二人は、戸中峠の沢で昼ご飯を食べた後、二里ほど歩き、八溝山の入り口までやってきた。八溝山登山口と書いてある木の看板のところで折り返すように右に曲がると、道はスギの林の中を縫うように走った。少し行ったところに丸太で組んだベンチが左側にあり、そこで休んだ。 二人は、八溝の山へ続く道を歩き始めた。両脇には茄子やエンドウ豆の畑が広がり初め、道は前方にゆるいカーブを描いていた。数十メートルほどの杉の並木道を一つ、二つと抜けていくうちに、道の曲がりと勾配が少しずつ増していった。登山口に入ったばかりのころは、渓流が直ぐ右側を併走していたが、今は自分たちの足元よりもずっと低いところを流れている。畑がなくなり始め、左右の山肌が迫ってきた。更に歩みを進める。杉林が視界を遮る道を数度折れると、樹齢数百年もあるであろう太い杉の木が何本か現れた。 三里ほど登ったところで、突如右手の視野が広がった。百メートルは超えるであろう低い位置を川が帯ほどの幅で流れるようになった。はるか上流に目をやると、川原が開けていた。山間からの流れが山岸にぶつかり、岩をえぐり、緩やかな深みを作り、対岸には砂の岸辺が広がっていた。
「アレがばあちゃんが教えてくれた河童が淵だ。今日泊まっとこ(所)だ。」セイは言う。
雨の時は危険だと聞いてはいるが、二人はそこで野宿をすることにしていた。
「なんか、いいとこみてえだなあ。」シュウは言う。
間もなく到着すると思うと、歩みに力が入ってきた。
やがて、本道から右に降りる小道が腰ほどのえのころ草とセイバンモロコシが入り混じって生い茂る藪の中に見えてきた。一人がやっと通れるぐらいの道を降りはじめると、雑草のタケは更に高くなった。獣道よろしく隙間なくびっしりと生える雑草を掻き分けて進むと、道のまわりには、十数年ほども頬って置かれたような古い杉の切り株があちこちにポツリポツリと見えてきた。百メートルほど歩いた後に雑木が生い茂る林に入り、石がごろごろと出ている急勾配の崖を落ちるように右に折れた。道は右に行っては左に切り替えし、左に行っては右に切り返しながら谷底まで続いていた。やがて崖が終わり林を抜けた。再び腰ほどの高さの草むらしばし歩いてやっと淵にたどり着いた。目の前には綺麗な砂で覆われた岸辺が広がる。
セイとシュウは、水際までやってきて、砂の上に立ち、淵全体を見回した。砂浜は登山道から眺めたものよりも遥かに広かった。自分たちが今立っている砂州は幅十五メートル、長さは裕に50メートルもあるだろう。淵の幅も広く、向こう岸まで広いところだと50メートルはあるだろう。
セイは、川岸を歩き、砂地の真ん中まで歩みを進めた。立ち止まって淵を見たあと、空を見上げた。青く澄んだ空にポツリポツリと綿帽子のような雲が浮かんでいた。
「ピチャン、ピチャン」と魚が跳ねる音が聞こえた。淵の深みに目をやると小さな波紋がいくつか立っていた。川の上流から風が吹いてくる。風に乗って遠くの鳥の鳴き声も聞こえてきた。数里ほども向こうの山を包む雑木林からだろうか。その林を「フワッ」と強い風が撫でた。風はひらひらと木々の葉を翻しながらやってくるのが分かる。視線を落として目の前の川面に目をやる。流れは大きな石にぶつかって二つに別れ、瀬に逃れ、再び合流し、淵に飲まれる。向かい側の崖に目をやる。川が再び本来の速さ取り戻す下流をしばし眺めたあと足元の砂を見た。再び淵に目を戻す。紺青の水面には、向かいの崖とのその上にぽつんと生えている一本の赤松が写っていた。目を凝らすと水底が見えてきた。底には十センチほどの魚が2匹並んで泳いでいた。
「水の色がすごくきれい」 淵を見つめながらシュウは独り言のように言った。
淵へ降りてきてからほんのわずかの時間のことであったが、二人はお互いの時間を分かち合っていた。
「それにしても、この岩魚の塩焼ぎ、えらぐウンメエなあ。いっぱい獲れたしなあ。」 セイは、焼いた岩魚を食べながら言う。
「んだなあ」 シュウは笑ってセイを見た。
