「はい、これセイさん」とシュウは言い、竹でできたコップに入ったお茶を手渡した。 すぐに、別なコップにお茶の入っている竹筒を傾けて注ぎ、
「婆ちゃん、はい、どうぞ」と手渡した。
「すまねえな」と言って、ヨネは茶を受け取った。
三人は、今、真ん中の大きな切り株でお昼を食べている。この日は、ゼンマイ採りに来た。ヨネたちは今、米沢で一番高い山のてっぺんにある開けたところにいる。広さは一千坪ほどもあり、かなり広い。植林されて間もないらしく、腰ほどの高さまで伸びた杉の幼木が等間隔で立っていた。晴れていて、視界をさえぎるものがないせいか、米沢の田んぼが見渡せた。対岸にヨネたちの住む紙屋敷も見えた。
ヨネは、午前中のことを思い出していた。山菜採りにはいつも朝が明けきらぬ暗いうちに出発する。春の山にはたまに霧がかる。ヨネは、そんな霧の中を歩きまわるのが好きだった。日ごろ目に見えている世界が目の前から消え去り、自分だけの未知の世界が広がっている。スギ林の中を抜けると、また別の世界が広がるのだ。まるで、世の全ての因縁や怨恨から隔離されるような感覚だった。この日も、ほんのわずか先しか見えない足元を確かめながら歩きてきた。やがて陽が登り始めると、徐々に霧は消え、今は青い空が広がり、現実の世界に連れ戻される。
スギ林の中には、あちこちの木々の根元からはゼンマイがポツリポツリと束になって姿を見せていた。ヨネはそのうちの一束に近づき根元からボツリと折り、背中の背負い籠に入れる。「ヨッコイショ」と立ち上がり、深呼吸をして回りをぐるりと見渡す、するとそれまでの目の位置からは見えなかった別な束がポツリポツリ視界に入ってくる。ヨネは、場所を覚え、近づいては刈り取り、何度も繰り返した。
米沢は他の土地に比べると、地中から頭をもたげるゼンマイのおのおのが太かった。地元の人たちは当然ながら、季節になると芦野や美濃沢、その他あちこちからも人がやって来る。だから、山を歩いているうちに何人もの人に出会う。 山に入る人は少なくない。にもかかわらず、不思議なことに全てなくなってしまうことはない。それは、ここに来る人たちが、食べる分だけ採り、小さいのは後で来る人のために残していくという、誰が決めたのか分からない暗黙の決まりをひとりひとりが守っているからだろう。
今年は、山へ入る人の数が少ないのか、ゼンマイの育ちが早いのか、それともいつもより多く出ているのかは分からないが、ヨネたちの背負う籠がいつもより早いペースで埋まっていった。
「いっぱい採れたね。これでしばらくゼンマイが食べれるね。」 シュウは、それぞれの背負い(しょい)籠を見ながら、そう言って自分の茶をチョビリと飲んだ。ふわりと風が吹き、シュウの長い髪が流れた。
「そーだな。でも、冬の分までだから、飯食ったら、もちっとだけ採って行くべ。」 と言うとヨネは、大麦と粟が沢山入ったオニギリを一口かじり、もぐもぐもぐもぐとゆっくりと口を動かしながら、視線をおよがして隣に置いてある背負い籠の中に三分の二ほどに詰まったゼンマイを見た。やがて、ごくりと飲み込み、空を見上げ、すぐ目の前の山肌を見ながらお茶を啜った。梅の花がポツリと咲いていた。ヨネは、またオニギリをかじって、もぐもぐと口を動かす。ヨネはいつも食べ物が旨いと思った時は、なかなか飲み込まない。何度も何度も口の中で転がし、うまみが広がってから、惜しむかのようにゴクリと飲み込む。 どんなものにもガッツキ、ガツガツと食べるセイとはまるっきり反対だった。この日もセイはがっついていた。
ヨネは、
「そんなに急いで食ったら、味なんてわがんめ?ゆっくりかんで食べろ!」
とたびたび口にする同じせりふを、今日も言った。
「うん…」
とセイは、いつものように言って、ヨネをちらりと見た。セイは切り株の真ん中に目を移した。そこには、シュウが今朝早く起きて作ってくれたおにぎりが竹で編んだ容器に入っていた。 セイは、手に持つおにぎりを食べ終えたあと、容器に右手を伸ばしておにぎりを一つ掴み、目の前まで持って来て、まじまじと見てから大きな口を開けて、ガブリとかじった。いつものように数度口を動かすだけでゴクリと飲みこみ、
