「婆ちゃん、ただいま」
土間の扉をガラッと開けて、セイが入ってきた。
「それと、これ、お土産だがら」
セイは、手に持った白い袋をヨネに向けて突き出したまま、ぺたぺた藁ぞうりの音を鳴らして歩み寄って来た。ヨネが包みを受け取って、中を開けると餃子が入っていた。
「あんがとよ」
ヨネは礼を言った。だがその返事は気のないものだった。というのも、ヨネは土産よりも、セイの後について入ってきた女の方が気になっていたのだ。ヨネは、ぽかんと口を開けていた。
「こんにちは」女はヨネに挨拶をした。
「この人が、俺の嫁っこになってくれるってよ。シュウさんつーんだ」
セイは突然に、いつもながらのぶっきらぼうな口調で言った。
ヨネは、事態が飲み込めず、まだ不思議そうにシュウを眺めている。
「へ?嫁っ子?」と驚きの表情を見せたものの、まだキョトンとしている。
「んだ、今日からこごさ俺たちと一緒に住んでくれるんだってよ」
「はじめまして。シュウです。これからお世話になります。」シュウはヨネの前に出て、深々と頭を下げた。この台詞は、婆に一番初めに言うようにと、あらかじめセイが言っていたものだった。シュウは、宇都宮で娼婦として働いていた自分を、セイが本気でここまでに連れて来るなどとは思ってもいなかった。
シュウは、アパートでのセイのプロポーズを振り返っていた。セイと話を進めるうちに、彼も日本という社会の中で、差別を受けているのをシュウは知った。差別を受けているもの同士だからなのかもしれないが、セイとは何かしら通じ合えるるものをそのとき感じた。一方では、いろいろな考えが頭の中を巡った。彼について行き、自分がセイの家に入ることで、ますます地域から差別され、隔離されて、迷惑がかかるのではないかとか。身元も知れない朝鮮人“娼婦”との結婚など、セイの家族は許してくれるのだろうかとか。ましてや、セイとは昨夜出会ったばかりなのに大丈夫なのだろうかとか。
あの時、どう返事したらよいのか迷っていた。そんな時に、
「オメー!一人ぼっちで寂しいべ?俺んちさ来て、家族になっぺ。そしたら、一人ぼっちじゃなくなるから。いっしょに行くべ!な!」とセイは強く言った。
シュウはセイの目を見た。彼女の頬にポロポロと涙が流れた。セイの使う言葉は、とても素朴だった。分かりやすかった。それがゆえに、彼の心が直接伝わって来た。
…この人は本気だ…
シュウは、とても嬉しかった。
「だって、迷惑かけない?」とシュウが言うと、
「なんで?」と、セイは、ボソッと言う。
「私、朝鮮人なんだよ。私、行くと差別もっとひどくなるよ」
「差別?そんなの慣れてる。ひどくなる?かんまねー。」
「それに身体を売っていた身だし」
「だって、おめー、好きでやってるわけでねえんだべ?」
「…うん」
「それとも、俺が嫌いなんか?オメー俺んち行ぐの嫌なのが?」
セイの口調が弱くなった。「また断られるのではないか」と不安だった。
「嫌いじゃない!いやじゃない!」と首を左右に激しく振った。
「そんなら、行んべ!」
セイは、そう叫んで立ち上がり、シュウに右の手の平を見せて差し出した。
「うん」と言いながら、シュウはこっくりと頷き、左手を重ねた。
「きっと婆ちゃんも喜ぶぞ!ずっと欲しかった嫁が家(うち)に来んだがら。」
セイはシュウの手をぎゅっと握った。そして、満面の笑みを浮かべて抱きよせた。満たそうとしても満たされないセイの心にはいつも隙間が空いていた。けど、このときは、それが少しずつ満たされていくのを感じた。 シュウも、とても嬉しかった。だが、シュウの感じ方はセイとは違っていた。水のたっぷりとたまったダムが決壊するかのように“わっ”と泣き出した。シュウは両腕をセイの身体にぐるりと回してしがみついた。それはまるで、人ごみの中で迷子になった子供が、やっとのことでお父さんを見つけ、無我夢中で抱きついているかのようだった。 セイはシュウに両腕を回してしっかりと抱き寄せた。二人はしばらく無言でお互いの気持ちを確かめ合っていた。言葉では感じ取れない“何か”を二人は感じていた。
「そしたら、行くべ!」
セイは言葉を投げた。
「うん」シュウは立ち上がり、荷物をまとめはじめた。
すると、セイは、
「今までの、つらい思い出は忘れっちまったほうがいい。そんなもんは全部置いてっちまえ!」
と言った。
シュウは残りの人生を全てセイに委ねることにした。
シュウは、化粧を落とし、目立たない普段着に替え、同僚に挨拶もすることなく、セイと逃げるようにして部屋を出て行ったのだった。
|
|