ゼンマイ採りに行ってからというもの、セイ、シュウ、ヨネの3人は、まるで昔からずっと家族であったかのように暮らした。
シュウは米沢での貧乏な生活に何の不平も言わず、炊事、洗濯、仕事を自ずからこなした。ときおりヨネが寝込むとヨネの看病もした。暮らしは楽でなかったが、シュウは、遠い昔に延吉に置いてきた、幸せで充実した毎日を送っていた。家族への所属感がこれほどまでに人を落ち着かせ、安心させてくれるものとは思ってもいなかった。この世の中に自分を必要としてくれる人がまだいることで、自分の存在する理由を確かめられた。シュウはボロボロの心が徐々にいえていくのを感じていた。 ヨネは事あるごとにシュウを頼るようになった。シュウが来たばかりの頃こそ、ぎこちないやり取りをしていた。だが、シュウと一緒に暮らすうちに、少しずつ気持ちが変わって行ったのだ。今は、どんなときもいやな顔ひとつせず、積極的に尽くしてくれるシュウに頭が挙がらなくなった。 セイはシュウが家に来てくれたことで、以前よりも張り切って仕事に打ち込めた。傍目には、強そうに見えるセイは、内面はとても寂しがり屋でだった。私生活ではいつもシュウに甘えていた。ぺらぺらと何でも話した。
「あのなあ…」
セイは紙を漉きながらシュウに話しかける。
この日の内容は、セイは自分が保育所にいた頃の事だった。ある日の夕方、セイは友達と庭のブランコに乗って遊んでいると、門の辺りから誰かが友人を呼ぶ声が聞こえた。友人は、その声の主が母親だと気づくと、ブランコを止めて必死で駆けていった。もう少しで母親にたどり着く手前で転んでしまい、泣き始めた。友人の母親が駆け寄って抱き上げ、友人の頬に自分の頬を摺り寄せてなだめた。やがて、友人は泣くのを止め、母親に手を引かれて歌いながら帰って行った。
でもセイは当時、そんなふうに母親に甘えられる友達がうらやましかったのだろう。もちろん、ヨネはセイをとてもかわいがってくれたはず。でも、ヨネはセイのやさしい祖母であり、母親ではなかった。それはどうしようもなくて、変えられないこととは分かってはいても、セイは一度は母親に甘えて見たかったのだろうとシュウは思った。シュウは、セイの話を聞きながら、そんな幼いころに置いてきたセイの“心”の拠り所に、できるものならなってあげたいと思った。
ヨネもセイも、シュウが家族に加わることであらゆることがうまいように動いているのを感じていた。それはまるで、動きの悪い二つの小さい歯車に、大きな歯車が加わり、それによって全てが力強く動き出しているという感じだった。
紙屋敷での二人の”朝鮮系満州人”に対する見方は変わった。だが、村の人達の見方はというと二人とは違っていた。
ある風の強い日、セイとシュウは味噌を買いに伊王野の繁華街へ出た。味噌屋は伊王野尋常小学校の前の通り沿いにあった。二人は、小学校の校門を背にして歩き、大通りに出た。道路に出ると、あちこちに土がえぐれているところがあり、そこには砂利が敷かれていた。土ぼこりを巻き上げながら人と荷馬車、時折自動車が行き交っていた。味噌屋は道路の向かい、右、五十メートルほどのところにあった。二人は荷馬車が通り過ぎるのを待って通りを渡った。味噌屋に近づくと、店の中に何人か先客がいた。彼らは、ガラス越しに二人をチラリチラリと見ながら、何やらひそひそ話をしていた。
セイは、店の前に立ち、引き戸に手を掛けてガラッと開けた。 「こんちはー!」と言いながら中に入ると、 先客は話をぴたりとやめた。誰かが人越しにチラリとこちらを覗き込んだ。
店内に重苦しい雰囲気が流れていた。シュウは平然としているが、セイは一瞬でも早く逃げ去りたかった。すぐに味噌を手に取り、さっさっと支払いを済まし、店を出ようとし、引き戸に手を掛けたまさにその時、
「おやまあ、この前隣町の材木問屋の娘さんと見合いした、紙屋敷のセイさんでねえのげ?」
と誰かが声を掛けてきた。声の方を振り向くと酒屋のシゲがいた。
「そういえば・・・」
シゲは話を切り出し、セイが以前した見合いの話を切り出した。
セイの足は引き戸の前で「ピタリ」と止まった。セイは思い出したくない嫌な出来事を掘り起こされて言葉が出なかった。しかも、千代を忘れるために鍛冶屋のタケと一緒に宇都宮に行ったときに出会ったシュウが丁度いるのだからバツが悪かった。
「あ、どーも、シゲさん。こんちは。」
セイは何を言って良いのか分からなかったので一応挨拶をした。「シゲはわざと、自分とシュウが一緒にいるときを狙って話を切り出したのだろうか?」とセイは思った。
シゲは、婦人方を押しのけ、セイの前に出てきた。そして、シュウの顔をまじまじと見ながら、
「こんちは」と声を掛けた。
「こんにちは」シュウはぎこちなく挨拶を返した。
シゲは、シュウが挨拶を終わると、頭の天辺から、つま先まで、ゆっくりと目でなめまわし、
「セイさん、嫁をもらったって噂聞いたげど、ずいぶん別嬪だねえげ?」
と含みのある口調でセイに投げかけた。
「どーも」
だがセイはその言葉を素直に受け取り、にこりとして礼を言った。
「何だい?こんな綺麗な嫁様、どごで見っけてきたんでえ?」