セイは、あっという間に一匹目を食べ終え、すぐに焼きあがった別の岩魚を手に取り、背ビレ、胸ビレ、油ビレをとり、火の中に投げ込み、大きな口をあけて背中にガブリと噛み付いた。そして二度、三度とつづけさまにかぶりつき、口いっぱいに頬張っては、数度口をもぐもぐさせてゴクリと飲み込んだ。3度も繰り返すと、背骨だけになった。竹筒の水をあおり、「うめえ」と言っては、すぐさま3匹目を取り上げた。 シュウは、豪快に物を食べているセイを見るのが好きだった。セイの食べ方は、決して上品とはいえない。だが、何を食べてもいつもおいしそうに食べる。見ているうちに自分の食欲もぐんぐんと沸いてくるのだ。シュウはそれにつられて食べ始める。セイはモクモクと食べ続ける。
「そんな急いで食べたら、喉につまるよ。」
「はいこれ」 シュウは自分の水を差し出した。セイの傍らの竹筒にはまだ水が入っていたが、きっかけを見つけて、気持ちを繋げたかったのだった。
「どうも」 と言って、ごくりごくり喉を鳴らしながら一気に飲み干した。
「うめえ」 手の甲で拭った。
シュウは、金網の上にいくつか乗っているおにぎりを見た。おにぎりには味噌が塗ってあった。味噌が火に焦げる度に、香ばしい臭いがした。焼きあがったものを素手で一つ取り上げ、
「おにぎりも食べなよ。」 弁当箱の蓋の上にちょこんと置いてセイの前に差し出した。
手を伸ばし、すぐさま引き寄せて「かぶり」と噛み付いたセイは、
「あっちぃ、あっちぃ」 悲鳴を上げた。口の中で広がる熱さに耐え切れなかった。セイはあわてて傍らの水筒から水を幾度も煽った。暑さは喉元を過ぎ去った。
「焼いたばっかだもん、熱いに決まってるべな、セイさん」シュウは微笑んだ。シュウはコップの水を一口飲んだ。
夕食を食べ始めたころは、まだ少し明るかったのに、いつの間にかすっかり夜の帳は下りてしまった。セイは空を見上げた。夏なのにもかかわらず、空はとても澄んでいて、星がたくさん輝いていた。シュウもつられるように空を見上げた。
「今日はいい日だったなあ。雨も降んねえし、魚は採れるし。」 セイはポカンと口を開けた。もうおなかがいっぱいになったのか、食べるのを止め、半分ほど食べたおにぎりを右手に、水の入った竹筒を左手に持ち、両方の二の腕を膝の上に乗せたままボーっと星空を眺めていた。
「そだな、セイさん」 シュウもセイに倣いながら答えた。
しばしの沈黙が流れた。サラサラという川のだけが聞こえ、どんどん大きくなった。
「あれ?」 シュウは、星空を縫いながらゆらゆらと動く黄緑色の星の光を見つけた。光はだんだん弱くなり、消え、また光りだした。
「ん? おおスゲエなあ、蛍けえ?」セイは答える。
周りを見ると、あちこちに蛍が舞っていた。その数は、だんだん多くなり、空の星の数ほどあろうかと思えるほどたくさんになった。
「きれいだねえ、まるで私たち、ホタルに歓迎されてるみてえだねえ、セイさん」 二人は、目の前を通りすぎる一匹の蛍を見つめる。淡く光りだしたかと思うと、一瞬星よりも強い光を放ち、やがてはかなげに揺らぎながら消えていく。
「あのなあ」 セイが語り始めた。
「こごには本当に河童が居るんだってよ。」
「へえ」シュウは、突然に何かを思い出したかのように話し始めたセイの顔を見る。
セイは続けた。
「あのなあ、聞いた話なんだげっとよ、そんでよ、こごさきて魚を獲る人がいるとよ、雷様(らいさま)に頼んで、洪水を起こしてもらうんだってよ、そんでもって、そいつが流されておぼれそうになると、その河童はよ、そいつを淵の中さ引きずり込むんだってよ。」
・・・自分達は淵で獲れた魚を食べている・・・
「バシャン」と淵にとても大き物体が飛び跳ねた。
シュウは、タイミングよく聞こえた大きな物音にギクリとした。 「それって、本当け?」 シュウの後頭部から首筋にかけて、何かゾワゾワした気味の悪いものが走りぬけた。
セイは「そんでな」と言って隣のシュウの顔を見た。
シュウは固まっていた。
「おい、大丈夫が?」 セイはポンとシュウの肩をたたいた。
「・・・ハッ・・・」 たたかれたシュウは正気に戻った。シュウは続ける 「そんなら・・・アタシらも・・・」
「いや、そんなごとねえべえ。こんどばっかしはオレたちは歓迎されてるんでねえの?」 セイはシュウの言おうとしていることが分かった。
