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作品名:雲の道標 作者:桧山 渓

第1回   1
 それは突然のことだった。
 まだ夜も明けきらぬというのに、山に棲むすべての鳥たちが一斉に飛び立ったかと思うと、すぐさま山全体が轟音とともに激しく揺れ動いた。地面が波打ち、下からは突き上げられるような衝撃が何度も繰り返し襲ってきた。
 ──地の底にいる大蛟(おおみずち)が暴れだしたのだ。
 内ヶ島平九郎はそう思った。今にでも足元の地面を突き破って、大蛟が顔を現しそうな勢いだった。立っていることなどできず、うずくまったまま静まるのを待つよりほかなかった。それは本来、平九郎を護るべきはずの三人の家臣たちも同様で、主君を護るどころか、その場に立つことさえできずにいた。
 その永遠に続くかと思われた揺れもようやく収まり、平九郎たちは互いに顔を見合わせながら立ち上がった。あれほど騒がしかった鳥の声も、今はまったく聞こえない。
「大きな地震でございましたな」
 その言葉に、平九郎は先ほどの大きな揺れが、大蛟の仕業などではなく、ただの地震であると知った。だが飛騨でも時々起こる地震とは、揺れも、揺れが去った後の惨状も、何もかもが比較にならなかった。
 辺りを見渡せば、木々は何本も引き抜かれたように倒れ、地面は隆起と陥没をいたるところでおこしていた。向こうの山は、中腹から土砂崩れをおこし、無残な姿を晒している。平九郎たちが無事ですんだのは、沢の近くのやや開けたところで小休止していたからに他ならなかった。
 巳の刻(午前十時)には城に着くように、まだ暗いうちから宿を起った平九郎たちは、山中で地震に遭遇した。まだ足元が揺れているように感じられる。
「城は無事であろうか?」
 これほどの地震ならば、大きな被害がでたかもしれない。平九郎は城のある方角を見ながら、心配そうに言った。

 豊臣秀吉の命を受けて、越前の金森長近が飛騨に攻め入ったのが、この年、天正13年の七月であった。その後、金森長近との間には和睦が成立した。
 それを祝って、昨夜から城では祝宴が行われているはずだった。内ヶ島家の者は、ほとんどがこの祝宴に参加している。平九郎は父である城主、内ヶ島氏理に命じられて京に上っていて、祝宴には間に合わなかったのである。
「ご心配には及びますまい」
 家臣の一人、林惣右衛門は静かに答えた。惣右衛門は平九郎たち一行の中では最も年長で、もうすぐ五十に手がとどく。昨年元服を迎えたばかりの平九郎には何かと頼もしい存在であった。現に、この中でも、最も早く平静を取り戻している。
「帰雲城(かえりくもじょう)は堅城でございます。むしろ心配なのは我々の方でございましょう」
 惣右衛門の言葉に一同は首をかしげた。
「どういうことでござろうか?若様をはじめ、ここに居る者は誰も怪我などしておらぬ。どのような心配があるといわれるのか」
 惣右衛門は、まっすぐ前方を指差した。
「先ほどの地震で、これより先の目印が消えたやもしれぬ。もし印が見つからねば、我々は城に辿りつけぬかもしれぬぞ」
 その言葉で、平九郎たちの顔に緊張が走った。

 後世、城は居住性を重視して平地に造られるようになった。平城である。だがそれ以前の本来の城は、戦を想定して攻め難く守りやすい山城が一般的であった。平九郎たちの居城である帰雲城もやはり山城である。しかし、この一風変わった名をもつ内ヶ島一族の居城は、名前以上に奇妙な秘密を持った城として知られていた。
 道がないのである。いや正確には正門に辿りつく道はある。峻嶮な山道を乗り越えてようやく到着する道である。その途中にはいくつもの砦が設けられており、飛騨の険しい山々を利用した、まさに難攻不落の道であった。
 当然、その道は攻め手にとっては無いに等しい。そこで通常は別の道を通って攻めることになるのだが、帰雲城には他に辿りつく道はなかった。裏道は隠匿されていたからである。それも他の城とは比較にならないほどの巧妙さで。途中には侵入者を防ぐための罠がいくつも仕掛けてあり、知らずに歩けば命を落とすことにもつながる。
「なんと、それがこの度は我らにとって仇となるとは」
 惣右衛門は空を見上げて嘆息した。
 平九郎たち一行は、裏道を通って城に帰る途中、地震にあったのである。むろん、引き返すこともできない。目印が消えている可能性は等しくある。
 ──同じ間に合わぬのであれば、安全な道をいくのであった。
 惣右衛門には悔恨の念が強い。予期できぬ出来事だったとはいえ、軽率な判断だったと思わざるを得なかった。
「まあ、進んでみなければ分かるまい。目印が消えたと決まった訳でもないぞ。……それにいざとなれば、我々には道標(みちしるべ)もあるのだから」
 ようやく平静を取り戻した平九郎は、つとめて明るく言った。今は悪いことなど考えたくなかった。
「なるほど『きづきの宮にむかひて…』ですな」
 平九郎の言葉に励まされるように、一同は頷いた。今まで最後を歩いていた惣右衛門が先頭になる。そして誰もが緊張の面持ちで目印を見落とさぬよう周囲に気を配って、帰雲城に向けて歩き出した。



「ようやく着きましたぞ」
 その大岩を右に回れば城が見えるという所で、誰かがほっとした声をあげた。
「やれやれ、一時はどうなることかと思ったが」
 普段は感情の起伏をおもてに表さない惣右衛門も、安堵の表情を浮かべている。平九郎は思わず走り出した。一刻もはやく、城の無事な姿を見たかった。元服したとはいっても、やはりまだどこかに幼さは残っている。
 だが、その足は大岩を曲がった所で、急に止まった。平九郎はその光景を見て、動くことも呼吸をすることもできなかった。自分はまだ夢をみているのだと思った。大蛟が暴れている夢の続きを。
 惣右衛門ら家臣たちが後ろで息を飲んだのが分かった。誰も言葉を発する者などおらず、信じられぬ思いで、眼前の景色に心を奪われていた。
 普段から見なれたはずの帰雲山は、その山頂付近から大きく崩落し、まるで山半分が無くなったかのようだった。想像以上の光景に平九郎たちは言葉もなく、ただその場に立ち尽くしていた……。


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