シゲはわざとらしく尋ねた。
セイは、シュウの顔をちらりと見て、
「宇都宮だあ。」
と言った。
「宇都宮で?ふーん。で、このお人は宇都宮で何してたんだい?」
シゲはいやらしい質問を続けた。
「・・・」
セイは、頭の中で「このままでは、シュウがさらし者になってしまう」と考えた。
「客商売」
と言い残して出ていこうとした。すると、
「世間じゃあ、セイさんは、こごらへんのまともな世間の女には相手にもされねーんで、わざわざ宇都宮くんだりまで捜しに行って来たんだっつー噂が流れてんだけっと。ほんとなんけ?」
と、シゲは、さらに、皮肉とも侮辱ともいえない質問をさらに続ける。
「・・・」
セイは黙ってシゲを睨む。屈辱的な千代との見合いのことを思い出した。
シュウは張り詰めたその場の空気を察知したのか、せいを回り込んで出口の前に立ち、ガラス戸をガラリと開けた。そして、セイの袖を引っ張って「はやく出て行こうよ」と声を掛けた。セイは、シゲから目をそらし、スゴスゴと、シュウに袖を引かれて行った。すぐにシュウは引き戸を開けて外へ出た。続いて、セイも出ようとし、右足から敷居をまたごうとすると、
「セイさんよ」
とシゲがシツコク呼び止めた。
「あんたの嫁さんの言葉は、ぎこちねえけど、あんたまさが、いぐらなんでも嫁がもらえねえがらって、属国の満州人とが朝鮮人なんて連れてきたんであんめえな?」
シゲは、わざとシュウをさらし者にするような質問をした。
「・・・」セイは、シゲの言葉にカチリときたが、何も言い返さなかった。
セイは、既に外に出ているシュウを見た。彼女にもシゲの言葉が聞こえたらしく、唇をかんで、悔しそうな、悲しそうな表情で、ガラス越しにシゲの顔を見ていた。だが、すぐに気を取り直し、セイに顔を向け、再び袖を引っ張り、
「早く帰ろうよ」
と急かした。その声色には、「一刻も早くここを立ち去りいた」というシュウの気持ちが滲んでいた。
セイは、シュウの心を察すると、黙っていることができなかった。
「チョウセン人だったらどうなんで?」
と怒りを押し殺したような静かな口調で、シゲに言い放った。。
「おっとー、やっぱそうけえ。なにもおめー、相手がねーがらって、そんな属国の奴隷みてーなやつと一緒になることなかんべよ?」とシゲは挑発した。
これを聞いて、
「なんでそんなごと言うんだ?シュウは奴隷じゃねー!!」
と、いつもおとなしいセイが、地面が割れんばかりの大声でいきなり怒鳴った。 セイは、シゲをじっと睨みつたまま、身体を乗り出し、今にも飛び掛りそうだった。シゲは思いがけないセイの反応に怯んだ。
「セイさん!いいから行こう!」
シュウは、セイの袖ではなく、今度は腕を取り、力強く引っ張った。シュウはセイの耳元で「ワタシが我慢すれば好いだけなんだから」と囁いた。
セイは、シュウにズルズルと少しずつ引っ張られながら店を出た。セイは、まだシゲをにらみ続けている。やっと、シュウの方に向き直り、赤子のように手を引かれながら歩き出した。二人は馬車と自動車が行きかい、もうもうと土埃の舞う通りを渡って行った。対岸に渡ると、味噌屋の前で、シゲが何やら叫んでいるのが聞こえた。
二人は振り向いて聞き耳を立てたが、その話の内容は聞き取れなかった。 シュウは、どうせろくでもないことを話しているのだろうから聞こえなくてちょうど良いと思った。二人は家路に向かって歩み始めた。
数歩行ったところで、シゲたちのほうから風がブワリと吹いて来た。
そのとき、
「・・・しかも、あのゲス女は、身体を売ってたんだってよー・・・」
というシゲの声が乗ってきた。どうやらシゲはとくとくと、セイとシュウにまつわる話を取り囲んだ女性たちに聞かせているようだった。客はセイと目が合うと、バツが悪いのか、背を向けて店の中に入っていった。シゲだけが残り、ニヤニヤ笑いながらセイとシュウを見ていた。
そして、セイと目が合うと、
「なんか、聞こえたかい?」とわざとセイを挑発した。
「くっそー!ふざけんな!」
セイは、とうとう堪忍袋の緒が切れた。シュウの手を振り切って、馬や人の行きかう通りを横切り、シゲに向かって突進して行った。
「セイさん!!いっちゃだめだよ!」シュウが背後から叫んだ。
だが、激高しているセイにはもう何も聞こえなかった。頭の中が真っ白になり、その後は、一心不乱に”何か”をした。だが、何をしていたのかまでは覚えていなかった。
セイは我に返った。自分の身体は何人かのガタイの大きな男によって地面に抑えつけられていた。周りには大勢の人が集まっていた。
シゲは、目の前で、瞼を腫らし、口から血を流し、地面に仰向けになって倒れていた。やがて、シゲは、二人の男の肩に抱えられ、頭ガックリとたらした格好で引き摺られていった。
シゲはひき擦られながら、ゆっくりと頭をもたげて顔をセイに向けた。腫れた瞼の僅な隙間からセイを睨み、
「今に見てろよ!」
と声を絞りながら、言葉をはき出した、再びガクリと頭を垂らした。
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