「歓迎???」シュウには理解できなかった。
「んだってよ、俺、さっき、川っ淵にヤスを刺して河童に頼んでおいたがら。」
「?」
「それ」と言って水際の砂地を指した。
「実はな、鍛冶屋のタケによ、こごさ行ぐって話したらよ、タケはよ『これ持って行げ』ってヤスを一本くれてよ。そんでよ、そのヤスを川の淵の縁に刺して、手を合わせて『今日は魚獲らしてもらってあんがとう。このヤス、魚獲りに使っとごれ。』って河童に頼めば大丈夫だ。」って言ったんだ。だがら、河童は怒らねえんだ。」
セイは、人に言われたことを鵜呑みにする。
シュウは、セイが先ほど差した場所を再び目を凝らして見た。そこには、月明かりにぼんやりと照らさて、ヤスのシルエットが伸びていた。
何事もなく時が流れ、石を積んで作った炉の火がだんだんと弱くなった。対照的に遠くを飛んでいた蛍がじわりじわりと二人に近づいてきたためか蛍の光は強くなっていった。二人は、パチパチと鳴る残り火をみつめていた。そしてその二人を月と蛍が見つめていた。
「あ、そだ」とセイは言って、何かを思い出したように突然立ち上がった。そして、くるりと背を向け、草が生い茂る暗闇に足を踏み出した。
「どごさ行ぐの?」とシュウ。
「ん?ちっとな」と言って、すたすたと歩いて行き、立ち止まったかと思うと腰をかがめて何かを探した。そして、草藪のから何かを拾い上げた。
シュウのところに戻ってくる途中、セイは空を見上げ、手のひらを空に突き出した。すると、近くを飛んでいる一匹の蛍がフワリフワリとセイに近づいてきて、手のひらに舞い降りた。
セイは、ゆっくりと手を降ろし、胸の前で両手で大事に抱えた後、そろりそろりと忍び足でシュウのほうに戻っていった。
シュウは、不思議な眼差しで、セイを見つめていた。
「はい、これ」 シュウにたどり着くなり、胸元から両手を伸ばし、ゆっくりと開いた。
「・・・」
手には、一厘の花があった。花はゆっくり光りはじめた。光が増すにつれ、その輪郭が姿を現し、闇の中で鮮やかな紫色に染まった。それは蛍と花の織りなす美の競演だった。
「うわー」シュウは、闇の中に映える素朴な美しさに見とれた。
「この花はよ、ホタルブクロって言ってよ。昔の人は、夜真っ暗くなったら、手元に明かりがなくなるべ?そん時にこん中に蛍入れて、明かりを採ったんだってよ。」とセイは言って花をシュウに手渡す。
「ありがとう」シュウは素直に喜んで受け取った。
蛍はシュウの手のひらの中でゆっくりと光り、そして消える。二人は、何度と無く繰り返されるその行程をしばらく眺めていた。美しいと思える時間は蛍が強い光を放つほんの一瞬だったが、それがゆえにとても美しいとお互いに感じていた。
シュウは、光っては消える蛍の光を見ながら、自分が今感じている幸せはこんなふうに一瞬で終わってほしくないと考えていた。でも消えた後に光り始めると、そんな考えが徐々に打ち消され、その美しさにのめりこんで行った。
シュウはセイに目を移す。セイは石の上に座りながら目を閉じてうとうとしていた。すぐに、こっくりこっくりとうなずくように眠りはじめた。夜空を見上げると、星が流れた。シュウは、ヨネが言った「流れ星を見たらな、願い事をすれ!そしたらその願いは叶うんだからな!」という言葉を思い出した。シュウは手を合わせ「どうか今の幸せが永遠でありますように」と祈った。
シュウは再びうとうとしているセイの方を向き、「そしたら、寝るべ?」と声を掛けた。まどろむセイの腕を肩に担ぎ、後ろにあるテントに向かった。テントは夕方に作ったもので、川原で拾った木の枝で骨組みを作り、屋根に大きな油紙をかぶせ、砂地の上に茣蓙を敷いて寝床を作り、更にその上に風呂敷を敷いた。
二人はテントに入って横になり、着替え用に持ってきた服を掛け布団の代わりにかけた。草むらでコオロギとキリギリスが鳴いていた。セイはイビキを欠き始めた。そのイビキを聞きながらシュウもすぐさま眠りに落ちていった。
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