするよ?ま してやちいせい子供もいるんだしな。」
「んだなあ」とセイは言い、しばしの沈黙が流れた。
男は、立ち上がり、炭の束をそっと拾い上げ、一度ベンチ置いてから背中に担ぎ、 「…んでな。気をつけてな」 そう言って立ち去った。
「それにしてもよ、昨日の晩、土砂降りに遇わなくて良がったなあ」セイが切り出した。 淵を宿泊場所に選んだのはやはり間違いだったのではないかと反省して言ったのだ。
「うん。そんだって、ヤス立ててきたんだべ?」シュウはそう言ってセイを安心させた。
二人はその後、朝に淵でつくっておいたおにぎりを食べ、再び山道を登り始めた。1時間も歩くと、景色が変わった。周りに競り上がっていた山がだんだんと低くなり、空がだんだん広くなり、視界が開けた。足元から伸び上がってくる木々の枝の合間から山並みが見える、これまで見上げていた山並みが下に見えるようになった。
二人は山の清涼な空気を全身で感じながらゆっくりと歩みを進めていた。山肌に続く道は左側に曲がりながら、ぐるりと山を回りこんだかと思うと、また山にぶつかり、谷をえぐるように右に折れた。再び左にゆるく曲がりながら山を迂回すると、道はまっすぐに伸びていた。視界を遮る木々はなく、足元に樹海が広がった。
「すごいねー。緑の波がうねってるよ。」 シュウが言う。
「んだな」
二人は立ち止まり樹海をみつめた。 「なんか、全力で走って『やあっ!』て飛び込んだら泳げそうだね」 シュウは冗談を言う。 「ははは、んだな。したらやってみっか?」 セイは、樹海に向かい、山を背にして後ずさりして止まり、走る格好をした。
「なにしてんのさ?」 シュウはセイの子供のような仕草に微笑んだ。
二人は再び歩き始めた。しばらく行くと、山のほぼ頂上近くの平地に出た。太陽に照らされていた道がまっすぐに伸びていた。先には鬱蒼と茂る雑木林があった。二人はだんだん近づく。林に続く道の入り口にはシイやカシの木が光を求めて山道にせり出し、枝葉を広げ、覆いかぶさっていた。
「それにしても、すげーね、緑のトンネルだね。」
シュウが言った。
「『尾根の休憩所まで二町 山頂の展望台まで二里』だってよ。」
セイはトンネルに入る手前の道標を読んだ。
二人はトンネルに入る前に休憩を取ることにした。セイは背中に背負った茣蓙を敷いてシュウに座るよう促した。セイは水筒をあおり、水を飲んだ、顔を空に向ける、頭のすぐ上を雲が流れている。風は東から西に流れる。雲の塊は空にぽっかりと浮んでいる太陽を隠した。トンネルの中を見る。中は真っ暗だった。再び太陽が顔を出した。
「そしたら、尾根まではあとすこしだがら、そごまで行ったらまた休んべ」 セイはトンネルの前でに仁王立ちになり、中を覗き込みながら言った。
「うん、でも、なんか入るのやだなあ。おてんとうさまが雲に隠れてうす暗くなっちまったら気持ち悪いし・・・」セイの背中越しにシュウは言った。
「大丈夫だ、行くべ!」
セイは先にトンネルの中に2・3歩入り、振り向いて言った。立ちすくむシュウをチラリと見たあと、勢い良く歩き始めた。
シュウは早足でセイの後について行く。道は林を縫うようにうねった。間もなく山頂とのことで、セイの歩みはいつも以上の勢いだった。シュウはセイに必死についていった。少し離れてくると、足を速めて追いつき、追いついてはまた離れた。だが、しばらくすると追いつけなくなってしまった。2メートル、3メートル、5メートルとその距離はだんだん離れていった。セイは振り向いてくれない。シュウはふとそのとき、自分が小さかった頃、母がよく歌っていた唄を思い出した。
「アーリラン、アーリラン、アラリヨオー」 シュウは韓国語で歌い始めた。
セイは、立ち止まり、後ろを振り返った。シュウは、数十メートルほどもあろうか、かなり離れたところを、ゆっくり歩いていた。セイに追いつくと、顔を覗き込み、セイの目をじっと見つめた。
「すたすたと歩いちまって悪がったな。」 セイは、昨日の戸中峠でのことを思い出していた。また同じ事をしてしまった。ほんとうにすまないという気持だった。きちんと学習できていない自分が情けなかった。
「うん・・・」シュウはうなずく。汗がこめかみを伝って流れた。
「今の歌、いい歌だな。もう一度歌ってくんね?」セイは言う。
シュウはしばしの間セイの顔をじっと見た。そして、セイと一緒に並んでゆっくりと歩はじめた。さっきの歌ぅた1番だけを歌い始める。
「アーリラン、アーリラン」
歌が終わると、セイもまねをして 「アーリラン、アーリラン、アーラーリーヨー」 というところだけが聞き取れたので、そこだけを繰り返して歌った。
シュウは、再び歌いはじめる。セイも必死に付いていく。
「『アーリラン』て何だ?」 とセイは尋ねた。
「峠の名前だ」尻上がりの口調でシュウが答えた。