「うめーなあ。」
と言った。それが口癖なのか、本当にそうなのかは分からないが、どんなものを食べても必ず言う。
ヨネはそんなセイの様子を見守る。慌てふためくように食べるセイの姿は相変わらずだと思いながら、何度注意しても直らないが、まあそれでもいいやと思った。 ヨネは、オニギリの横にちょこんと置いてある白い沢庵に手を伸ばしてつまみあげ、口に放り、ぽりぽりと音を立ててかじりながら、再び前方の山に映える梅の花に目をやった。
シュウは、二人を見ながら、セイに会ってから今までのことを考えていた。米沢に着いてから、ヨネとはいろいろあった。ずっとぎこちなかった。でも今は、こうやって一緒にいることで、やっと自分は家族の一員になったのだと実感した。 二人は、自分が作ったおにぎりを食べてくれている。塩しか振っていないおにぎりを、セイはあたかもご馳走のように食べてくれている。暖かい何かが心に伝わってくる。これが家族というものなのか。何気ない時間ではあるがとても貴重なひとときだった。故郷の里を離れて以来、乾ききってしまったシュウの心が、少しずつ癒されていくのを感じていた。
ヨネは、目の前に広がる山並みの、さらに奥に構えている山並みを眺めた。そして、山並みの中に、一寸ばかり高い山を見つけて指差し、
「あれが八溝山(やめぞさん)だ!」とシュウに言った。
「へえ、やめぞさん?」シュウは音が聞き取れなかった。
「んだ、八溝山だ。八溝山地で一番高い山だ。」ヨネは続けた。
「やみぞさんち?」今度は「やみぞ」という音を掴んだらしい。
「あそこに、ヤミゾさんが住んでいるの?」とシュウが真顔で続ける。
ヨネとセイはきょとんとしていたが、少し間をおいて笑い出した。
「『さんち』っつーのは、山がたくさんあるところだ」ヨネが答えた。
「そこで一番高い山?・・・へえ・・・今度登りたい」とシュウは言った。
セイはしばし間をおいて、
「そんなら、今度登っぺ!」と言った。
その後セイとシュウの二人は、山登りの話で盛り上がった。
ヨネはそんな二人の顔を変わるがわる見ながら考えた。
…そういえば、二人は、今は夫婦。身内や仲間に一寸した祝言を挙げてもらった。だが夫婦水入らずの旅行にはまだ行ってなかったっけ…
ヨネはシュウを見た。シュウの顔を見ているうちに、シュウが初めて家に来たときのことを思い出した。 あの日セイは、突然どこの馬の骨とも分からない女を連れてきた。ヨネは、入ってきた女に気づきはしたが、何が起こっているのか理解できず、しばらく呆然としていた。シュウは自分の前に来て、挨拶をしてくれた。しかしながら、しばらく口が利けなかった。やっと出た言葉は、
「おめー、日本人じゃねえべ?どこから来た?」
という、なんともぶしつけな言葉だった。ヨネには、その場をつなぐせりふは、残念ながらそれしか見つけられなかったのだ。突然の訪問とは言え、今考えると自分が情けなかった。
「はい、朝鮮系中国人です。宇都宮からです。」
「婆ちゃん、何言ってんだ?何かもっと違うこと言ったらいいべ?」
セイは、どんな形であれ、待ち望んだ嫁が来てくれたと言うこと、ヨネは単純に喜んでくれると思っていた。にもかかわらず、逆に、のっけから上から人を見下すような言い方をするヨネにカチリと来た。
「んだって、オメーよ・・・」
ヨネは言葉につまった。確かに、セイが嫁を採ることは前々から望んでいたことだった。だが、ずっと受け継がれてきた“常識”を破ってまで嫁をもらおうとするセイを、素直に祝福することは出来なかった。ヨネの頭の中では、セイの嫁は自分の知っている範囲内にいる日本人以外なかった。
「んだってオレ、この人のこと、何にもしんねーぞ!それに、おめー本当にこの人と結婚するんか?」
ヨネは、自分たちとは“身分の違う”人と一緒になろうとしているセイを、わざわざ口に出して非難した。ヨネも、世間一般の人たちと同じように、朝鮮はで日本人より「身分が下だ」と言う誰が決めたとも分からないキマリゴトを知らず知らずのうちに受け入れていたがゆえの言葉だった。
セイにはヨネの意味するところが分かった。
