アンドリーナとはあれ以来、会っていない。 警察の取り調べが終わった後、すぐにどこか遠くへ母親と一緒に引っ越してしまったのだと、前田さんが教えてくれた。 前田さんは、自分が退院した後、本気でアンドリーナを探し回ったらしい。 「あんな母親と一緒に、治ることのない病気を抱えて、これからどうするんだろうね」 と本気で心配して、泣いていた。 前田さんとは、家族のような付き合いをするようになり、それは去年まで続いていた。 本当に親切な人で、僕の高校の費用まで貸してくれて、僕がグレもせず柔道にばかり没頭できたのは、杉山さんのあの試合と、前田さんの優しさのおかげと言っていいだろう。 ご主人に先立たれ、元々子供もいなかった彼女は、僕を本当の子供のように思ってくれたようだったが、去年、癌で亡くなってしまった。 坂口さんは大学を卒業して、県庁に勤めているらしい。 藤原さんは、すぐに工場の仕事に戻り、三年後に今度は薬指をプレスの事故で失ったらしいが、なんとか定年まで勤め上げ、今は釣りばかりしているそうだ。 「杉山食堂」 食堂の看板にはそう書いてあった。 ――あの時、僕が見たのは本物のUFOだったんだろうか?―― 僕は店のクーラーの音を聞きながら、漠然とそんなことを考えてみた。 恐らくあれは普通の飛行機で、ジグザグに飛んでいるように見えたのは、杉山さんに散々「高い高い」をされたための目の錯覚だったような気もするし。多分、杉山さんもわけが解らないまま僕に合わせてくれたのではないか。 やがて食堂の引き戸をくぐるようにして、暖簾よりもはるかに背の高い男が腰を屈めながら出てきて、度の強そうな眼鏡をかけた女の背中に、頭をかきながら何か話しかけると、女は男の大きな尻を叩いていかにも幸せそうに、豪快に笑い転げるのだった。 「だからな、お前の体落しは…」 木戸先生のレクチャーは、さらに熱を帯び始めていた。 「先生…」 「なんだ?」 「大会が終わったら帰りに、あの食堂でラーメンとカツ丼の大盛り、おごってくれませんか?」 このころの僕は、あの子供のころからは信じられないくらい、大食いになっていたのだ。 木戸先生が「ん?」と首を回した時には、二人はもう、店に入っていた。 「あそこ、いつから食堂になったんだ?」 木戸先生は眼鏡のフレームを指でつまんで、焦点を合わせるように上下させながら見ていたが「お前」と振り返り、「俺は今、新しいカメラ買う金貯めてんのに…」と苦い顔で嘆いて見せた。 「死ぬ気になればなんだってできる」という杉山さんの言葉とあの試合が、僕の人生を変えた、というほど、その後の僕の人生はドラマチックでもなかったが、この夏の全国大会での僕の活躍を前田さんは終生、自分の息子のことように自慢してくれたのである。 了
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