「へえ、そんでその後は何つってんだ?」 セイが尋ねた。 「うんとね・・・」とシュウが言い、 アリラン アリラン アラリヨ アリラン峠を越えて行く 私を捨てて行かれる方は、 十里も行けずに足が痛む。 という、歌詞の内容を伝えた。
それを聞いてセイは言った、
「そうが、そんで歌ってたんだな。別に捨てて行ぐつもりはねがったけど、気がつかねーで、悪がったなあ」
「別にいいよ。でも、何か一人ぼっちになっちまいそうで、ちっとさびしがったぞ。」シュウはしょぼんとしてうつむいた。
「おめー、もうへとへとなんだなあ?」
そう言って、セイは背負っていた荷物を地面に降ろし、シュウに背中を向けてしゃがみこみ、
「もう歩けねえべ?乗れ。」と言った。
「ほんでも、あんたも疲れてっぺ?」
「いいがら、乗れ。その代わりさっきの歌また歌ってくれ。な、まだ2番も3番もあるんだべ?」セイが返した。
「うん、そんなら、どうもな。」
シュウはセイの背中に乗った。
「テレるようなごと言うんでねえ。」
脇に置いた荷物を拾い上げ、セイは立ち上がって両腕を通し、前に抱えて歩き出した。
「そんでもよ、2番3番の意味わがんめ?いいのげ?」シュウが言う。
「そんなのどうでもいいんだ。俺は聴きてえんだ。」
シュウにとって、セイの大きな背中はとても心地良かった。背負われているうちに、もうすっかり忘れていた父親のことを思い出していた。小さいころ、シュウは良く泣いた。泣くと、父は自分を背負ってくれた。父の背中にいると、心が穏かになり、涙が収まった。
「うーんんん」 シュウはセイの背中でまどろんでいた。寝ぼけ眼で、首をぐるりまわし、あたりを見。左右には木々が立ち並んでいる、丈は今まで見てきたものよりも低くなっている。空は雲の海が広がっていた。
「いつの間にかトンネルを抜けちまったんだね?」シュウは言う。
「うん。もう少しで頂上だ。」セイが返す。
「あれ?休憩所で休まなかったのけ?」
「うん、おめえ、眠ったばっかしだったからな。」
「わりいな、こうやってっと、あんま気持ちよすぎで、なんか寝ちまったよ。」
「おめ、ほんと疲れてたんだなあ。ちっとは楽になったがい?」
「うん。あんがと。セイさん重いべ?ワタシもう歩けるから。大丈夫だから!」
「ん、そっか?そしたら。頂上まで一緒に歩くべ。」
セイはシュウを降ろし、左手でシュウの右手を取り、一緒に歩きはじめた。人が一人ほどしか通れない狭い道ではあったが、セイはに斜め歩きをしながらシュウの手を離さなかった。
「さっきの唄歌ってくんね?」セイはまた頼んだ。 「あ、そだ、わりい。歌ってるうちに寝ちまったんだっけが?
と言ったあと、歌い始めた。
「いい曲だなあ、も一回歌ってくんね?」また頼んだ。本当に気に入ったらしい。
「アーリラン・・・」シュウが歌い始める。セイも一緒に歌う。何度聞いても、セイは「アリラン」というところだけしか覚えられず、それ言葉以外は鼻で歌った。それでもシュウは、そんなセイの真顔を度々見ては微笑んだ。
二人は、その後も飽きることなく繰り返し歌った。
丈の低い林を抜けると、左手の高台に、丸太で組んだ展望台が見えてきた。近くまで歩み寄って梯子の前に立つ。改めて展望台を見上げる。3mほどもあるだろうか。セイは梯子を一段…二段…と登っていった。
「大丈夫か?」 先に登り終わったセイは、展望台の上で、後に登ってくるシュウに右手を差し出した。
「大丈夫、自分でできる。ありがと」シュウは言う。
二人は八溝山頂の展望台の上に立った。先客のカップルが3組ほどいた。時折強い東風がビュウッと吹き抜ける。雲が流れている、しかし、雲は自分たちの下にも流れている。ぐるりと四方向を見渡す。樹海がうねる。同じ緑でも微妙に違っていた。濃い緑の一帯と、薄い一帯が入り混じっていた。濃い部分は杉、薄い部分は雑木だろう。樹海のところどころに雲が浮いていた。 二人は北西を見る。雲の向こうの遠くに那須連山が見えた。二人は那須にはまだ行ったことがないが、温泉があり、湯治を目当てに沢山の人がやってくるのだヨネから聞いていた。
「あっちが伊王野だ!」セイは指で差して言った。セイは勉強はからっきしだったが、なぜか方向感覚にはとても優れていた。
「そうけ?そんなら、ワタシの住んでいた延吉はもっとその奥だね!」シュウは微笑んでいたが、目は寂しそうな目をして言った。
セイはシュウに一歩近づき、左手を握った。シュウはギュウッと握り返した。
二人は同じ方向を見つめていた。
「次はシュウを那須に連れて行きたい」セイはそう思っていた。シュウは家族と過ごした故郷のことを思い出していた。
東風がビュウッと吹いた。
「アッ!」
シュウはグラリとよろけた。セイはシュウの腰に腕を伸ばし、シュウをグイッと引き寄せた。二人は並んで西の空を見る。わずかながら朱色に染まり始めていた。目の前の雲が、まるで二人に気を使っているかのように足早に通り過ぎて行った。
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