「婆ちゃんよ、オレは、この人を嫁にする。俺と婆ちゃんは、周りの人たちがら差別されてて、そのせーで、オレには、まだ、嫁が来ねーんだって言ってたべ?そんなとこに嫁が来たんだ。うれしいべよ。違う国だからと言って、差別されてる俺たちがまた誰かを差別したら、世の中なんて何も良くなんめーよ?」
セイはいつも以上に強い口調で言い切った。
この村にはずっと”まかり通ってきた常識”がある。身分が低い人が、更に低い身分の人を見つけて馬鹿にし、蔑み、優越感に浸る。更に、不満をぶつけられた人はまた誰かを探して不満をぶつける。 セイはこの常識を日ごろから肌身に感ずる一方、「何でここの土地の人は誰か一人を悪者にしてしかまとまる事ができないんだろう」と反感を抱いていた。
セイは、宇都宮でシュウから聞いたことをありのままにヨネに話した。
ヨネはシュウに同情し、
「かわいそうだなあ。」と言うものの、
「でもよ、街で男も引いてたっつーのは・・・」
と、今度は娼婦を生業にしていたことを責めた。シュウが娼婦をしていたと村人に分かれば、身分の問題に加えて、世間から非難される要素がさらに増えるだろうと思ったのだ。その後、ヨネは“常識”という言葉を巧みに使いながら話を続けた。 それにも屈せず、セイの決意は硬かった。「自分のことは自分で決める」と食い下がり、シュウを家族に迎える姿勢を一歩も譲ることはなかった。
ヨネは、セイとシュウを見る。二人は楽しそうに笑っている。どうやら山へ登る日は八月の天気の良い日に決まったらしい。
「なあ、婆ちゃんよ。八溝の天辺にはよお、どうやって行ったらいいべか?」
セイは、シュウに意気揚々と知ったかぶりをして話しを続けていたが、いざその頂上への路の話になると、まるで知識がなかった。
「そうだなあ、戸中峠を抜げて、棚倉の方がらいったらよがっぺ。峠に着いたらそこで飯食ってよ、そんで、峠を降りて、1里ぐれえんとごに、道案内の看板があっから。迷うごとはねえべ。そんでよ、そごがら2里もいった所に河童が淵っつーとこがあるんだ。そごでよ、野宿でもしたらよがっぺ。」
と二人に勧めた。
「戸中峠で昼飯食って、淵でキャンプか?楽しみだなあ。」セイが言った。
「うん、楽しみだなあ。」
とセイ。
「うん、楽しみだなあ。」
シュウは、セイのセリフを繰り返す。二人は顔を見合わせて「ははは」と笑った。 ヨネは、笑いながら話している二人の姿を見ているうちに、それまで胸の奥底に詰まっていた何かがポロッととれて、自分の二人の世界に引き込まれていくのを感じた。
「婆ちゃんも、行ぐよね」
とシュウは言った。
「んんん…行きてえけっとも、オレは歩けねえがらなあ、イイヨ。二人で行って来。」
ヨネは、八溝の山並みに目を向ける。
「疲れたら負ぶってやるから一緒に行くべ!」
今度はセイが誘った。
「いんや。行がね。でも誘ってくれてあんがとな。」
ヨネはセイに顔を向け、シュウに顔を向けた。ヨネの目には、シュウの目には、深い悲しみが奥に潜んいるように写る。でも、そんなそぶりはしない。明るい前向きなエネルギーだけが感じられた。 米沢に来てから、シュウは必死になって家族のために働いた。毎日、炊事、洗濯、掃除、それに仕事もこなして立派だった。ヨネは、そんなシュウに、来たばかりのころは、とてもひどいことを言ってしまったなあと今更ながら悔やんでいた。
「オメーには、気を遣わしちまって、すまねえな」
シュウに目を据えたまま言った。
「ちっとも」
シュウは、微笑みながら、傍らにある茶の入った竹製の水筒を右手に取り上げ、
「はい、どうぞ」
とヨネに勧める。
「あんがと」
そう言って、ヨネは持っている茶を飲み干し、碗をシュウの方にグイと出した。
茶を注いでもらいながら、ヨネは心の中で「悪かったな、許してくれな。こんなバッパだげど、これからよろしくな。」と念じていた。
シュウは微笑みんがらチラリとヨネを見てなぜかコクリと頭を下げた。ヨネは驚いてうなずき返した。
ヨネは思う、
…心が読めたのだろうか…
まるでシュウは「こちらこそ、よろしくお願いします」とでも返事をしているかのようだった。
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