季節は巡り、米沢にまた夏が来た。稲の穂に強い太陽の日差しが照りつけ、空には綿帽子のような雲がポッカリと浮かんでいる。紙漉き小屋の前を流れるわずかなせせらぎの上をオニヤンマが行き交い、乾いた石の上にはシオカラトンボ、水際の草の葉には糸トンボが羽を休めている、水辺の葉の裏では、強い太陽の光を避け、蛍が夜の出番を待っている。 時折、長源寺の方から、生暖かい風の一団がやって来て、竹藪をブワリと揺らし、過ぎて行く。 日が落ちて、夜になるとコオロギやキリギリスが合唱し始める。闇が深くなり始めるころにやっとのことで沢から黄緑色の光がゆらりゆらりと舞い上がってくる。ツーッと闇夜に線を引いては消え、またツーッと線が引かれる。二本の光が、離れたりくっついたりしながら絡みあったりしている。虫たちの奏でる音楽に合わせて求愛のワルツでも踊っているのだろう。
「セイさん、今日の蛍はいつもよりなんか、綺麗だねえ。」シュウは言った。
「んーだなあ。今日は、いつもよりいっぱいいるんだべか?」セイが言った。
セイとシュウの二人は、縁側に足をだらりとたらして座り、自家製の和紙とタケで作った団扇をゆっくりと左右に仰いで胸元から顔に向けて風を送りながら蛍を眺めていた。
一匹の蛍が、ゆらりゆらりとセイとシュウのすぐ目の前をかすめた。漆黒の闇に舞う灯は、幻想的な世界を醸し出した。
「もうそろそろ始まるなあ?」ヨネが、背後の障子をすうっと開けて縁側に出てきた。
「んだなあ。囃子と笛の音もなり始めたしなあ。」セイは答えた。
ヨネは持ってきた行灯を、セイとシュウの間に置き、セイの右側に座った。
この日、伊王野小学校の校庭では盆踊り大会があった。年に一度の盆踊りは、なんの娯楽もない村人たちにとって、とても華やかで楽しい催し物だった。
セイは幼いころのことを思い出していた。父と祖母に連れられ、手に持った提灯の火を頼りに、小学校までの道程を歩いて行った。ヨネはセイの後ろを歩き、
「オラア!ハシャグんでねえ。そんなにハシャイでっと、田んぼに落っこっちまうぞぉ。」
と言った。
太鼓の音に歌声が混じり始め、歩みを進めるたびに大きくなって来た。さくらばしを渡り、校舎の左をすり抜けて行くと、校庭の中央にやぐらが見えてきた。やぐらからは八方に綱が張られていて、綱には提灯がびっしりと付けられていた。その灯りの下で何十人という人たちが踊りを踊っていた。綱で仕切られた踊りの舞台の外側にはその数倍の見物客が居た。踊りの輪の中にいる、身内や友人を指で差しては顔を見合わせ、笑い合っている。そんな人たちも、やがては雰囲気に慣れて踊りに加わる。
セイは、しばらく踊りをボーっと眺めていた。
「おーい!」と言いながら手を振り、なじみのタケとその他の友人たちが跳んでやってきた。セイが友達としゃべっている間に、祭り好きのスギがいつの間にか踊りの輪の中に入って踊り出していた。
セイはそんな父に気が付き、「おとーちゃーん!」とでかい声で叫び、手を振る。 スギは、セイを見てニコニコと笑いながら手を振り返してくれた。
セイとタケたちは顔を見合わせ、 「いぐが?」 「いくべ」
と声を掛け合い、スギの後ろに割り込んで踊り出した。セイとタケたちの集団には決まりごとがあった。踊りの終わりにパチリと手をたたくとき、「スットコドッコイショ」と掛け声であわせることだった。そうすることで集団が息を合わせることができるとともに、自分達の存在を多くの人に知らせることができるのでとても楽しく踊れるのだった。
ヨネはそんなスギとセイに輪の外から優しい眼差しを向けていた。
この日は、村では年に一度の花火大会でもあった。
放送がかかり、踊りが中断され、花火が上がり始める。
「何であんな大きな空に絵が描けるんだ?」
セイは見るたびにその美しさに魅了された。瞬きも、身じろぎもせずに、口をぽかんと開けてずっと空を見上げる。
スギは、そんなセイの姿を見て、いつに無くご機嫌な声で、 「そんなに開げてっと、あごが外れっぺえ。虫も入ってくるべよ。ははは」と言って、セイの背中をたたいた。
・・・なつかしい、でももうあの時はもどれない・・・
「はい、これ」といって、シュウはセイとヨネの間に割って入り、お茶の入った3つの茶碗が乗る盆をセイの目の前に差し出した。 セイは、ビクリとして我に返り、 「わりーな」と礼を言い、一つ手に取った。
ヨネも、いつものように、 「すまねえな」と言って茶を取った。
3人は縁側に腰掛けて、お茶を啜りながら舞い飛ぶ蛍をまだ眺めている。コオロギやキリギリスの声がひときわ大きくなった。夜風が竹林をサラサラと音を鳴らしながら吹き抜けた、全ての音を掻き消した。
「どーん、ぱん、ぱん」 「どどーん、ぱぱん」
花火の音が遠い空から聞こえてきた。
セイは、楽しみにしていた盆踊りに行くのを、今年はやめた。それは、酒屋のシゲと味噌屋でいざこざを起こして以来、村人の間に妙な空気がずっと流れているのを感じていたからだった。もし行けば何か起こるかもしれない、そう心配したからだ。
味噌屋でいざこざがあった日以来、セイとシュウが街を歩くと、子供たちに、「売国奴」とか「朝鮮バイタ」と罵られるようになり、石を投げられた。何度か続いたので、二人は街を歩くことを避けるようになった。用事があるときは鍛冶屋のタケに頼むようにしたのだった。 小屋に居るときでさへも、子供たちは、里からわざわざやって来ては嫌がらせをした。セイが、川の溜まりで楮(こうぞ)を水面に打ち付けていれば、その上流をバシャバシャと走り回って水を汚した。庭で出来上がった紙の手入れをすると、今度は石を投げた。商品はぼろぼろになり、加えて家の障子目掛けて投げるので、あちこちが破れてボロボロになった。当然の事ながら、セイやシュウやヨネの身体には石が当たり、あちこちに痣(あざ)が出来ていた。 更に悪いことに、子供たちは竹竿に洗濯物が干してあると、隙を見て洗濯物を全て地面に引きずり落として帰って行くのだった。
シゲの手はセイの顧客にも及んでいた。紙を納めに行くと、お何軒かのお得意様から取引を絶たれた。セイたちの暮らしは、以前にも増してますます困難になった。
「ごめんね、私が来たばっかりに」、シュウは悪いことが起こるびにいつも謝った。 そのたびに、セイは、 「悪いのは、おめえじゃねえ、」 そう言い返した。
「もう、盆踊りは終わったんだべかなあ」ヨネが切り出した。 「んだなあ、しばらく何も聞こえねえしなあ。」セイが答える。
・・・しばしの沈黙が流れる・・・虫の音が聞こえはじめ・・・蛍が舞い飛んでいた・・・
「今日はお月様は出てねえけど、蛍だげでもいっぱい飛んでて良がったなあ」セイは話の流れを蛍に戻した。
「ほんとだなあ」ヨネは蛍を眺める。
・・・沈黙・・・
三人の目の前には、蛍の光と虫の音が醸し出す幻想的な世界が広がっている。夜がふけてきたせいか虫の音がとても大きく聞こえた。
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